アルトゥル・シュナーベル
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アルトゥル・シュナーベル(Artur Schnabel, 1882年4月17日 ビアラ(ビェルスコ=ビャワ)近郊クンツェンドルフ Kunzendorf (リプニク Lipnik) - 1951年8月15日 スイス・アクセンシュタイン Axenstein)はオーストリア→アメリカのピアノ奏者、作曲家。
[編集] 生涯
オーストリア領ガリチアのクンツェンドルフ(現在はポーランド・リプニク)に生まれる。ここはヨハネ・パウロ2世の家系ともゆかりのある町である。モラヴィアのリプニーク Lipník(ライプニック Leipnik)ではない。幼い頃から「天才少年」として楽才を発揮し、ウィーンにて幾人かのピアノ教師に学んだ後、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番のソリストとしてデビュー。デビュー後に改めて名ピアノ教師として名高いレシェティツキに師事し、一時助手も務めた。また、ブラームスからは「将来最も恐るべき天才」と絶賛された。しかし、ウィーンの雰囲気にいまひとつ馴染めなかったか、後にベルリンに引越しをしている。ベルリンでは後の夫人であるアルト歌手のテレーゼ・ベーアと出会い、彼女の伴奏ピアニストとして活躍することとなる。
1912年ごろからヴァイオリニストのカール・フレッシュなどと室内楽活動を行うようになり、室内楽のピアニストとして評価を高めていく。また、1921年にはアメリカにデビューし、その頃からベルリンで教授に就任したりフルトヴェングラーらと共演を重ねる。1927年にはベートーベンのピアノソナタの全曲演奏を7夜にわたって開催し、「ベートーヴェン弾き」としての名声を確立する。1932年から1937年にかけて、世界で初めてのベートーヴェンのピアノソナタ全集とピアノ協奏曲全集(サージェント指揮)をレコーディング。また、ベートーヴェンのピアノソナタの解釈を詳細に記載した楽譜編集でも有名で、シュナーベル版として世界中で愛用されている。1933年からはナチの台頭によりスイスに移住。さらに1938年からはアメリカに本拠を移し、1944年にアメリカの市民権を取得した。
1946年3月3日、カーネギーホールでのロジンスキー指揮のニューヨーク・フィルハーモニック演奏会でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏中、第3楽章の途中で曲を忘れてしまい、演奏をやり直した。こういったアクシデントにもひるまず、第二次世界大戦後もアメリカとヨーロッパで演奏活動とレコーディング活動を続けたが、1951年8月15日に亡くなった。
シュナーベルは技巧よりかは表現を重視した演奏をしたが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。現代の視点からすると、テンポのふらつきなど不満な面はあるものの、解釈の仕方としては軽視できないものがある。
シュナーベルのレパートリーは狭く、ベートーヴェン以外ではモーツァルトやシューベルト、ブラームスなどをレパートリーとしていた。ベートーヴェンに対して使った解釈を他にも当てはめていたが、ロマン派のシューベルトに関しては少々濃い味付けをした解釈をしていたようである。
シュナーベルは演奏活動の合間を縫って作曲活動も行っている。作風は無調のものが多かったようである。
長男はカール・ウルリッヒ・シュナーベルであり、米国マンハッタン音楽院のピアノ科教授を長く勤めた。父の健在時は2人でデュオを結成し、シューベルトの連弾曲を披露したこともある。
[編集] 参考文献
- 岩井宏之「アルトゥール・シュナーベル 「森を見て木を見る」に徹した大局的構成感 ベートーヴェン全集は聖典として時代を画す」『続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年
カテゴリ: オーストリアのピアニスト | 1882年生 | 1951年没