カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
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カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim, 1867年6月4日 - 1951年1月28日)はフィンランドの陸軍元帥・フィンランド軍最高司令官、後に国家元帥(Marshal of Finland)、大統領(在職:1944年 - 1946年)。
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[編集] 祖先
彼の祖先はオランダ系の商人で元の家名をMarheinと言ったが、17世紀頃フィンランドに移民し、スウェーデン語社会に同化して出世を遂げ、1768年に爵位を受けて貴族となった。
[編集] ロシア軍人時代
元々、ロシア帝国の軍人であり、日露戦争にも従軍した。このとき近代的な軍隊を揃えていた大日本帝国に初めて興味を抱いたといわれる。
その後、密命を帯びて中央ユーラシアを横断しつつ探検。ついでに中国で休暇を貰い、来日したと言われる。このときは偽名を使っていたらしく、残念ながら如何なるエピソードも残されていない。ちなみに彼の兄は、反ロシア政府活動家であり、親日家で日本人との繋がりを持ち、フィンランド独立を画策していたという。彼もまた、兄と同じ思いを抱いていた可能性もある。
[編集] ロシア革命とフィンランド独立
第一次世界大戦が勃発すると、彼はロシア軍人としてオーストリア・ハンガリー二重帝国との戦線で戦い大きな戦果をあげた。しかし1917年のロシア革命の後、共産主義への反発と落馬後の負傷により軍隊を辞し1917年12月にフィンランドに帰国した。1918年1月、フィンランド内戦が始まると白軍の最高司令官として戦争を指揮し、5月には赤軍を粉砕する。しかしその国際的視野に立つ発言は、偏狭なナショナリズムに固まった政府の忌避を受け、フィンランド国内でのドイツ帝国の影響の高まりもあって6月にスウェーデンに亡命を余儀なくされる。しかし内戦後の国内対立や、ヘッセン皇太子フリードリッヒ・カール大公を迎えて王政を敷く試みが失敗するなどフィンランド政局は混乱し、元首代行として請われたマンネルヘイムはすぐに帰国。第一次大戦に勝利したイギリス・フランスなど列強からの独立承認を受けるための努力を重ね、フィンランドの独立に極めて重要な足跡を残す。
当初は彼をフィンランドの君主に推す声もあったが、フィンランドは共和国として独立する道を選んだ。1919年の大統領選に敗れると引退生活に入り、世界各地を旅行する。再び来日する直前に陸軍元帥に叙せられた。日本に着いて階級を名乗ると帝国元帥の格式をもって歓待を受け、いたく感激したという。
1929年、マンネルヘイムは右翼運動から軍事独裁者になるよう嘆願されるがこれを拒否している。1931年、ペール・スヴィンヒューが大統領となるとマンネルヘイムは国防会議議長となりフィンランドの国防力増強に努めた。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦中、フィンランドは隣国ソヴィエト連邦に言われなき戦争を仕掛けられ(冬戦争)、マンネルヘイムは再び最高司令官に呼び戻され、世界が驚嘆するほどの戦果をあげたが小国ゆえの敗北に直面する。この時失った領土を取り戻すためナチス・ドイツと同盟し、独ソ戦の開始と共に継続戦争に突入する。ナチス・ドイツがソ連に敗北するとフィンランドにもソ連軍が殺到。絶望的な状況を乗り切るため、フィンランド政府から大統領に任命された。
フィンランドは既に国際社会の同情を失っており、敗戦国扱いを受けた。かろうじて独立を守りきったのはマンネルヘイムの大統領としての手腕を証明するものだろう。ほどなく病気により大統領を辞し、スイスにて療養、そこで永眠した。マンネルヘイムは、時代に翻弄された悲劇のフィンランド人であったが、彼こそは、フィンランド史上最大の英雄であった事は、ほぼ間違いないだろう。
[編集] 関連項目
- マンネルヘイム線
[編集] 伝記・関連資料
- 植村英一『グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの白い将軍』(荒地出版社、1992年) ISBN 475210069X
- 梅本弘『雪中の奇跡』(大日本絵画、1989年) ISBN 4499205360
- 梅本弘『流血の夏』(大日本絵画、1999年) ISBN 449922702X
- フィンランドの大統領
- 第6代: 1944 - 1946
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- 先代:
- リスト・リュティ
- 次代:
- ユホ・クスティ・パーシキヴィ
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