エドワード・カーペンティア
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エドワード・カーペンティア(Édouard Carpentier、本名エドワード・ヴィクツEdouard Weicz、1926年7月17日-)は、1940年代から1980年代までアメリカ、カナダ、フランスなどで活動したプロレスラーである。ポーランド出身。ニックネームは『マットの魔術師』。
体操競技のオリンピック強化選手に選ばれていたが、祖国ポーランドがアドルフ・ヒトラー支配下のドイツに侵略されたのを受けフランスに疎開。その地でドイツに対するレジスタンス活動にも関わっていた。
第二次世界大戦が終わると、体操のキャリアを生かしサーカス団に入ったが、周囲の勧めでプロレスに転向。
1956年にカナダに移住し、アメリカ大陸での活動をスタートさせる。1957年6月14日、イリノイ州シカゴにおいてルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得したが、裁定に意見の違いが生じ、その後しばらくカーペンティアとテーズが共に王者を名乗る状態が続いた(ベルトそのものはカーペンティアに渡っている)。
またこの頃、フランス帰省中に、木こりをしていたアンドレ・ザ・ジャイアントを山中で見つけてスカウトした、という逸話が語られているが、実際にはごく普通にアンドレをスカウトしたにすぎない。しかし一番最初にアンドレを発掘した人物がカーペンティアであるのは確かである。
日本への登場は1970年・1973年の国際プロレス参戦の2度のみ。(1980年に同じく国際プロレスの大木金太郎のインターヘビーに挑戦が内定していたが急遽来日中止となる)しかしそのアクロバティックなスタイルは、同団体にいた寺西勇、マイティ井上に多大な影響を与えている。
1981年にモントリオールで引退した後は、コーチ業やWWFのフランス語解説などを歴任。
サマーソルトキックやサンセット・フリップなど、体操経験を生かした身軽な動きは、プロレスにおける空中殺法の祖とも言われる。
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カテゴリ: カナダのプロレスラー | 1926年生