李王家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李王家(りおうけ 이왕가 イワンガ)は李氏朝鮮の歴代国王を出した家柄である。本貫は全州李氏。李朝ベトナムや唐李氏についてはそれぞれの項を参照のこと。朝鮮王・大韓帝国皇帝時代は、李氏朝鮮の項を参照。
朝鮮王朝の初代、李成桂は全州李氏を称しているが、その祖先は咸鏡北道で長く住んでいたので、実際には女真の血が入っているのではないかとの俗説が流布されている。
1910年の日韓併合条約はその第3条で「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す」(片仮名を平仮名に改める)として、韓国皇帝に皇帝時代と同様の称号等を付与することを約していた(第4条はそれ以外の韓国皇族についての類似の規定)。この条約に基づき、王公族として李王家が立てられた。王公族は日本の皇族に準じる待遇を受けた。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴い、その身分を失う(身位喪失)。
以下、王や公の身分を賜った者について項を立て、その中で家族について記述する。
目次 |
[編集] 徳寿宮李太王熈
朝鮮王朝第26代国王にして大韓帝国初代皇帝、高宗(生没年1852年~1919年、在位1863年~1907年)。
高宗の娘、徳恵翁主(「翁主」は皇帝の側室腹の王女の称号)は高宗晩年の1912年に側室・梁氏との間に生まれた。日韓併合後、1925年に東京の学習院に留学し、1930年旧対馬藩藩主の末裔である伯爵・宗武志(そう・たけゆき)と結婚、長女正恵(まさえ)を生んだ。徳恵は結婚前から精神に異常が現れていたが、結婚後つとに悪化。1955年宗家から離縁され、1962年帰国した。宗正恵は早稲田大学(李方子の著書では明治大学となっておりそれが広く流布しているが、誤りである)を卒業後、日本人と結婚したが、その後失踪して行方不明となったままである。徳恵の生涯は、本馬恭子著「徳恵姫―李氏朝鮮最後の王女」に詳しい。
[編集] 昌徳宮李王坧
高宗と閔妃の間に生まれた嫡男の李坧は1875年王世子に冊封された。ハーグ密使事件を起こしたことによって、高宗が退位させられた後、最後の皇帝(朝鮮第27代国王)純宗として景福宮で即位した。結婚はしたが子孫はいない。日韓併合条約の調印に伴い、韓国皇帝の身分を離れ、その地位に相当する李王の称号を明治天皇から賜る。昌徳宮に住んだ。1926年4月25日死亡。
[編集] 李王垠
高宗と側室・厳妃との間に生まれた庶子・英親王李垠(イ・ウン、生没年1897年-1970年)は1907年純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となったが、幼くして日本に連れてこられ、日本で教育を受けた。韓国併合と同時に日本の王公族である李王世子に封じられた。1917年に日本の陸軍士官学校を卒業(第29期)、翌年日本の皇族梨本宮守正王の第一王女である方子と結婚した。純宗が没した1926年には李王家を正式に継承している。二人は東京・赤坂の邸宅(現在の赤坂プリンスホテル別館)に暮らした。李垠は日本の軍人として宇都宮連隊長などを経て終戦時には中将にまで昇進した。敗戦後、李垠夫妻は1947年に臣籍降下し、日本国籍も離脱した。しかし、李承晩政権は彼らの帰国を許さず、二人が韓国に帰国できたのは朴正煕大統領となった1963年のことだった。二人の間には長男・李晋(イ・ジン=生後8ヶ月で急死)、次男・李玖(イ・ク)が誕生した。
[編集] 李玖
李垠と方子の次男・李玖(イ・ク)は1931年12月29日東京で生まれた。戦後、米国プリンストン大学に留学して建築学を学び、1958年ドイツ系米国人女性ジュリア・マロックと結婚。米国に帰化した。1963年韓国に帰国して事業家になったが、経営していた新韓航空が1979年に倒産、1982年にはジュリア夫人とも離婚した。離婚後は再度日本に渡ったが、2005年7月16日、心臓麻痺のため日本のホテルで死去。享年73。
子がないため、李堈公(称号は義親王、英親王李垠)の兄)の孫である李源が彼の養子になって李家を継いだ。
[編集] 李堈公とその子孫
[編集] 李堈公
李熈には、嫡男の李拓のほか、側室の張夫人との間に生まれた庶子の李堈(義親王 イカン、りこう、生没年1877年-1955年)公がいた。李堈公は、1910年の日韓併合によって朝鮮公族となったが、抗日運動にも参加した。
李堈公には公式には2人の息子があるとされるが、実際には妾腹も含めると13男9女を設けており、その11番目の子が現在韓国で有名な李錫(イ・ソク)である。李堈公の多くの子と同様、庶子である。イ・ソクは若い頃韓国で歌手として売れたが、住んでいた宮殿が国に没収されたため、一度米国に移住したことがある。このイ・ソクの娘が現在女優を名乗る李洪(イ・ホン)となる。
李王家の後継者となった李源は、李堈公の第9王子・李鉀の長男である。
[編集] 李鍵公
李鍵(イ・コン、りけん)公は、李堈公の長男として1909年10月28日に生まれた。妃は、海軍大佐松平胖第1女子で、伯爵廣橋眞光養妹の誠子(よしこ。佳子とも書く)だった。
1930年、陸軍士官学校を第42期で卒業し、騎兵科に進み、1938年、陸大を51期で卒業する。陸軍中佐として終戦を迎えた。1947年5月、新憲法発布に伴って平民になり、桃山虔一と名乗った。
1950年、日本国籍を取得。桃山虔一が戸籍名となる。1951年5月、誠子夫人と離婚。誠子夫人との間に儲けた二男三女のうち、長男と長女は母方の籍に入った。
次いで前田藤吉長女の美子(よしこ)と再婚し、1952年、桃山孝哉(こうや。のち開成学園教頭)を儲けた。1990年12月21日歿。
[編集] 李鍝公
李鍝(イ・ウ、りぐう)公は李堈公の次男である。妃は朴泳孝侯爵(朝鮮貴族)の孫の朴賛珠(ぼくさんしゅ)である。
陸軍士官学校を45期で卒業し、野重砲兵科に進む。陸大を54期で卒業する。昭和20年8月7日に広島で原爆により戦死し、陸軍大佐に進んだ。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 流転の王女・李方子
- 王孫女優・李洪写真集(朝鮮語)
- 旧李王家邸