高宗 (朝鮮王)
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姓名 | 李熙 |
字 | 聖臨 |
号 | 珠淵 |
年号 | 光武(清朝を援用) |
廟号 | 高宗 |
諡号 | 統天隆運肇極見敦倫正聖光義明功大德堯峻舜徽禹謨湯敬應命立紀至化神烈巍勳洪業啓基宣歴乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝 |
在位年 | 1863年-1907年 |
生没年 | 1852年-1919年 |
父 | 興宣大院君(四男) |
英語表記 | Gojong |
ハングル | 고종 |
カタカナ転写 | コジョン |
高宗(コジョン、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は李氏朝鮮第26代国王、大韓帝国初代皇帝(在位:1863年12月12日 - 1907年7月20日、皇帝在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)。諡は統天隆運肇極見敦倫正聖光義明功大德堯峻舜徽禹謨湯敬應命立紀至化神烈巍勳洪業啓基宣歴乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝、姓は李、字は命福。諱は「き」(熙の異字「熙」の部首「れっか(四つの点)」の代わりに「火」をおく。)、号は珠淵。即位前は翼成君に封じられていた。即位時の年号をとって光武皇帝と呼ぶこともある。
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[編集] 系図
第21代王英祖の子の荘献世子の三男の恩信君の養子の南延君の四男興宣大院君(李昰応、昰は、日の下に正)の次男。仁祖の七代孫に相当する。母は驪興府大夫人閔氏(驪は馬へんに麗)。正妃は明成皇后閔妃。子に純宗らがいる。
[編集] 略伝
先王哲宗の時代は、安東を本貫にする安東金氏が外戚として政権を掌握し、勢道政治を行っていた。その期間は59年間に及び政治は荒れ果てており、王族の中からも安東金氏の打破を望む勢力が生まれていた。その中の筆頭が興宣正李昰応と先々代王憲宗の母で翼宗夫人であった神貞王后趙氏であった。
1863年12月8日哲宗が32歳で亡くなる。哲宗の子は娘1人であり、息子5人が産まれていたが全て夭折していたため、直系の世継ぎ候補が居なかった。そのため王族の誰かを王位につける必要が生じた。ここで、世子(跡継ぎ)が決められていない場合の王位継承権の決定権を持つ神貞王后趙氏は、李昰応と謀り、李昰応の次男、命福を翼宗の養子とし、12月13日にそのまま即位させた。これが高宗である。父李昰応は興宣大院君に封ぜられ(「大院君」は、王の実父に与えられる称号)、このとき高宗は11歳であったため摂政の任に就いた。
興宣大院君は、安東金氏の勢道政治を打破し国内改革を行っていたが、迫り来る西洋の列強諸国に対する対外策はあくまでも鎖国・攘夷であり、決して国交を結ぼうとしなかった。また、カトリックの弾圧を繰り返し行った。1866年フランス人神父らを殺害(丙寅邪獄)すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻を持って江華島を占領したもののこれを追い払った(丙寅洋擾)。
また、同時期に通商を求めてきた商船ジェネラル・シャーマン号も焼き討ちし沈めてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。この抗議として1871年、アメリカ軍は賠償と通商を求め、軍艦5隻を持って江華島を占領するが(辛未洋擾)、大院君は交渉に応じず、アメリカ軍も一ヶ月で引き上げざるを得なかった。
1866年に閔妃が王妃として王宮へ入ると、大院君は閔妃と対立を始め、閔妃を中心とした閔氏一族と崔益鉉らの儒者勢力、政敵安東金氏の勢力を中心に、大院君排除の為の動きを見せていた。これらの勢力が結託し、1873年、高宗が成人すると親政を宣言し、崔益鉉の弾劾を機に大院君は追放される。代わりに政権を握ったのは閔妃の一族である閔氏であった。高宗は性格的に気の強い閔氏に頼るところが多く、政権を握った閔妃は、閔氏一族を要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。
閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。1876年、日朝修好条規(江華島条約)が締結される。これをきっかけに、アメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、清・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱を収拾を試みるが、政治の混乱は更に激しくなった。
1882年、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午軍乱が発生する。壬午軍乱によって一時的に大院君は復権するが、殺されていたと思われていた閔妃は清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君はそのとき清国へ連れ去られ、清国は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この軍乱により日本大使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求、済物浦条約により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。
一方閔妃は、この事件により清に事大していくことになり、開化派の反発を受ける様になる。1884年、開化派金玉均を中心とした勢力は甲申政変を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。
高宗と閔妃は清への事大主義に傾倒していくが、対外政策も国内政策も混乱を極め、国内では東学党を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)を勃発させる。この混乱を朝鮮王朝は収拾できず、清軍へ援軍を依頼、一方日本は邦人保護を理由に軍隊を動員し、日清戦争(1894年-1895年)の原因になる。この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結する事になる。これにより朝鮮は、清の属国の立場から独立国家として承認される事になるが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとした。
この動きを警戒した開化派や朝鮮に戻っていた大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、1895年10月8日、閔妃暗殺事件(乙未事変)が起こっている。これは朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った日本公使・三浦梧楼と軍人が宮廷に乱入し閔妃と女官を惨殺した事件であるが、首謀者は大院君であると言う説もある。犯人として李周会、朴銃、尹錫禹の三名が死刑とされたが、三浦梧楼など日本人は嫌疑不十分として釈放された。
閔妃暗殺事件に日本軍が関わっていたと報じられると、国内の中は親日派勢力と反日勢力が対立し、カウンタークーデタとして春生門事件(1895年11月28日 )を起こし、金弘集総理らを殺害し王を奪おうとした。しかし、この計画は親衛隊大隊長の李軫鎬の内通により、失敗に終わった。この後、李範晋はロシア公館に逃げ込み次のような綿密な計画で高宗奪回を試みた。
- 1895年
- 2月5日 李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。
- 各地での暴動
- 2月10日 ロシア 107名の水兵 20名の食料担当兵 大砲一門をソウル搬入。ロシア兵150名となる。
- 宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける
- 2月11日 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ
- 以下の勅令をだす。
- 閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙義淵 禹範善 李斗璜 李軫鎬 李範来 権濚鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ。
- 新内閣の公示
- 前総理金弘集と前農工商大臣鄭秉夏は亡命せず 警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却
- 2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起 官衙官宅を毀壊
- 2月22日 内閣体制の更新。李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始
この計画は成功し、高宗は、ロシアと内通しロシア領事館に逃げ込み反ロシア派は一掃された。(露館播遷 韓国では俄館播遷)。
ロシア領事館の保護下で、高宗は親露政策を取り、様々な契約をロシアと締結した。開化派の金弘集などは殺されてしまう。多くの権益がロシアに奪われ、民衆達は親露政権に対しても反発の動きを見せたため、高宗は、王宮へ戻らずを得なくなった。こうした自主独立の動きに押され、高宗は1897年10月12日、朝鮮初となる皇帝に即位、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とし、皇帝独裁による独立国家への動きをようやく見せ始める。
皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には暗殺未遂事件が起こっている。また、独立協会を中心とした独立派に対する旧守派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。皇帝は光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。
東学の残党も活発な運動を続け、1899年に英学の反乱を起こしている。
一方、満州(中国東北部)と朝鮮をはさんで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、1904年 - 1905年に日露戦争が勃発している。地政学的な国策から対朝鮮政策を強化したい日本は、戦局が優位に進む中1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂-タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第二回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。
列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。
一方これらの動きの中で高宗は、1907年6月に行われる第二回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、ハーグ密使事件を起こすが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、皇帝退位へと動き、7月20日退位に追い込まれる。
1910年(明治43年)8月日韓併合にともない、徳寿宮李太王の称号を受ける。1919年1月21日、三・一運動の起きるおよそ1ヶ月前に逝去。享年67。毒殺の風聞が流れ、三・一運動を刺激した。
高宗は日米欧の列強諸国や宮廷内の権力争いの間に翻弄され、国を失った悲劇の国王であるが、主体性の無さが却って国内の混乱を招き、対外干渉を受け国を失った亡国の主とも言える。
[編集] 宗室
[編集] 后妃夫人等
7人
- 明成皇后
- 徳安宮貴妃厳氏(貴妃嚴氏、淳嬪嚴氏)
- 淑媛李氏(名:李順娥、貴人李氏)
- 宮人張氏
- 宮人李氏(昭儀李氏)
- 貴人鄭氏
- 貴人梁氏
[編集] 王子
[編集] 王女
- 徳恵翁主