済物浦条約
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済物浦条約(さいもっぽじょうやく)とは、1882年8月30日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は朝鮮語読みで「チェムルポ(Chemulpo)」、仁川の旧称。
壬午事変での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の為に結ばれた。
主な内容は、公使館襲撃事件の犯人の逮捕と処刑、日本側被害者の遺族、負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。
また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。
当初は巨済島または鬱陵島の割譲を要求していたが、軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着する6日前に、既に清国が反乱を鎮圧し、主導権を握っていたことと、アメリカが軍艦を派遣し威圧をかけてきた事から交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は方針を変更させ、馬建忠(在朝清軍の隊長李鴻章の外交秘書)の仲介を経て上記の内容に落ち着いた。軍隊駐留権を認めさせたことは、暴動の再発防止の他に、宗主権を主張する清に対する牽制の意味合いもあった。これは、1885年4月締結の日清天津条約で日清双方が朝鮮から撤兵するまで続けられる。