サイレンススズカ
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![]() 天皇賞(秋)本馬場入場時のサイレンススズカ (1998年11月1日、東京競馬場にて撮影) |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1994年5月1日 |
死没 | 1998年11月1日 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | ワキア |
生産 | 稲原牧場 |
生国 | 日本(北海道平取町) |
馬主 | 永井啓弐 |
調教師 | 橋田満(栗東) |
競走成績 | 中央 15戦9勝 香港 1戦0勝 |
獲得賞金 | 4億5598万4000円 +23万1000香港ドル |
サイレンススズカ(Silence Suzuka、香港表記:無聲鈴鹿)は日本の競走馬。主な勝ち鞍は宝塚記念。1998年JRA賞特別賞受賞。同年6連勝で臨んだ天皇賞(秋)にて故障、予後不良となって府中に散った快速馬である。
目次 |
[編集] 出自
1993年の種付けシーズンに、当初生産者は母ワキアにバイアモンを種付けしたが受胎しなかった。そこで同年春のクラシック戦線で産駒が大活躍したトニービンを配合しようとしたが、種付け当日のトニービンの予定は既に埋まっていた。繁殖牝馬の発情の機会は一度逃すと、次がいつになるかわからない。そこで、当時まだ産駒がデビューしておらず種牡馬としての実力は未知数であったが、社台スタリオンステーションが推薦したサンデーサイレンスを種付けした。
牧場時代のあだ名は母の名から「ワキちゃん」。父に似ず栗毛だったことで心配されたらしいが、同じ栗毛のイシノサンデーがGI皐月賞を勝ったことで安心したという。育成中は小柄でおとなしく牝馬のような馬体だった。走るのが大好きなのか、速く走れば早く休めると思っていたのかはわからないが、放牧地ではとにかく速く走っていたという。
[編集] 現役時代
[編集] 4歳時
育成牧場では成長に合わせてじっくりと鍛えられ、3歳の冬になって栗東トレーニングセンターの橋田満厩舎に入厩した。調教では、後にオープンを勝つ5歳準オープンのアドマイヤラピスに併せ馬で先着し、坂路では破格の一番時計を出すなど、いずれもこの時期の未出走馬としては常識外れのパフォーマンスを見せ、すぐに関係者内で広く知られる存在となる。
デビューは1997年2月1日までずれ込んだが、2着に7馬身差の勝利。調教師の橋田には、新馬戦ではなくいきなり500万条件の特別に出走させる考えもあったといい、陣営の自信のほどが窺われる。この年のサンデーサイレンス産駒に大物が不在だったこともあり、この勝利のインパクトの大きさから、「遅れてきたサンデーサイレンスの大物」、「ダービーはこの馬」とまで評価された。その勢いを駆って、皐月賞への優先出走権を獲得すべく、2戦目にしてトライアルの重賞弥生賞に出走したが、担当厩務員が傍を離れて不安を覚えたか、ゲートをくぐったため外枠発走となり、その後の発馬では大きく出遅れ、詰めるだけでも困難なほどの差を先行馬群につけられる。しかし、そのまま最後尾を一周してくるだけのレースと思われた予想を裏切り、3コーナーで先行する馬群に追いつき、4コーナーでは3番手に進出する。さすがに最後は力尽きてランニングゲイルの8着に敗れ、皐月賞への出走は叶わなかったものの、負けてなお、その高い能力を示す内容であった。その後自己条件の500万下、日本ダービートライアルのプリンシパルステークスを連勝し、東京優駿(日本ダービー)に出走する。しかし陣営が抑えて走ることに執着したことが裏目にでたのか、サニーブライアンの9着に敗れた。この反省から陣営は抑える競馬を捨て、逃げに活路を見出すことになった。
秋初戦は神戸新聞杯に出走する。直線も半ばで後続に大きな差がついており、鞍上の上村洋行は勝ったと思い追うのをやめてしまったところ、この年の菊花賞優勝馬となるマチカネフクキタルの強襲によって2着に敗れてしまう。このため、デビューからここまで主戦騎手を務めてきた上村は降板させられる。次走は距離適性や気性の問題などから菊花賞ではなく、天皇賞(秋)を選択し、鞍上は河内洋に変更された。ここでは1000m通過が58秒5の大逃げで見せ場は作るものの、勝ったエアグルーヴから1秒差の6着に敗退する。しかし、境勝太郎元調教師が雑誌で「来年はGIを勝てる馬だ」と予言する。次走マイルチャンピオンシップでは鞍ズレというアクシデントもあり、生涯で唯一の2桁着順となる15着に敗れた。その後香港に遠征し香港国際カップに出走。同日の香港マイルの勝ち時計を上回る1600m通過タイムで逃げるが、体調不良にもかかわらず出走したためか、失速し5着に敗れる。
4歳時の成績は決して一流馬のものではなく、見せ場は作るが結果はさっぱり、といったものであった。しかし、香港国際カップで騎乗した武豊はサイレンススズカの類まれな素質に気づき、もう一度だけこの馬に乗せてもらえないかと申し出たという。そして、この1年目に培った「大逃げ」というレーススタイルと、香港遠征で組んだ武豊とのコンビが、翌年の快進撃を導くこととなる。
[編集] 5歳時
年が明けて初戦のオープン特別バレンタインステークスを2着に4馬身差の勝利。武が重賞ではなくオープン特別のために東上するのは異例のことであった。その後中山記念、小倉大賞典(小倉競馬場の改修に伴う中京競馬場での時期を遅らせた代替開催)、金鯱賞と重賞を連勝。とりわけ金鯱賞でのパフォーマンスは圧巻で、マチカネフクキタルや後に香港国際カップを制するミッドナイトベット相手に現在の中距離戦では珍しい大差勝ちを中京2000mのレコードタイムのおまけつきで収めている。この時中京競馬場では、あまりの大差に4コーナーを回った時点で既に拍手と喝采が贈られ直線では大勢の観客から笑いがこぼれると言う珍事が起こった。ラジオたんぱのレース中継では、4コーナーを回る時に「さあ、拍手に見送られて~」と実況されている。
春競馬の総決算となる宝塚記念では、武がエアグルーヴに騎乗したため南井克巳に乗り替わった。この年見せた中距離での圧倒的パフォーマンスから、天皇賞(春)を制したメジロブライト、名牝エアグルーヴを抑え1番人気に支持される。南井が初騎乗であるということと距離を考えて金鯱賞に比べ抑えぎみな競馬ではあったが、ステイゴールド以下の追撃を3/4馬身しのいで逃げ切り、初のGI制覇となった。とはいえ※グリーンベルトの恩恵を受けているとも考えられ、今までのレース内容から考えれば少々納得のいかないレースであったのも否めない。一部では、南井が抑えずにいけば4コーナーで息を入れる時間が増えもっと楽に勝てていたとの声もあった。
※当時GIなどの週には、芝コースの内ラチが外されるレースがあり、内側の走路にグリーンベルトと呼ばれる痛みの少ない芝が生えそろっており先行馬に有利な条件となっていた。その後これは問題視され、この措置は廃止された。
秋初戦の毎日王冠は、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーといった2頭の無敗の4歳馬が出走するというハイレベルなメンバー構成となった。サイレンススズカは連勝中の勝ちっぷりや、直前の坂路調教でテレビ解説者が「速すぎる」と言うほどの時計を出していたことなどから、単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持された。レースでは1000m通過が57秒7のハイペースで逃げ、2着のエルコンドルパサーに2馬身半、3着のサンライズフラッグには2着からさらに5馬身の差をつけて貫禄の逃げ切り勝ちをおさめた。エルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義は「影さえも踏めなかった」とコメントしている。ハイペースで先行しながら、上がり3ハロン (600m) のラップタイムが、出走馬中で最速だったエルコンドルパサーからわずか0.1秒遅いだけであり、逃げ馬の常識を根底から覆す結果となった。レース後、武は「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然かわされる気はしませんでした」と語った。この勝利で中距離においては名実共に当時の最強馬となったといっても過言ではなく、宝塚記念で実力に疑問を投げかけていたファンや「勝って来たのは相手が弱かったから」と言っていたファンを黙らせた。これによりかねてから最大の目標にしてきた天皇賞(秋)に王手をかける形になった。
このレースは「3強対決」と大いに盛り上がり、GIIにもかかわらず東京競馬場には13万人の入場があり、通常GI勝利の際に行われるウイニングランが行われた。またこのサイレンススズカの圧倒的パフォーマンスに対し、当時の国際クラシフィケーション会議から日本のGIIとしては異例の122ポンドという高いレイティングが与えられた。
次走の天皇賞(秋)は、特殊なコース形態である東京2000mのコースで行われるため逃げ馬にとっては外枠を引くと不利なことが多いが、抽選の結果は絶好の最内1番枠からの発走となった。『平成10年11月1日東京11レース1枠1番』の“1並び”で、そのスピードからスポーツ新聞には、同日に開催されていたF1日本GPにかけて“F1ホース”と呼ばれていた。相手関係も、前年の優勝馬エアグルーヴがエリザベス女王杯に回り、毎日王冠で下したエルコンドルパサー・グラスワンダーは外国産馬のため当時の天皇賞への出走資格はなく、強力なライバルは不在ということで単勝1.2倍の圧倒的1番人気に支持された。
デビュー以来最高といっていい状態で出走したサイレンススズカは、前走を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうち3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と大きく引き離し、テレビの中継カメラが目いっぱい引かなければすべての出走馬が映り切らないほどであった。いつものパフォーマンスを考えれば勝利を疑う余地はなく、もはや多くの人の関心はいったいどのくらいのタイムで勝つのかというまでになっていたが、そこで悲劇は起きた。
3コーナーを過ぎ、東京競馬場の名物大ケヤキの辺りを過ぎたところで突然サイレンススズカが失速。左前脚手根骨粉砕骨折を発症し、競走中止。予後不良と診断され安楽死処分となった。これを府中の悲劇と呼ぶファンもいる。また、フジテレビの競馬中継を担当した塩原恒夫アナウンサーはレース中咄嗟に父の名にかけた沈黙の日曜日という言葉を発しており強い印象を残した。事実、このレースで1着のオフサイドトラップがゴールした時には殆ど声援がなく競馬場が異様な雰囲気に包まれていた。皮肉なことに、オフサイドトラップは本来母ワキアに種付けられるはずだったトニービン産駒だった。後に勝ったオフサイドトラップの時計(1.59.3)に関して武豊は、「スズカがそんなに早くバテる訳ない。やっぱり千切っていたね」という無念のコメントを残した。
粉砕骨折の詳しい原因はわかっておらず、武は「原因は分からないのではなく、ない」とレース後マスコミに対してコメントした。よく言われた意見は、皮肉にもサイレンススズカのあまりのスピードに骨が金属疲労のような症状を引き起こしレース中に爆発したというものである。レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、同じレースに出ていた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している(この日の晩、泥酔した武の姿が目撃されている)。なお、天皇賞(秋)の後はジャパンカップへ参戦し、翌年はアメリカへ遠征するプランがあった。
サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカのの評価はさらに上がることになった。中でもエルコンドルパサーは、この年のジャパンカップで勝利し、翌年はフランスのG1、G2で1勝ずつをあげ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着と健闘した。このエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカだけである。
サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられている。追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。
[編集] 競走成績
年月日 | 競馬場 | レース名 | 格 | 頭数 | 枠順 | 人気 | 着順 | 騎手 | 斤量 | 距離 | 馬場 | タイム | 着差 | 1着(2着)馬 |
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1997 02.01 | 京都 | 新馬 | 11頭 | 1 | 1 | 1着 | 上村洋行 | 55kg | 芝1600 | 良 | 1.35.2 | 1.1秒 | (パルスビート) | |
03.02 | 中山 | 弥生賞 | GII | 14頭 | 16 | 2 | 8着 | 上村洋行 | 55 | 芝2000 | 良 | 2.03.7 | 1.5秒 | ランニングゲイル |
04.05 | 阪神 | 500万下 | 500 | 12頭 | 5 | 1 | 1着 | 上村洋行 | 55 | 芝2000 | 重 | 2.03.0 | 1.1秒 | (ロングミゲル) |
05.10 | 東京 | プリンシパルS | OP | 16頭 | 11 | 2 | 1着 | 上村洋行 | 56 | 芝2200 | 良 | 2.13.4 | クビ | (マチカネフクキタル) |
06.01 | 東京 | 日本ダービー | GI | 17頭 | 8 | 4 | 9着 | 上村洋行 | 57 | 芝2400 | 良 | 2.27.0 | 1.1秒 | サニーブライアン |
09.15 | 阪神 | 神戸新聞杯 | GII | 11頭 | 8 | 1 | 2着 | 上村洋行 | 56 | 芝2000 | 良 | 2.00.2 | 0.2秒 | マチカネフクキタル |
10.26 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 16頭 | 9 | 4 | 6着 | 河内洋 | 56 | 芝2000 | 良 | 2.00.0 | 1.0秒 | エアグルーヴ |
11.16 | 京都 | マイルCS | GI | 18頭 | 10 | 6 | 15着 | 河内洋 | 55 | 芝1600 | 良 | 1.36.2 | 2.9秒 | タイキシャトル |
12.14 | 沙田 | 香港国際C | GII | 14頭 | 4 | 8 | 5着 | 武豊 | 56.5 | 芝1800 | 良 | 1.47.5 | 0.3秒 | Val's Prince |
1998 02.14 | 東京 | バレンタインS | OP | 12頭 | 12 | 1 | 1着 | 武豊 | 55 | 芝1800 | 良 | 1.46.3 | 0.7秒 | (ホーセズネック) |
03.15 | 中山 | 中山記念 | GII | 9頭 | 9 | 1 | 1着 | 武豊 | 56 | 芝1800 | 良 | 1.48.6 | 0.3秒 | (ローゼンカバリー) |
04.18 | 中京 | 小倉大賞典 | GIII | 16頭 | 14 | 1 | 1着 | 武豊 | 57.5 | 芝1800 | 良 | R1.46.5 | 0.5秒 | (ツルマルガイセン) |
05.30 | 中京 | 金鯱賞 | GII | 9頭 | 5 | 1 | 1着 | 武豊 | 58 | 芝2000 | 良 | R1.57.8 | 1.8秒 | (ミッドナイトベット) |
07.12 | 阪神 | 宝塚記念 | GI | 13頭 | 13 | 1 | 1着 | 南井克巳 | 58 | 芝2200 | 良 | 2.11.9 | 0.1秒 | (ステイゴールド) |
10.11 | 東京 | 毎日王冠 | GII | 9頭 | 2 | 1 | 1着 | 武豊 | 59 | 芝1800 | 良 | 1.44.9 | 0.4秒 | (エルコンドルパサー) |
11.01 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 12頭 | 1 | 1 | 武豊 | 58 | 芝2000 | 良 | 競走中止 | オフサイドトラップ |
[編集] 評価
死んだことでかえって過剰に神格化されている感はあるが、日本競馬史上最高の1頭というファンは多い。競馬関係者の評価も軒並み高く、中でも様々な名馬に乗った武豊がオグリキャップと並んで一番強い馬と発言している(ただし、ディープインパクトに乗る前の発言である)。また、小さな子供に「強い馬は?」と聞かれると武は迷わず「サイレンススズカ」と答えていた。武はNumber誌上でも、5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから、「一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている。また、サンデーサイレンスの後継種牡馬としても現役時から大きな期待を受けており、サイレンススズカが亡くなった後に「サンデーサイレンスの最良の仔であり最高の後継種牡馬になり得た」(社台ファーム吉田照哉)、「文句なしに競走馬として最高の1頭であり種牡馬としても最高の資質があった」(ラフィアン岡田繁幸)といった評価もされた。アメリカから種牡馬として購入のオファーもあった。
ファンの評価も高かったようで、そのレース内容から、GI競走1勝の成績にもかかわらず、2000年に行われたアンケート「20世紀の名馬Dream Horses2000」において4位にランクインした。
[編集] エピソード
- 当歳のころから馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖があり、一種の自主トレーニングになっていたとも言われる。狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので見ている側は事故が起こるのではと心配するほどだったが、結局最期まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮という原因ではなかったようであるが癖が治ることもなかった。これがレースでの落ち着きの無さを生み出す原因と考えられ、矯正しようと馬房に畳を吊しては見たものの、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも、以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらに畳の数を増やしたところ、今度は馬房の中で動くスペースがなくなってしまい、反対に膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまい、「悪いことをした」と、4歳の冬に元に戻された。この癖が理由であるためか、左回りの東京競馬場、中京競馬場でのレースぶりは、右回りのその他の競馬場でのレースよりも鮮やかであった。
- 4歳時のレースぶりから気性が荒いという印象を持つファンもいるが、蹴り癖を示す赤いリボンもつけられておらず、実際には人を恐れない穩やかな気性の馬であったらしい。5歳時からは、返し馬の際最も観客に近い外ラチ沿いを常歩で進んでいる。弥生賞のゲートくぐり事件の際も厩務員が離れるのを不安に思って追いかけてしまった結果という大変人懐こい性格を見て取れる。また、天皇賞での事故の際は、普通なら立っていることもままならないほどの重症であったのにもかかわらず、外ラチまで移動したことを「鞍上の武を守ったのだろう」とまことしやかに囁かれている。
- ハイペースで逃げ第4コーナーで一回息を入れなおして再び加速して後続馬を引き離すことから、武豊はサイレンススズカのことを逃げて差す馬と発言していた。大差勝ちの金鯱賞や、3着以下を最後の直線で大きく引き離した毎日王冠などがそれにあたると思われる。
- 武豊はスピードを活かすために、空気抵抗のより少ない流線型の“サイレンススズカ専用ゴーグル”を使用していた。
- 当初は毎日王冠の出走は調整不足や直前に脚をぶつけていたこともあり見合わせることも検討されていた。しかし、ここで回避して天皇賞(秋)で勝ったとしても、「エルコンドルパサーやグラスワンダーに負けると分かっていて尻尾を巻いて逃げた」と後々いわれてしまうということで出走した経緯がある。
- 誕生日の1994年5月1日は、F1ドライバーのアイルトン・セナがレース中に事故死した日で、セナもサイレンススズカと同様に、ポールポジションからいち早く飛び出してそのまま先頭をキープして勝利することが多かった。レース中の事故でこの世を去ってしまった点もサイレンススズカと同様であった。
[編集] 血統
[編集] 血統背景
父サンデーサイレンスについては同馬の項を参照のこと。
母ワキアは、自身は1200mに勝ち鞍の集中したスプリンターであるが、その父Miswakiはスピードに優れたMr.Prospectorの系統の中では、産駒の距離適性に幅のある存在であり、また母Rascal RascalはSilver Hawk(グラスワンダーの父)との間に英ダービー馬Benny the Dipを出すなど、スタミナも潜在的に持っている。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなどその全ての産駒が勝ち上がっている。この実績から繁殖牝馬として極めて優秀な資質を持っていたと評価されている。
[編集] 血統表
サイレンススズカの血統 (ヘイルトゥリーズン系/Turn To4×5=9.38%) | |||
父
*サンデーサイレンス Sunday Silence 1990 青鹿毛 アメリカ |
Halo 1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason | Turn To |
Nothirdchance | |||
Cosmah | Cosmic Bomb | ||
Almahmoud | |||
Wishing Well 1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding | Promised Land | |
Pretty Ways | |||
Mountain Flower | Montparnasse | ||
Edelweiss | |||
母
*ワキア Wakia 1989 鹿毛 アメリカ |
Miswaki 1978 栗毛 アメリカ |
Mr.Prospector | Raise a Native |
Gold Digger | |||
Hopespringseternal | Buckpasser | ||
Rose Bower | |||
Rascal Rascal 1981 黒鹿毛 アメリカ |
Ack Ack | Battle Joined | |
Fast Turn | |||
Savage Bunny | Never Bend | ||
Tudor Jet F-No.9-A |
- ワキアオブスズカ(姉) - 父ダンスオブライフ。中央競馬2勝。スズカドリームの母。
- コマンドスズカ(弟) - 父コマンダーインチーフ。中央競馬5勝。
- ラスカルスズカ(弟) - 父コマンダーインチーフ。中央競馬4勝。天皇賞(春)2着・阪神大賞典2着
近親