エルヴィン・シュルホフ
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エルヴィン・シュルホフ(Erwin Schulhoff 、1894年6月8日 - 1942年8月18日)は、チェコの作曲家、ピアニスト。
ドイツ系ユダヤ人の子としてプラハに生まれた。プラハ、ウィーン、ライプツィヒ、ケルンで作曲とピアノを学んだ。第一次世界大戦後の演奏と作品はジャズとダダイズムの影響を受けた前衛へと進むようになった。彼はジャズのリズムにインスピレーションを見出したヨーロッパのクラシック作曲家の最初の1人だった。有名なピアノの名手でドイツの広い範囲で演奏旅行を行い、さらにイギリスやフランスにも進出した。
1930年代になって状況が悪化した。彼がユダヤ人であることと過激な主張によって、ナチス・ドイツから「退廃芸術」の烙印を押されたのである。もはやドイツで演奏活動を行うことができず、作品の出版も公に行うことができなくなった。
作品を見ると共産主義への傾斜が顕著となっていき、チェコスロバキアでも問題視された。プラハに避難して ラジオのピアニストの職を得たが、日々の生活をまかなうのがやっとの状態だった。1939年ドイツがチェコに侵攻すると、やむを得ず偽名で演奏活動を行うようになった。1941年にソビエト連邦が彼の請願を承認して市民権を付与したが、チェコを去る前に逮捕されてしまった。
1941年6月にバイエルンのヴァイセンブルク近郊のヴュルツブルク強制収容所に収容され、翌年8月に結核のため死去した。
[編集] 作品
- 6つの交響曲
- バレエ「オゲララ」
- オペラ「炎」
- 2つのピアノ協奏曲
- 室内管弦楽のための組曲
- 2つの弦楽四重奏曲と弦楽六重奏曲
- 3つのピアノソナタ