アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。天正遣欧少年使節を発案した。ヴァリニャーニともいう。
[編集] 生涯と業績
1539年、イタリアのキエーティで貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、知人だった教皇パウルス4世の招きでローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世にも重用されたため、聖職者となることを決意し、1566年にイエズス会に入会した。1570年司祭叙階。1571年、修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。1573年、総長エヴァラルド・メルクリアンの名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師となった。イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。彼はリスボンからゴア、マラッカを経て1579年に日本にたどり着いた。 彼は日本を生涯に3度訪れている。
- 1579年の最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。1582年にカブラルを日本から去らせた。また大友宗麟、高山右近、織田信長らと出会い、日本文化の理解に努め、『日本の風習と流儀に関する注意と助言』という小冊子を著している。
- ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。それは1580年に有馬(現:長崎県)と安土(現:滋賀県)に設立された小神学校セミナリヨ、大分の府内に設けられた大神学校コレジオ、そして大分の臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院ノビシアドであった。
- また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。彼はインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。
- 1590年の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。
- 1598年、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。