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テキサス州の歴史 - Wikipedia

テキサス州の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメリカ合衆国の一部としてのテキサス州の歴史は、1845年に始まったが、この地域に人が住んだ集落については、後期旧石器時代までさかのぼる。その歴史は、スペインフランスメキシコテキサス共和国アメリカ連合国アメリカ合衆国の、6つの独立した国々の一部として形作られている。1820年代から、アメリカ人とヨーロッパ人の移民はこの州に入りはじめて、1836年、テキサスのヒスパニックテハーノらと共に彼らはメキシコに対して反乱を起こし、侵略軍を打ち負かした。独立国家としての10年間の後、テキサス州は1845年に合衆国に加わった。西部開拓者の州は、大規模な牛の放牧と綿花農業によって特徴づけられていた。20世紀に入ると急激に成長し、1994年には米国で二番目に人口の大きい州となり、ハイテク産業を基盤にして経済上極めて多角的になった。州は、アメリカ南部、テハーノ、アフリカ系アメリカ人ドイツのそれぞれの文化の交流で形成されている。

目次

[編集] テキサスの先住民

現在のテキサス州境内に一度でも住んだことのあるネイティブアメリカンの部族は、アパッチアタカパ、ビダイ(Bidai)、カド、コマンチェ(Comanche)、チェロキー、カランカワ(Karankawa)、カイオワ、トンカワ(Tonkawa) 、ウィチタを含む。

現在、以下の3つの連邦政府承認のネイティブアメリカン部族がテキサス州に居住している。

[編集] 仏領テキサス

スペイン人が現在のテキサス州の南部境界に、ごく初期に名目上の部隊を送っていたとはいえ、最初にテキサスの主要な部分と中心地に定着したヨーロッパ人はフランス人である。しかし、フランス植民地は短命な存在で終わった。現在のアメリカ合衆国の内陸部を探険後帰国したフランス貴族のラ・サールは、メキシコ湾ミシシッピ川河口にフランス植民地を創ることを計画した。1684年、彼らは4隻の船と300人の入植者と共にフランスを離れた。 遠征は、海賊と敵意を抱くインディアン、それに下手な航行に苦しめられた。一隻の船はカリブ海の海賊によって奪われ、二番目の船はマタゴルダ湾の入り江に沈み、三番目の船はそこで座礁した。それでも彼らはビクトリアの近くに、セントルイス砦を建設した。

ラ・サールは、テキサスからミシシッピまでの最短のルートを見つけるべく、東方へ徒歩で三回遠征隊を率いた。三度目の遠征において、彼の36名の従は反乱を起こし、現在のナバソタに近い場所で、反乱者の中の4名によって殺された。植民地としてのセントルイス砦は、カランカワ語を話すインディアンによって残っていた20名の成人を皆殺しにし、5名の子供を捕虜にした1688年までしか持ちこたえられなかった。その遠征の悲運を知ったトンティは、1689年に偵察の使節を派遣したが、砦に生存者はいなかった。

テキサスの植民地の失敗にもかかわらず、スペイン人がこの地を植民地とした後もフランスはテキサスが自国領であると主張し続けた。テキサスの歴史におけるフランス領時代は、テキサスの州の標章と、伝統のあるシックス・フラッグス・オーバー・テキサス(テキサス州の6つの旗)の一番目(または二番目)として記念されている。

[編集] 主な出来事

  • 1529年:スペイン人探検家のアロンソ・アルバレス・デ・ピネダが、おそらくテキサス海岸の地図を描いた最初ヨーロッパ人となる。
  • 1528年-1534年:別のスペイン人探検家、アルバール・ヌニェス・カベサ・デ・バカは、交易のためにテキサスを6年かけて訪れた。
  • 1685年2月18日:ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが、マタゴルダ湾にセントルイス砦を建設。これによってテキサスのフランス領地化が確立する。
  • 1688年:フランス植民地(セントルイス砦)が大殺戮により壊滅。
  • 1689年:フランスの物理的な存在がなくなる。とはいえ、フランスはこの後70年間にわたりテキサスを領地と主張する。
  • 1762年:フランスはテキサスへの要求を捨て、40年間、スペインへルイジアナ州を譲渡する(1800年まで)。
  • 1800年8月1日:北テキサスの大部分がフランスに戻るが、後に1803年のルイジアナ買収でアメリカ合衆国へ売られる。

[編集] スペイン領テキサス

フランスの植民化の失敗は、世界中に知れ渡った。その一年後、スペイン人はテキサスに入植したが、これはニュースペインの富からは距離のあるルイジアナにフランス人をとどめることが目的であった。テキサスは、フランスとスペイン両大国の領土要求の挟間で、重要ではあるが人口が希薄な緩衝地になった。テキサスはニュースペインの一部としてではなくスペイン植民地として統治され、スペイン領テキサス時代は、1690年から1821年の間続いた。この時代は、セントルイス砦のフランス植民地の廃墟を破壊して、新たに同じ場所にスペインによる実効支配地域を創設するための、コアウイラ州知事による遠征で始まり、1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなることで終わった。

17世紀と18世紀には、スペインとフランスはテキサス州の支配を画策し、スペインはメキシコとニューメキシコ州に、フランスはルイジアナ州に基礎を置いた。スペインの動きは早く、開拓地の足がかりを創るための一連の伝道団体(しばしば軍隊を伴い)を創設し、ヨーロッパでの四国同盟-スペイン戦争の間、戦闘は新世界に拡大した。ナケテシュからのフランス部隊はあっさりとテキサスの首都及びロス・アダエス(現在の北西ルイジアナ)を占領した。フランスは力でスペインからテキサスの支配を奪い取ることはできなかったので、19世紀初めのルイジアナ買収で、この北米の領地をアメリカ合衆国に売却したため、スペインのテキサス支配に対する脅威は米国が取って代わった。

ルイジアナ買収と米国によるニューオーリンズの取得を受けて数年後には、アメリカ人入植者は西へ移動し始め、メキシコが自国領であると主張する地域へ入った。何人かの入植者は活発なフィリバスター(Filibuster, 正規ではない兵士)で、彼らはアメリカ合衆国による長期間の併合を目論んでおり、1812年から1813年のグティエレス=マギー遠征 (Gutiérrez-Magee Expedition) は、スペイン帝国からテキサスを分断させる企てであった。

[編集] 重要な出来事

  • 1690年:アロンソ・デ・レオーンは、東テキサスに伝道団体を創設するためにリオ・グランデ川を渡り、オールド・サンアントニオ・ロードを切り開く。
  • 1700年〜1799年:スペインは18世紀、テキサスの至るところにカトリックの伝道団体を創る。

[編集] メキシコ領テキサス

メキシコ領テキサスはテキサス史の研究家が、1821年から1835年の間の時代を要約して付けた名で、テキサスがメキシコの一部、コアウイラ・イ・テハス州であった時代を指す。この時代は1821年のメキシコ独立革命スペインに対するメキシコの勝利に始まり、1836年のメキシコからのテキサス独立宣言で終わる。

リオ・グランデ川と南テキサスのエリアには、中央メキシコ政府による統一された目に見える独裁と違憲行為の理由で、当地のメキシコ人たちによる独立運動の長くて波乱の歴史がある。その一方で、北テキサスと東テキサスの大部分はネイティブアメリカンの部族の手中にあり、彼らの一部はスペインとそしてメキシコの統治に敵意を抱いていた。

1820年代、テキサスの人口は非常にまばらで、メキシコ政府はこのエリアにメキシコ人を引き入れるのが難しかった。そこで、テキサスに人を住ませ発展させるために、メキシコはヨーロッパから、特に隣接した米国から、入植者を探した。メキシコがスチーブン・F・オースチンとの合意に達した時、米国からの数百の家族(テキサンとして知られる)のテキサスへの移住を許可した。

数千人の追加入植者はすぐにテキサスに殺到した。メキシコが全国的に奴隷制を廃止した時、一部の米国からの移民は法に従うことを拒否した。これはメキシコ・シティの中央政府による、領地の政治的経済的支配の締め付けについての不満に結び付いた。米国からの入植者のほとんどがプロテスタントであるのに対して、メキシコ中央政府は、住民たちにカトリック教会のよき信者であることを望んだ。

1835年、メキシコ大統領のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナは、1824年憲法を廃止して、メキシコ・シティに国家権力を集中させようと試みた。これは、サカテカス州での反乱とそれによる大虐殺の例のように、メキシコの至るところに多くの政治的な動揺を引き起こした。結果として、テキサスの領地の政治的、経済的な支配を強める新しい政府の取り組みは、後にテキサス革命を率いるテキサン入植者と地元のテハーノの感情を目覚めさせるだけだった。

[編集] 重要な出来事

  • 1823年1月3日:スチーブン・F・オースチンは、現在のフォートベンド郡とブラゾリア郡の、主に現在のシュガーランドのエリアを中心とした、ブラソス川流域への300の家族の入植を開始させた。この家族たちは、オールド・スリー・ハンドレッドとして知られるようになった。
  • 1832年6月26日:ベラスコの戦いでは、テキサス革命の進展での最初の犠牲者を出した。
  • 1832年〜1833年:1832年と1833年の議会は、メキシコ政府の統治の政策への動揺の増加に対応した。テキサンを最もいらだたせた政策には、メキシコでの奴隷制の廃止、テキサン入植者の強制的な武装の縮小、そして米国からの不法な移民の追放を含んでいる。サカテカス州での、セントラリスタの軍の反体制派への抑圧の例は、メキシコ政府の恐怖をいっそう引き起こした。

[編集] テキサス共和国

現代のテキサス州の最初の独立宣言は、白人のテキサス入植者と地元のテハーノの両者によって、ゴリアドで1835年12月20日に契約された。テキサス独立宣言は、ワシントン・オン・ザ・ブラゾスにて1836年3月2日に成立し、事実上のテキサス共和国の創立となる。

この4日後、2週間続いたアラモの戦いは、メキシコの総督アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナの軍が、小さな伝道所(ミッション)を防御したほぼ200人のテキサンを打ち負かして終わる(この場所が、現在のサンアントニオ市の中心部となる)。「リメンバー・ザ・アラモ」がテキサス革命のスローガンとなった。サンジャシントの戦いは1836年4月21日に、現在のヒューストン市の近くで開戦した。総督のサンタ・アナの1600名の全軍は、テキサスの総督サミュエル・ヒューストンの800名のテキサス軍によって殺されたか捕らえられ、テキサス軍の死者はたったの9名のみだった。当時のメキシの最高権力者が、戦場で捕らえられたことにより、この戦いは決定なものとなる。サンタ・アナは捕虜としてテキサスに有利な条約(ベラスコ条約)に署名することとなり、メキシコからのテキサス独立を引き起こした。

バージニア州出身のサミュエル・ヒューストンは、1836年から1838年、1841年から1844年の離れた期間にテキサス共和国の大統領を務めた。彼は、1859年から1861年にかけてテキサス州の知事も務めている。テキサス共和国の最初の議会は、1836年8月、コロンビア(現在のウエストコロンビア)で開催された。「テキサスの父」として知られるスチーブン・F・オースチンは、新しい共和国の州の大臣を2ヶ月務めた後、1836年12月27日に死亡する。1836年には、5つの場所(ワシントン・オン・ザ・ブラゾスハリスバーグガルベストン、ベラスコ、コロンビア)が一時的にテキサスの首都とされ、その後1837年、サミュエル・ヒューストンは首都をヒューストンに移す。1839年、首都は新設されたオースティンに移される。

共和国の内政は、二大政党制を基本とした。ミラボー・B・ラマー率いる国家主義者の党派は、継続したテキサスの独立、ネイティブアメリカンの追放、そして太平洋までのテキサスの拡張を擁護した。サミュエル・ヒューストンが率いる反対勢力は、米国へのテキサスの併合と、ネイティブアメリカンとの平和的な共存を擁護した。最初の共和国の旗は、「バーネット・フラッグ」(青色の地に金色の星)だったが、その後すぐにローン・スター・フラッグが公式に採択された。

テキサス共和国は米国、フランス、英国、オランダ、そしてユカタン共和国から、外交上の承認を受けた。1837年には米国が承認し、同年にはテキサスが、米国との併合を打診しているが、受け入れられなかった。メキシコは、先の大統領サンタ・アナが拘束された状態で署名したベラスコ条約は、到底認められるものではなかったため、テキサス共和国を承認しなかった。

[編集] 重要な出来事

  • 1835年10月2日:テキサス軍はゴンザレスの町で、メキシコの騎馬隊と戦い、実際の革命が始まった。
  • 1835年10月28日:コンセプシオンの戦いで、90名のテキサス軍が450名のメキシコ軍に勝利。
  • 1836年3月2日:1836年議会で、メキシコの統治の明確な断絶を表明したテキサス独立宣言が採択された。
  • 1836年5月14日:テキサス共和国政府とメキシコ総督サンタ・アナの間にベラスコ条約が契約される。

[編集] 合衆国の州

1845年2月28日、米国議会は、米国がテキサス共和国を合併することを認可する法案を可決。同年3月1日には、米国大統領ジェームズ・ポークが法案にサインした。法律は、合併の日付けを同年12月29日に制定した。同じ年の10月13日、テキサス共和国の有権者の大多数は、米国議会が通した法案を承認し、その日のうちにテキサスを米国の州として併合した(このため、領土の話は据え置きにされた)。テキサス政府には巨額の借金があり、米国が併合によって肩代わりすることに同意したことが、併合の大きな動機である。1850年、この借金の肩代わりのお返しに、テキサスによって要求された領地の大部分(現在のコロラド州カンザス州オクラホマ州ニューメキシコ州ワイオミング州)は、連邦政府によって割譲された。

当初、米国はテキサスへの併合に難色を示した。それはテキサス共和国が、1824年のメキシコ憲法で奴隷を禁止し、さらには1829年に奴隷制の廃止が発令されていた当時、奴隷制に賛成していたためである。それにもかかわらず合併に踏み切ったのは、英国がテキサスと親しく接近し始めたことと、併合推進派の南部人が米国議会で力を持ったためである。

併合の決議には、いくつかの不正確なトピックがある。それは主に、この決議は主権のある州の間の条約であり、テキサス州を北部連盟から脱退させるために露骨に認めてやったもの、という話である。これはいくつか論争されている点である。当時、そして南北戦争の終結まで、これはそれとなくすべての州が保持していた権利ではあった。しかし、どの権利についても、決議で明らかには列挙されなかった。それが言われていて、決議には2つのユニークな条項が含まれていた。まず最初に、州を最大5つの州に分割する権利(これは決してまともに検討されなかった提案である)を、テキサス新州に与えた。それから2番目には、テキサス州は連邦政府に公有地を提供する必要がなかった。従って、テキサスの中での唯一の連邦政府所有地も、実際に政府によって購入された。そして、この国有地における広大な石油の発見による収益は、州立大学に供給された。

[編集] 重要な出来事

  • 1845年2月28日:テキサスが同意するなら、合併するという共同決議が議会を通過し、タイラー大統領は承認した。
  • 1845年10月13日:テキサスの有権者が併合に投票する。
  • 1845年12月29日:テキサスは州として合衆国に承認された。
  • 1850年9月9日:1850年協定によって境界線を調整し、テキサスの1000万ドルの負債を引き受ける。コロラド州カンザス州オクラホマ州ニューメキシコ州ワイオミング州が必要とされた。
  • 1861年2月1日:「脱退会議」が行われ、171対6で脱退の法令を提出することが投票によって決まる。

[編集] 南北戦争とレコンストラクション(1860年〜1876年)

テキサス州は、1861年2月1日に合衆国を脱退して、1861年3月2日にアメリカ連合国に参加した。1863年中頃に北軍がミシシピ川を占領し、人間、ウマ、ウシの移動を不可能にするまで、テキサス州は主にアメリカ連合国の「供給州」であった。テキサス連隊は、戦争中のあらゆる主要な戦いで戦闘をした。

南北戦争の最後の一戦(パルミート・ランチの戦い)は1865年5月12日にテキサスで交えられた。

クランピット(2005年)は、1865年4月の南部連合の崩壊後、南部同盟テキサスのミシシッピ横断連隊の軍人は未熟であったことを示唆する。低いモラル、規律の欠乏、そして多くの脱走のため、連隊は解散し、脱走兵たちは故郷に向かう時、公共物も私物も略奪した。そのうえ、戦争の大きな作戦に参加していないこと、彼らの犠牲が無駄になっているという感覚、および16ヶ月以上も支払われていなかった事実のすべてにより、元軍人たちは政府の財産を取る資格が与えられていると感じた。しかし「供給州」であったテキサスのほとんどの軍人は、リー率いる北バージニア軍などの軍隊で立派に振舞った。

[編集] レコンストラクション

南部同盟が崩壊したというニュースが1865年6月19日にガルベストンに届いたとき、解放された奴隷たちは歓喜し、ジューンティーンス(juneteenth)の祝賀を作った。テキサス州は戦争によって少ししか苦痛を受けなかったが、貿易と財政は混乱した。怒った帰還兵たちは州の財産を強奪し、テキサスは暴力と混乱の期間に直面した。非道な行為が北テキサスで行われ、インディアン居留地に本拠地がある無法者たちがこれを遂行し、誰彼かまわず略奪し殺した。アンドリュー・ジョンソン大統領は1865年6月17日、北部連盟の総督、A・J・ハミルトンを暫定的に知事に任命した。ハミルトンは、戦前の傑出した政治家だった。彼は、元南軍の人々に、将来北軍を支持することを約束したら恩赦を行うと公式に約束した。1870年3月30日に、テキサスはすべての必要条件を満たしたというわけではないが、合衆国議会はテキサスを北軍連盟へ再承認した。

[編集] 重要な出来事

  • 1861年2月23日:脱退法令における州全体の選挙で、テキサス人は、4万6129対1万4697(76%の得票)でユニオン(連盟)を脱退するのに投票した。南部連合への忠誠の誓いを立てるのを拒否したサミュエル・ヒューストンに代えて、「脱退議会」はすぐに政府を組織化した。
  • 1862年8月1日:南部同盟の部隊は、「ニュエセスの大虐殺」で34人の親連盟派のドイツ人のテキサン民間人を殺す。
  • 1865年6月19日:北部連盟部隊は、テキサス州ガルベストンに到着し、奴隷解放宣言の効力を発揮した。
  • 1870年3月30日:米国議会はテキサスを再承認した。

[編集] テキサスの繁栄、不況、戦争(1914年〜1945年)

経験豊富な掘削技師のアンソニー・F・ルカスは、1901年1月10日の朝、テキサス州ボーモントの南の小さい丘、スピンドルトップに初めて大油田に穴を開けた。1930年10月5日に発見された東テキサス油田(East Texas Oil Field)は、州の東中央部に位置し、隣接する国の中では最大の規模で最も豊富な量のオイル・リザブワー(石油の貯蔵庫, Oil Reservoir)である。他の油田は後に西テキサスとメキシコ湾の下に発見された。結果として起こった石油ブームは、テキサス州の経済を一変させて、南北戦争後の甚大な経済拡張を及ぼした。

南北戦争以来顕著な回復をした経済は、大恐慌とダストボウルによって二重の打撃を受けた。1929年の株式市場暴落の後、経済状況は大きく反落し、何千人もの都市労働者が失業し、FERA、WPA、CCCなどの合衆国の救援プログラムに頼ることになった。綿花と家畜の価格が急激に下落して、農民と牧場主は特に大きな打撃を受けた。1934年から1939年まで、烈風と干ばつの天災は、テキサス州とアーカンザス州、オクラホマ・パンハンドル地域とその周囲の平野から集団移住を引き起こし、50万人以上のアメリカ人が家と職を失なって飢えた。数千の人々はこの地域を永久に去り、ビジネス・チャンスを西海岸に求めた。第二次世界大戦の直前から戦時中、テキサスの既存の軍事基地は拡大し、多くの新しい訓練基地、特に航空の訓練のための基地が作られた。多くのアメリカの(あるいは同盟国の)軍人、船員、パイロットがこの州で訓練し、これらの軍事施設により経済も再び繁栄した。

[編集] 重要な出来事

  • 1900年9月8日:カテゴリ4のハリケーンがガルベストンに上陸。8000人が死亡し、都市と経済を破壊した。
  • 1901年1月10日:ルカス油井がスピンドルトップにできて、テキサス石油ブームが始まる。

[編集] テキサスの近代化(1945年〜現在)

テキサスは、1950年から1960年代まで、高等教育のシステムを近代化して、劇的に拡張させた。ジョン・コナリー知事のリーダーシップのもとで、州は高等教育のための長期計画、より合理的な資源の配分、そして州の公共機構をより高い効率で経営する中央州機構を作成した。これらの変化により、ケネディとジョンソン政権の間、テキサスの大学は研究開発のための連邦助成金を受け取った。

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