セルゲイ・ハリトーノフ
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セルゲイ・ハリトーノフ | |
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基本情報 | |
あだ名 | ロシア軍最強の男 |
階級 | PRIDEヘビー級 |
誕生日 | 1980年8月18日 |
出身地 | ロシア・アルハンゲリスク |
現在地 | ロシア |
スタイル | コマンドサンボ ボクシング |
戦績 | |
総試合数 | 16(PRIDE他) 06/9/10現在 |
総勝利数 | 13 |
KO勝ち | 6 |
一本勝ち | 6 |
判定勝ち | 1 |
総敗北数 | 3 |
KO負け | 2 |
一本負け | 0 |
判定負け | 1 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
セルゲイ・ハリトーノフ(Сергей Xаритoнoв,Sergey Kharitonov、1980年8月18日 - )は、プロ総合格闘家、ロシアのパラシュート部隊に所属する現役軍人。総合格闘技大会、PRIDEを主戦場に活躍する。ロシア連邦アルハンゲリスク出身。身長194㎝、体重106㎏。
モスクワの小さな総合格闘技大会に出た際、ヴォルク・ハンにスカウトされ、リングス・ロシア(ロシアン・トップチーム)入り。エメリヤーエンコ・ヒョードルがレッドデビルに移籍した後は、ロシアン・トップチームのエースとして活躍する。
バックボーンはコマンドサンボ、ボクシング。特にボクシングの技術は、ミルコ・クロコップをして「相当高い」と言わしめるほどで、ボディーブローの威力は抜群。『PRIDE GP 2004』で対戦したアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは試合後「あんな強烈なボディブローは受けたことがない」と絶賛した。また、プロ入り前にロシアのアマチュアボクシング・ナショナル大会で、準優勝した経験を持つ。その実力を買われ、タジキスタンのアテネ五輪ボクシング代表にノミネートされたこともある。しかし、過去のインタビューで「ボクシングは遊び程度しかやったことがなく、専門的に練習し始めたのはPRIDEに参戦してから」と発言している。実際には父親がボクシングのトレーナーで、幼少の頃から軽い手ほどきは受けていたようだ(ちなみに母親はバレーボールのトレーナー)。
プロになった現在も、ロシア軍第106親衛空挺師団に所属する、現役の軍人である。入場時も空挺師団の軍服を着用する。ちなみに出張扱いで来日している。
極端な秘密主義者で、自分の練習内容や作戦、軍隊の事を絶対に明かそうとしない。口癖は「シークレットだ」「それは次の試合で明らかになる」「私が作戦を全て明かすのは、引退して年金生活者になった時だ」。
ハリトーノフが一躍脚光を浴びたのはセーム・シュルト戦である。マウントを奪ったハリトーノフは、脚を使ってさらにシュルトの動きを封じ、無表情でシュルトの目に向かって執拗に鉄槌を繰り返しKO勝ちを収めた。シュルトの目は腫れ上がり出血がひどく、試合会場の大スクリーンでこの場面が映し出された時、観客は戦慄を感じた。この回のプライドは地上波放送されていたのだが、この試合は地上波に映すには残虐性が高い為、ダイジェスト版しか放送されなかった。
『PRIDE GP 2004』でベスト4入りを果たし大躍進。冷静かつ残酷な試合運びで、ファンの支持を集めた。エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ミルコ・クロコップに次ぐ存在と目されていたが、2006年2月26日の『PRIDE.31』でミドルから増量したアリスター・オーフレイムとの対戦でテイクダウンの際に肩を脱臼すると言うアクシデントに見舞われた事もあり、完敗。ノゲイラ戦でも指摘されたスタンドでのレスリング技術、グラウンドで下になったときの技術に難があるとの弱点を露呈。復帰戦となったエメリヤーエンコ・アレキサンダーとの試合でもKO負けし、トップ争いから後退したと見られている。 まだ若く、上記のようにノゲイラやミルコ等、多くのトップ選手から実力を認められているだけに、弱点の克服も含め再起が期待される選手でもある。
試合内容は冷酷といわれるが、普段は気さくな人物である。また、小さい頃はアコーディオン奏者になりたかったらしい。
偶然なのか、それとも徹底的に叩きのめされたためか、PRIDEで彼に敗れたほとんどのファイターは、それ以降PRIDEのリングに上がっていない。
[編集] 戦績
- 2003年10月5日、『PRIDE武士道』にてデビュー。ジェイソン・信長(ジェイソン・サティー)と対戦し、1R2分24秒、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
- 2004年2月1日、『PRIDE27』において、プロレスラーのLA・ジャイアントと対戦、1R1分23秒、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
- 2004年4月25日、『PRIDE GP 2004 1st ROUND』において、ムリーロ・ニンジャと対戦、1R4分14秒、右フック、左アッパーでKO勝ち。
- 2004年6月20日、『PRIDE GP 2004 2nd ROUND』において、セーム・シュルトと対戦、マウントパンチの連打で1R9分19秒、TKO勝ち。
- 2004年8月15日、『PRIDE GP 2004 FINAL ROUND』において、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦、2R終了3-0で判定負け。
- 2005年2月20日、『PRIDE29』で、チェ・ム・ベに1R3分23秒、パンチの連打でKO勝ち。
- 2005年6月26日、『PRIDE GP 2005 2ndROUND』において、UFCの強豪、ペドロ・ヒーゾと対戦、スタンドの打撃で圧倒し、1R2分2秒KO勝ち。
- 2005年8月20日、リングス・ロシアの重鎮であるニコライ・ズーエフが立ち上げたリングス・エカテリンブルグの旗揚げ戦に参戦。フランスのピーター・ムルダーに1R、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
- 2005年10月23日、『PRIDE30』で、ファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦。ヴェウドゥムの執拗な寝技の前に大苦戦し、辛くも3R判定2-1で勝利。
- 2006年2月26日、『PRIDE31~Dreamers~』において、アリスター・オーフレイムと対戦、試合開始直後に肩を脱臼した事もあり、1R5分13秒、サイドポジションからの膝蹴り連打で、自身初のKO負け。
- 2006年9月10日、『PRIDE無差別級GP2006 FINAL ROUND』において、かつての同門であるエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦するも、1R6分45秒KO負け。復帰戦を飾ることはできず、2006年に入ってから2連敗となった。