アフガン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- 1978年に始まるアフガニスタンに対する外国の干渉戦争とそれにともなう内戦については、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻とアフガニスタン内戦を参照。
- 2001年のアメリカ同時多発テロ事件報復を目的とした戦争はアメリカのアフガニスタン侵攻を参照。
アフガン戦争(Afghan Wars)は、近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。
第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。第三次アフガン戦争(1919年)は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンが英領インドに攻め込んで独立を認めさせた戦争である。
[編集] 第一次アフガン戦争
現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュトゥーン人のサドザイ部族の王家が1818年に統一を失った後、1826年に代わって権力を握ったドゥッラーニー系部族、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンが1835年にアミール・アル=ムウミニーンを称してバーラクザイ朝を興した。これに対し、イギリスのインド総督オークランド卿ジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力掌握を嫌い、旧王家サドザイのシャー・シュジャーと、彼と同盟するシク教国のランジート・シンを支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した(シムラ宣言)。
イギリスの東インド会社軍はクエッタからアフガニスタン領内に入ると、カンダハール、ガズナ、カブールを次々に占領した。国王ドースト・ムハンマドは中央アジアのブハラに亡命し、1840年には帰還して再び抵抗するもののイギリスに敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定し、シャー・シュジャー国王もを復位させたが、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、またアフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発し、1842年1月、カブールに駐留していたイギリス軍は撤退した。カブール撤退時の冬季の峠越えによりほとんど全滅に近い状態であったという。これによりイギリスの立てたシャー・シュジャー国王も殺害された。同年秋、イギリスは捕虜・生存者の救出と報復のために再び派兵し、カブールと周辺の村落で破壊を行ったが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて、第一次アフガン戦争は終結した。
[編集] 第二次アフガン戦争
復位後、1855年にイギリスとの間でペシャーワル条約を結んで領土の相互保全を約し、北と西で現在のアフガニスタンの領域へと支配を広げたドースト・ムハンマドの死後、兄弟たちを倒して後継者となった息子シール・アリー・ハーンがイギリスとの関係を軽視し、またロシアが1868年にブハラ・アミール国、1873年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合して中央アジアへと直接進出する情勢はイギリスを大いに刺激した。1878年、ロシアがアフガニスタンに使節を送ると、シール・アリーは拒絶しようとするがカブールへの到着を許してしまい、これに対してイギリスのインド副王リットン卿ロバート・ブルワー・リットンの送った使節が国境で拒絶される事件が起こった。ロシアのアフガニスタン進出を恐れるイギリスのベンジャミン・ディズレーリ内閣は強硬姿勢をとることに決し、再びアフガニスタンに宣戦を布告した。
戦闘は3手に分かれてアフガニスタンへと侵攻したイギリス軍(インド帝国軍)の優勢のうちに進み、カブールなどの要地を占領した。やがてシール・アリーは北部のマザーリシャリーフに逃れて当地で死去し、後継者ヤアクーブ・ハーンはイギリスに屈して1879年にガンダマク条約を結んで、東南部の割譲とイギリスに外交権を委譲して保護国となることを認めたが、依然としてアフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍は苦戦を強いられ、ヤアクーブ・ハーンも退位してインドへと亡命した。
イギリス軍は1880年にカンダハール郊外のマイワンドの戦いでヤアクーブの兄弟アイユーブ・ハーンに大敗を喫するなど、大きな損害を受けながらも、1881年までアフガニスタンへの駐留を続けた。結局イギリスは、混乱の中で亡命先の中央アジアから帰還していた王族の一員アブドゥッラフマーン・ハーンが台頭してくると彼を交渉相手として妥協することにし、外交権をイギリスに委ねて保護国となることを認めさせ、イギリスの面目と当初の戦闘目的を果たす見返りに彼に庇護を与え、自立支配を許す条件で撤退することとなった。国境は結局ガンダマク条約のものが踏襲され、東南国境は現在のアフガニスタン・パキスタン国境線に確定することになるが、これによってパシュトゥーン人(アフガン人)の居住地がふたつの国家に分断された。
[編集] 第三次アフガン戦争
イギリスの後ろ盾を得たアブドゥッラフマーンは従兄弟にあたるアイユーブ・ハーンを追って統一を回復すると、アフガニスタンの近代化に乗り出し、その子ハビブッラー・ハーンもその政策を継承した。1919年、ハビブッラーが暗殺され、アマーヌッラー・ハーンが即位を宣言した。アマーヌッラーは第一次世界大戦によってイギリスが疲弊した好機ととらえ、イギリスに対するジハードを唱えて5月3日、ハイバル峠の国境に軍を進め、領内のパシュトゥーン人が呼応して反乱を起こすことを恐れたイギリスのインド帝国当局もやむなくこの挑発に乗ってイギリス軍を動員、第三次アフガン戦争が始まった。
この戦争ではアフガン軍がイギリス領に攻め込む形で始まったが思うように戦果が上がらず、またイギリスがカブールへの空爆を行ったことやインド帝国側のパシュトゥーン人の支援が満足に得られなかったことから開戦早々に戦線は膠着した。5月末にアフガニスタン側は停戦を申し入れ、戦争の長期化を嫌うイギリスもこれに応じて6月3日に休戦した。
第三次アフガン戦争の結果、アフガニスタンは8月8日に結ばれたラワルピンディー条約で外交権を回復し、完全独立を達成した。
カテゴリ: 19世紀の戦争 | 20世紀の戦争 | イギリスの戦争 | イスラム国家の戦争 | アフガニスタンの歴史 | 20世紀以降のイスラム世界史 | 植民地