アントニオ・カルロス・ジョビン
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アントニオ・カルロス・ジョビン (Antonio Carlos Jobim, 1927年1月25日 - 1994年12月8日)は、ブラジルの作曲家・編曲家・ミュージシャン。本名はアントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダ・ジョビン(Antonio Carlos Brasilero de Almeida Jobim) 。略してトム・ジョビン (Tom Jobim) とも呼ばれる。
20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家である。1950年代後半、ジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ヂ・モライスなどとともに、ボサノバという音楽ジャンルを創生したと言われている。多くのボサノバ・アーティストがジョビンの作品を演奏し、音楽的ジャンルを超えて広く影響を及ぼした。
ジョビンの音楽的ルーツは、1930年代から活動していた、ブラジル近代音楽の父とも言うべきピシンギーニャ(Pixinguinha)やブラジル屈指の作曲家、エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa Lobos)(共にショーロの音楽家)の影響を強く受けている。彼にはまたフランスの作曲家クロード・ドビュッシーなどクラシックの音楽家からの影響も大きいと言える。
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[編集] 生涯
[編集] ボサノバ誕生まで
リオ・デ・ジャネイロのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを始め、また作曲を学びはじめる。音楽家として生きていきたいと願っていたが、家族を養うことを考えて建築学校に入学する。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでのピアノ奏者として働いていたが、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社し、曲の譜面起こしや編曲などの仕事をこなす。1953年にはブラジルのオデオン・レコード(EMI・ブラジル)のアーティスト兼レコーディング・ディレクターとして採用される。また、この頃は特に、幼なじみでもあったニュウトン・メンドンサと共に作曲活動を行っていた。
ジョビンが脚光を浴びるようになったのは、作詞家で詩人の(外交官であり、ジャーナリストでもある)ヴィニシウス・ヂ・モライスが制作した舞台「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」(1956年)の(後に、映画「黒いオルフェ」として世界的にヒットする)のために制作した音楽によってであった。この頃からヂ・モライスと共に曲作りを行うようになる。彼らの共作の中には、今でも歌い継がれる名曲が数多くある。
1959年には、最初のボサノバ・ソングとされる「想いあふれて」(Chega de Saudade)をジョアン・ジルベルトがリリースする。この曲は、サンバ・カンサォンの女王とも呼ばれる歌手エリゼッチ・カルドーゾ(Elizeth Cardoso)のためにつくられた曲であった。ジョアンの画期的なギター奏法(ギターだけでサンバのリズム(バチーダ)を刻む)と、ささやくような歌い方の斬新さに惚れ込んだジョビンが、以前にヂ・モライスと共作した「想いあふれて」をジョアンに提供し、苦労の末レコードのリリースまでこぎ着けた作品であった。次第にこの新しいサウンドは、従来のサンバ・カンサォンの重苦しさに否定的になっていたブラジルの若者たちの心をとらえ、ボサノバ・ムーブメントを形成していった。
[編集] ボサノバ全盛期
「想いあふれて」の登場以来、ジョアン・ジルベルトをはじめ、多くのボサノバ・アーティストが彼の曲をとりあげている。ヂ・モライスと共作し、ジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共作アルバム Getz/Gilbertoから人気となった代表曲「イパネマの娘」はビートルズの曲に次いで、カヴァーするアーティストが多いといわれている。ニュウトン・メンドンサとの共作、「ヂザフィナード」 や 「ワン・ノート・サンバ」も、ボサノバ・アーティストたちはもちろん、ジャズ・アーティストたちのカヴァー例も多い、ボサノバを代表する作品である。
1965年には自身がヴォーカルをとる作品を初めて発表したが、その後1967年にはフランク・シナトラとの共作を発表し、「イパネマの娘」のデュエットなどで絶大な評価を得る。アメリカにおいても彼の作品は人気を博した。同じく1967年には、名プロデューサー、クリード・テイラーのレーベル、CTIレコードから自身のインストゥルメンタル・アルバム「波(Wave)」を発表した。このアルバムは、クラウス・オガーマンがアレンジを担当したもので、「究極のイージーリスニング・ミュージック」との呼び声もある。さらに「波」に続いて、今度はブラジル出身の名アレンジャー、エウミール・デオダートのアレンジのもと、「潮流(Tide)」、「ストーン・フラワー(Stone Flower)」などインストゥルメンタル作品の名作を次々とアメリカでレコーディングした。これらのCTIでの作品は、ボサノバを基調としたフュージョンと言える。
[編集] 1970年代以降
1970年代に入ると、ジョビンの創作のスピードは落ちるものの、好きな音楽を自由に楽しむというスタイルをさらに固めてゆく。ミウーシャやエリス・レジーナとの共作で自身の歌も披露している。特に、エリス・レジーナとともにデュエットした「三月の水(Águas de Março)」は、ボサノバ至上最高のレコーディングと評されることもある人気作となった。その一方、元々ブラジル音楽をこよなく愛し、なおかつクラシック音楽の知識に豊富なジョビンらしく、ボサノバの枠にとらわれない壮大で技巧的、なおかつ神秘的な作品を多く残している。この頃の作品としては、「マチータ・ペレ(Matita Pere)」や「ウルブ(Urubu)」などがある。1970年代後半には、アナ・ベアトリス・ロントラと出会い、結婚。1980年には、再び自身のボサノバの名曲を、英語やポルトガル語を交えて歌ったアルバム「テラ・ブラジリス(Terra Brasilis)」を、クラウス・オガーマンのプロデュースにて制作・発表した。
ヂ・モライスとの共作は「イパネマの娘」が最後であったが、ヂ・モライスの死まで友情は続いた。1980年のヂ・モライスの死後には、家族を中心としたバンド「バンダ・ノヴァ(Banda Nova)」を結成して共に楽曲の製作やライヴを行う。「バンダ・ノヴァ」のメンバーは、息子であるパウロ・ジョビン、娘のエリサベッチ・ジョビン、シモーニ・カイミ、ダニーロ・カイミ、マウーシャ・アヂネ、パウラ・モレンバウムとジャキス・モレンバウムの夫妻、セバスチアォン・ネット、パウロ・ブラーガ、そしてジョビンの再婚後の妻アナであった。このバンダ・ノヴァを通して、「パッサリン(Passarim)」、「トム・ジョビン・イネーヂト(Tom Jobim Inédito)」、そして遺作となった「アントニオ・ブラジレイロ(Antonio Brasileiro)」といったディスクがレコーディングされ、また1986年8月には来日も果たしている。
また、環境問題に対する関心は鋭く、アマゾンの熱帯雨林を保護するための活動を行い、同じく熱帯雨林保護の活動を行っていたスティングなどとの交友もあった。その考え方は作品にも強い影響を及ぼしており、"Urubu"や"Matita Pere"などのアルバムでは自然をテーマにした曲も見受けられる。スティングはジョビンの遺作「アントニオ・ブラジレイロ」に収録された「ハウ・インセンシティブ(How Insensitive)」で、ジョビンと共演、ヴォーカルをとっている。
1994年にニューヨークのマウント・サイナイ病院で心臓発作のため死去、リオ・デ・ジャネイロのサン・ジョアン・バチスタ墓地に埋葬された。ブラジルでは彼の死に際して大統領令が発され、国民は3日間の喪に服したという。
[編集] 作曲家としての彼の代表曲
(日本語、ポルトガル語、英語の順)
- ヴィニシウス・ジ・モライスとの共作
- イパネマの娘 (A Garota de Ipanema / The Girl From Ipanema)
- おいしい水 (Água de Beber / Water to Drink)
- 想いあふれて (Chega de Saudade / No More Blues)
- ア・フェリシダーヂ (A Felicidade)
- ニュウトン・メンドンサとの共作
- メディテーション (Meditação / Meditation)
- デザフィナード (Desafinado / Off-Key)
- ワン・ノート・サンバ (Samba de Uma Nota Só / One Note Samba)
- シコ・ブアルキとの共作
- 白と黒のポートレイト(Retrato em Branco E Preto / Picture in Black and White)
- サビア (Sabia)
- アロイージオ・ヂ・オリヴェイラとの共作
- 無意味な風景(Inútil Paissagem / Useless Landscape)
- ヂンヂ (Dindi)
- 自作詞曲
- 静かな夜 (Corcovado / Quiet Nights of Quiet Stars)
- ジェット機のサンバ (Samba do Avião / Song of the Jet)
- 波 (Vou te contar / Wave)
- 三月の水 (Águas de Março / Waters of March)
[編集] ディスコグラフィ
[編集] ソロ作品
主にピアノ演奏を行っているが、ギターを弾いたりボーカルをとる作品もある。
- 「デザフィナード」や「イパネマの娘」など、世界的にヒットした曲をインストゥルメンタルで構成。
- 「彼女はカリオカ」や「ジェット機のサンバ」などほとんどの曲でジョビンが歌うアルバム。
- 極度に洗練されたサウンド。「究極のイージーリスニング音楽」と言われる。
- Tide (潮流) (1970年) - A&M
- Waveの続編とされるアルバム。
- "Tide"と同時録音された作品。
"Tide"がそれまでのイージーリスニング的サウンドを継承しているのに対し、 "Stone.."は土着的リズムの採用など、ジョビンの進む方向の変化を示す。
- Matita Pere (1973年) - Verve
- Urubu (1976年) - Warner
- Terra Brasilis (1980年) - Warner
- Passarim (1987年) - Verve
- Antonio Brasileiro (1994年) - Sony Music
- 実質的に遺作となった作品。
- Inedito (1995年) - Biscoito Fino
- Quiet Now: Nights Of Quiet Stars (1999年) - Verve
- Tom Canta Vinicius (2000年) - Universal
- Em Minas Ao Vivo Piano e Voz (2004年) - Biscoito Fino
[編集] 他のアーティストとの共演
- フランク・シナトラとともに
- Francis Albert Sinatra & Antonio Carlos Jobim (1967年)
- ドリヴァル・カイミとともに
- Caymmi Visita Tom (1964年)
- エリス・レジーナとともに
- Elis & Tom (1974年)
- ミウーシャとともに
- エドゥ・ロボとともに
- Edu & Tom (1981年)
[編集] その他
[編集] アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港
ジョビンは生前、リオ・デ・ジャネイロの国際空港であるガレアォン空港にしばしば通い、発着する飛行機を眺めることを好んでいた。ガレアォンに着陸しようとする旅客機から見下ろされるリオの美しい風景を称えた歌詞の「ジェット機のサンバ」は、飛行機好きのジョビンがヴァリグ・ブラジル航空のCMソングとして作詞・作曲したナンバーである。
ジョビン死後の1999年、彼の功績を称えるために、ガレアオン空港は「アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港」(Antonio Carlos Jobim International Airport)と改名された。同空港の一隅には「ジェット機のサンバ」の歌詞を刻んだプレートが飾られている。
ちなみに若い頃のジョビンは、飛行機を見るのは好きでも搭乗することは大嫌いであったが、有名になるにつれ海外公演などで嫌でも搭乗せざるを得なくなり、後年には飛行機嫌いを克服した。
[編集] 外部リンク
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