チャック・イェーガー
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チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガー少将 (Major General Charles Elwood "Chuck" Yeager、1923年2月13日 - ) は、アメリカの軍人。第二次世界大戦のエース・パイロット。世界で初めて水平飛行で音速を超えて生きて帰ってきた人物として有名。
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[編集] 生涯
[編集] 前半生
イェーガーは、ウェストバージニア州リンカーン郡マイラの貧しい家庭に生まれた。1939年、陸軍に入隊し、飛行機の整備士となる。1942年にはパイロットの試験に選抜され、優れた資質を見せた。1944年、イェーガーはイギリスに派遣され、P-51のパイロットとして戦闘に参加。同年3月5日にフランス上空で撃墜されたが、イェーガーはどうにかスペインへ逃れた。イェーガーは戦闘機パイロットへの復帰を希望したが、当時の軍の規則では、敵地上空で撃墜されたパイロットの復帰は許されていなかった。イェーガーは司令部に必死に復帰を訴え、しばらく機銃手を務めた後、パイロットに復帰し、第363戦闘飛行隊に配属された。
イェーガーは優れた視力と操縦技術、指揮能力を発揮した。1944年10月12日には、ただ1度の戦闘で5機撃墜を達成し、これにより、アメリカ軍最初の「1日で達成されたエース・パイロット」 (ace in a day) の称号を得たパイロットとなった。終戦までにイェーガーは11.5機を撃墜した。その中にはジェット戦闘機Me262の初撃墜も含まれている。
1945年2月26日、イェーガーはグレニス・ディックハウス (Glennis Dickhouse) と結婚した。彼女との間は4人の子供をもうけた。彼女とは1990年に死別した。その後、イェーガーは36歳年下のヴィクトリア・スコット・ディアンジェロ (Victoria Scott D'Angelo) と再婚した。
[編集] 音の壁への挑戦
戦後、空軍に残ったイェーガーは、NACA (NASAの前身) の高速飛行計画に基づいて作成された機体ベルX-1 (当時の呼称はXS-1) のテスト・パイロットに選出された。
1947年10月14日、通算50回目の飛行でイェーガーが搭乗するXS-1は高度6,100 mで母機から切り離され、2基のエンジンに点火して緩上昇に移行。続いて残りの2基にも点火し、高度10,670 mをマッハ0.92で通過した。高度12,800 mに到達する前にエンジン2基をオフにして水平飛行に移り、その後再びエンジンを1基オンにして計3基で水平飛行を行った。その結果マッハ1.06を記録、人類初の有人超音速飛行となった。音速突破時には予想されてた衝撃波による振動もほとんど無く、意外なほどにあっさりと音速を越えてしまったという。
イェーガーは音速突破をおこなう2日前の12日の夜間に乗馬していたところ、落馬し肋骨を骨折していた。イェーガーは当日、痛む患部を隠しながらXS-1に搭乗しようとしたが、XS-1の搭乗口を閉めるには前かがみになる必要があり、骨折している身には困難なことであった。しかし、そのことが周りに知れればテストパイロットから降ろされることは明らかであったため、イェーガーは同僚のジャック・リドレイ大尉にのみ事実を伝え、どうすればいいか相談をした。リドレイはモップの柄によって搭乗口を閉めることを提案し、無事イェーガーはXS-1の搭乗口を閉めることができた。このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれている。
なお、この時イェーガーがXS-1につけていた愛称は"グラマラス・グレニス (Glamorous Glennis)"である。グレニスは前述のとおり妻の名前であり、彼は戦闘機パイロット時代(つまり、結婚前)から、自分の乗る機体にはこの愛称を付けていた。現在、このXS-1"グラマラス・グレニス"はワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館に展示されている。
その後もイェーガーは最高速度記録を塗り替え続けた。1947年11月6日にはマッハ1.36、1948年3月26日にはマッハ1.45を記録した。彼はまた、日本に亡命してきたMig-25を最初に操縦するパイロットも務めた。1953年からはX-1に関わったスタッフと共に、水平飛行でマッハ2の突破を目指す計画に参加した。しかし、11月20日にNACAが製作したダグラス・スカイロケット(D-558-II)とパイロットのスコット・クロスフィールドが、先にこの記録を達成した。イェーガーとリドレイは、この記録を打ち破ることを誓い、"Operation NACA Weep"と名づけて挑み続けた。1953年12月12日、イェーガーはベルX-1Aでマッハ2.44を記録し、最速の男の称号を取り戻した。なおX-1Aがマッハ2.44を記録した直後機体は左に傾き、その後錐もみ状態で落下を始め、あわや墜落かという状態になったが、高度8,800 mあたりで機体を立て直すことに成功し、墜落は免れた。
[編集] 後半生
1962年から、イェーガーはNASAと空軍のパイロットを養成する学校 (USAF Aerospace Research Pilot School) の校長を務めた。1963年12月10日、イェーガーはNF-104による高度記録達成に挑んだが、トラブルが発生して墜落した。しかし、イェーガーは無事だった。早々に復帰した彼は、翌年の1月29日には、リフティング・ボディの実験機であるM2-F1の試験飛行を行っている。この実験には、1963年12月3日、および1964年1月29日、1月30日の五回に渡って参加した。
1966年、ベトナム戦争が進行する中で、イェーガーは南ベトナムおよび東南アジアを担当する第405戦闘飛行隊の指揮を任じられた。120の作戦に参加し、414時間の飛行時間をB-57の機上で過ごした。1968年、イェーガーは准将に昇進し、翌年の7月には第17航空軍の副指揮官を任じられた。1975年、ドイツ、次いでパキスタンで勤務した後、ノートン空軍基地で退職した。しかし、エドワーズ空軍基地での空軍およびNASAのテストパイロットとアドバイザーは続けた。
1997年10月14日、イェーガーの音速突破50周年記念式典が開かれることとなった。イェーガーは"グラマラス・グレニス"と名づけたF-15Dに乗り込み飛び立った。かつてX-1が音速を突破した時と同様に、ロバート・"ボブ"・フーバーがF-16に乗ってイェーガーを先導した。10時29分、イェーガーの操縦するF-15Dは、フーバーのF-16を追い越し、50年前と同じように音速を突破した。これがイェーガーの空軍における最後の公式飛行となった。スピーチの終わりを彼はこう締めくくった。"All that I am...I owe to the Air Force."
イェーガーは大学に進学せず、高度な教育を受けたわけではなかったが、素晴らしいパイロットだった。自身は高等教育と縁がなかったが、故郷のウェストバージニア州の教育振興に力を尽くした。マーシャル大学には、彼の名を冠した奨学金制度 "Society of Yeager Scholars" が設立された。また、チャールストンのイェーガー空港は彼の名前に由来している。さらに、南チャールストンの州間高速道路77号上のカナウハ川にかかる橋は「チャック・イェーガー将軍」と呼ばれている。イェーガーはEAA (Experimental Aircraft Association) の Young Eagle Program のチェアマンでもある。イェーガーはスペースシャトルチャレンジャーによる爆発事故(STS-51Lミッション)の際の大統領調査に協力した。
2005年、イェーガーに少将の階級が送られた。現在、イェーガーはカリフォルニアのグラスバレーに住んでいる。
[編集] ライトスタッフ
イェーガーはトム・ウルフのドキュメンタリー小説「ライトスタッフ」および同書を原作とした映画の主人公の一人となった。映画ではイェーガーはテクニカル・アドバイザーとして製作に参加し、自身もカメオ出演している。ただし、映画には演出上、史実と異なる部分が存在する。X-1は(3号機がベル社の社内試験中に爆発したことはあったが)実際には墜落事故を起こしていないし、直前にイェーガーがパイロットとして選ばれたというのもフィクションである。NF-104が飛行する際にイェーガーが飛行許可を取らなかったというのも事実ではなく、ロシアの高度記録を破る許可を得なかったというのが正解である。ただし、上記のように骨折したままX-1に乗ったのは事実であるし、射出座席によって頭と腕に三ヶ所の火傷を負ったのも事実である。
人類初の音速突破に関しては、ドイツ人のハンス・ギド・ミュッケ (Hans Guido Mutke) が、1945年4月9日にメッサーシュミットMe262で音速を破ったとの主張があるが、こちらは信憑性が薄い。一方、アメリカ人のジョージ・ウェルチ (George Welch) が、イェーガーが音速を突破する二週間前の10月1日に、XP-86で音速を破ったという説もあり、こちらは信憑性が高い。彼は10月14日10時29分のちょうど30分前にも音速飛行を行ったとされている。この件についてアメリカ空軍は、イェーガーとX-1は"水平飛行"で音速を突破した最初の例だと述べている。これはイェーガー以前に音速が突破されていたという意味に取れる。
[編集] 関連項目
[編集] 関連リンク
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