連合艦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
連合艦隊(れんごうかんたい)とは、2以上の独立した艦隊で編成された海上作戦部隊(4ヶ国連合艦隊、など)をいうが、一般的には大日本帝国海軍が編成した艦隊種別の一を指す。後者の場合、もともと聯合艦隊と書いた。略称は GF(General Fleet)。
目次 |
[編集] 概要
連合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊の始まりである。
そして日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以後日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。なお、日露戦争後の連合艦隊解散式で名文との評価が高い聯合艦隊解散之辞が読まれている。
連合艦隊は天皇に直属する連合艦隊司令長官がこれを統括し、軍令に関しては軍令部総長の、軍政に関しては海軍大臣の指示を受ける。昭和19年(1944年)のレイテ沖海戦で事実上壊滅した。
連合艦隊司令部には、司令長官を補佐する幕僚として、参謀長、参謀副長(S19~)、首席参謀(先任参謀と通称)、砲術参謀、水雷参謀、航空参謀、通信参謀、航海参謀、機関参謀、戦務参謀、政務参謀、主計長、軍医長、機関長、暗号長、気象長、副官等が配置されていた。ただし、首席参謀以外の○○参謀は通称である。
[編集] 戦史
連合艦隊旗艦が出撃した海戦のみ示す。
[編集] 歴代司令長官
(代)-(氏名)-(就任時階級)-(就任年月日)
- 伊東祐亨 - 中将 - 明治27年(1894年)7月19日
- 有地品之允 - 中将 - 明治28年(1895年)5月11日
- 東郷平八郎 - 中将 - 明治36年(1903年)12月28日
- 東郷平八郎 - 大将 - 明治38年(1905年)6月14日
- 伊集院五郎 - 中将 - 明治41年(1908年)10月8日
- 吉松茂太郎 - 中将 - 大正4年(1915年)11月1日
- 吉松茂太郎 - 中将 - 大正5年(1916年)9月1日
- 吉松茂太郎 - 大将 - 大正6年(1917年)10月1日
- 山下源太郎 - 大将 - 大正7年(1918年)9月1日
- 山下源太郎 - 大将 - 大正8年(1919年)6月1日
- 山屋他人 - 大将 - 大正9年(1920年)5月1日
- 栃内曽次郎 - 大将 - 大正9年(1920年)8月24日
- 栃内曽次郎 - 大将 - 大正10年(1921年)5月1日
- 竹下勇 - 中将 - 大正11年(1922年)12月1日
- 鈴木貫太郎 - 大将 - 大正13年(1924年)1月27日
- 岡田啓介 - 大将 - 大正13年(1924年)12月1日
- 加藤寛治 - 中将 - 大正15年(1926年)12月10日
- 谷口尚真 - 大将 - 昭和3年(1928年)12月10日
- 山本英輔 - 中将 - 昭和4年(1929年)11月11日
- 小林躋造 - 中将 - 昭和6年(1931年)12月1日
- 末次信正 - 中将 - 昭和8年(1933年)11月15日
- 高橋三吉 - 中将 - 昭和9年(1934年)11月15日
- 米内光政 - 中将 - 昭和11年(1936年)12月1日
- 永野修身 - 大将 - 昭和12年(1937年)2月2日
- 吉田善吾 - 中将 - 昭和12年(1937年)12月1日
- 山本五十六 - 中将 - 昭和14年(1939年)8月30日
- 山本五十六 - 大将 - 昭和16年(1941年)8月11日
- 古賀峯一 - 大将 - 昭和18年(1943年)4月21日
- 豊田副武 - 大将 - 昭和19年(1944年)5月3日
- 豊田副武 - 大将 - 昭和20年(1945年)5月1日
- 小沢治三郎 - 中将 - 昭和20年(1945年)5月29日
代数は資料により相違がある。
竹下勇の時から連合艦隊は常設され、山本五十六までは第一艦隊司令長官を兼務していたが、昭和16年以降は連合艦隊司令長官と第一艦隊司令長官は分離された。
[編集] 歴代旗艦
[編集] 太平洋戦争開戦時の連合艦隊編成
太平洋戦争開戦時の日本海軍とは即「連合艦隊」を示すのではなく、外戦部隊と内戦部隊と言うように、他に複数の艦隊が存在していた。1944年(昭和19年)にこれらは連合艦隊に統一された。以下に太平洋戦争開戦当時(1941年12月8日)の艦隊編成と、各艦隊司令長官を記した。戦艦大和などは艦籍登録が開戦以降なので記載していない。
[編集] 連合艦隊直属(司令長官:山本五十六大将)
- 第一戦隊:戦艦 / 長門、陸奥
- 第二四戦隊:特設巡洋艦 / 報国丸、愛国丸、清澄丸
- 第一〇航空戦隊:水上機母艦 / 瑞穂、千歳
- 水上機母艦 / 千代田
- 駆逐艦 / 矢風
- 標的艦 / 摂津
- 工作艦 / 明石
[編集] 第一艦隊(司令長官:高須四郎中将)
戦艦を主軸とした主力艦隊
- 第二戦隊:戦艦 / 伊勢、日向、扶桑、山城
- 第三戦隊:戦艦 / 金剛、榛名、霧島、比叡
- 第六戦隊:重巡 / 青葉、衣笠、古鷹、加古
- 第九戦隊:軽巡 / 北上、大井
- 第三航空戦隊:空母 / 鳳翔、瑞鳳、駆逐艦 / 三日月、夕風
- 第一水雷戦隊:軽巡 / 阿武隈
- 第三水雷戦隊:軽巡 / 川内
[編集] 第二艦隊(司令長官:近藤信竹中将)
重巡洋艦を主軸とした艦隊
- 第四戦隊:重巡 / 高雄、愛宕、鳥海、摩耶
- 第五戦隊:重巡 / 那智、羽黒、妙高
- 第七戦隊:重巡 / 最上、熊野、鈴谷、三隈
- 第八戦隊:重巡 / 利根、筑摩
- 第二水雷戦隊:軽巡 / 神通
- 第四水雷戦隊:軽巡 / 那珂
[編集] 第三艦隊(司令長官:高橋伊望中将)
フィリピン攻略のための艦隊
- 第一六戦隊:重巡 / 足柄、軽巡 / 長良、球磨
- 第一七戦隊:敷設艦 / 厳島、八重山、特設敷設艦 / 辰宮丸
- 第五水雷戦隊:軽巡 / 名取
- 第六潜水戦隊:潜水母艦 / 長鯨
- 第九潜水隊:潜水艦 / 伊-123、伊-124
- 第一三潜水隊:潜水艦 / 伊-121、伊-122
- 第一根拠地隊:敷設艦 / 白鷹、蒼鷹、掃海艇、駆潜艇、水雷艇など
- 第二根拠地隊:敷設艦 / 若鷹、掃海艇、駆潜艇、水雷艇など
[編集] 第四艦隊(司令長官:井上成美中将)
内南洋防衛のための艦隊
- 旗艦:練習巡 / 鹿島
- 第一八戦隊:軽巡 / 天龍、龍田
- 第一九戦隊:敷設艦 / 沖島、海防艦 / 常盤、津軽
- 第六水雷戦隊:軽巡 / 夕張
- 第七潜水戦隊:潜水母艦 / 迅鯨
- 第二六潜水隊:潜水艦 / 呂-60、呂-61、呂-62
- 第二七潜水隊:潜水艦 / 呂-65、呂-66、呂-67
- 第三三潜水隊:潜水艦 / 呂-63、呂-64、呂-68
- 第三根拠地隊:掃海艇、駆潜艇など
- 第四根拠地隊:掃海艇、駆潜艇など
- 第五根拠地隊:掃海艇、駆潜艇など
- 第六根拠地隊:掃海艇、駆潜艇など
[編集] 第五艦隊(司令長官:細萱戊子郎中将)
北方防衛のための艦隊
[編集] 第六艦隊(司令長官:清水光美中将)
潜水艦隊
- 旗艦:練習巡 / 香取
- 第一潜水戦隊:特設潜水母艦 / 靖国丸、潜水艦 / 伊-9
- 第二潜水戦隊:特設潜水母艦 / さんとす丸、潜水艦 / 伊-7、伊-10
- 第三潜水戦隊:潜水母艦 / 大鯨、潜水艦 / 伊-8
- 第一一潜水隊:潜水艦 / 伊-74、伊-75
- 第一二潜水隊:潜水艦 / 伊-68、伊-69、伊-70
- 第二〇潜水隊:潜水艦 / 伊-71、伊-72、伊-73
[編集] 第一航空艦隊(司令長官:南雲忠一中将)
空母機動部隊
- 第一航空戦隊:空母 / 赤城、加賀
- 第二航空戦隊:空母 / 蒼龍、飛龍
- 第二三駆逐隊:駆逐艦 / 菊月、夕月、卯月
- 第四航空戦隊:空母 / 龍驤、春日丸
- 第三駆逐隊:駆逐艦 / 汐風、帆風
- 第五航空戦隊:空母 / 翔鶴、瑞鶴
[編集] 第十一航空艦隊(司令長官:塚原二四三中将)
基地(陸上)航空部隊
[編集] 南遣艦隊(司令長官:小沢治三郎中将)
- 軽巡 / 香椎、海防艦 / 占守
- 第九根拠地隊:掃海艇、駆潜艇など
- 第四潜水戦隊:軽巡洋艦 / 鬼怒
- 第一八潜水隊:潜水艦 / 伊-53、伊-54、伊-55
- 第十九潜水隊:潜水艦 / 伊-56、伊-57、伊-58
- 第二一潜水隊:潜水艦 / 呂-33、呂-34
- 第五潜水戦隊:軽巡洋艦 / 由良
[編集] 司令部はどこにあるべきか?
艦隊司令部は通常、旗艦に設置される。よって、連合艦隊司令部もその創設以来旗艦に司令部を設置していた。しかし、太平洋戦争末期になって、司令部設置箇所を巡り論争が起きた。
その原因は、連合艦隊司令長官の指揮範囲を広げすぎたことにある。明治時代の連合艦隊司令長官は原則として純粋な戦闘部隊のみを指揮下においていた。しかし時がたつにつれて名声が高まり、軍令を司る軍令部長(職制上は連合艦隊司令長官の上官)と並び称されるほどになった。それに加え、連合艦隊司令長官の地位が単なる戦闘指揮官ではなく海上作戦全般の総指揮官という意味も帯び始め、補給部隊や基地航空隊、鎮守府なども指揮下に入るようになった。こうなると、多くの司令部人員の増加が必要となり、居住及び勤務空間の確保や無線設備の増強など海上の一艦にあって総指揮をとることが何かと不都合になってきたのである。ちなみに米軍側の太平洋艦隊司令部はハワイ(太平洋戦争開戦前にサンディエゴより移動)にあり、陸上から指揮をしていた。よって、司令部上陸論ともいうべき主張が、司令部内でされるようになった。
そのためか、太平洋戦争において、連合艦隊旗艦が作戦行動を起こしたのはミッドウェイ海戦のみであり、しかも機動部隊のはるか後ろを航行していたため戦闘には参加していない(これには相変わらずの大艦巨砲主義による海上決戦思想に基づく戦艦温存策という面もあった)。
それに対し、反対論も根強かった。海軍には「指揮官先頭、率先垂範」という伝統があった。また、日本海海戦では東郷平八郎司令長官が旗艦三笠の艦橋先頭に立ち、戦闘中微動だにせず、海戦終了後東郷長官の足跡がくっきりと残っていたという実話もある。「司令長官とはそうあるべきもの」という観念が、海軍の中では確固たるものとしてあった。安全な後方(陸上)から指揮を受けるなど、考えたくもなかったと思われる。
しかし、昭和19年(1944年)に入りいよいよ戦争範囲は拡大しつつも敗勢が濃くなり、連合艦隊司令部は旗艦を収容能力と通信設備を併せもつ軽巡洋艦「大淀」に移し、しかも単艦で木更津沖に停泊させた。これは現在、米軍などに見られる指揮専用艦の先駆けであったが、当時司令部にそんな意識などはあるはずもなく、単なる妥協策であった。しかし、マリアナ沖海戦でマリアナ諸島が占領されると本土空襲が現実となり、フィリピン方面へ米軍の攻勢が切迫してくると、ついにその年の内に日吉台の慶應義塾大学構内の地下防空壕に移ってしまった。ここにおいて連合艦隊旗艦及び第一艦隊は消滅した。
それでも抵抗は依然として強かったらしく、昭和20年(1945年)の菊水作戦(いわゆる大和の沖縄特攻)発動時には、特攻作戦に反対する第二艦隊司令部から「陸上にいて艦隊の気持ちがわかるか」「特攻ならば司令長官自ら大和に乗り込むべきではないか」との怒号を受けた。この菊水作戦は「一億総特攻の魁になってくれ」という要請のもとに始められたものであり、全ての帝国海軍海上部隊を、戦果と引き換えに滅失させるものであったからである。つまり菊水作戦の発動後は、それが成功しようが失敗しようが、途中で中止されない限りは、帝国海軍の海上部隊は消滅するのであるから、海上部隊のための指揮官も参謀も必要なくなるのである。「最後くらいは、将は皆、兵の前に立つべき」と感じたのであろうと推測できる。その年の4月25日、連合艦隊だけでなく各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられるが、連合艦隊は出動できる艦隊をすでに失っており、終戦まで各特攻作戦の指揮を執る。
[編集] 海上自衛隊の「連合艦隊」
海上自衛隊には防衛庁長官直属である(実際は海上幕僚監部の指揮を受ける)「自衛艦隊」という組織があり、自衛艦隊司令官の指揮下に護衛艦隊(4個護衛隊群基幹)、航空集団、潜水艦隊、掃海隊群その他の実力部隊を置いている。1個護衛隊群が昔の1個艦隊に当たるので、やや強引ではあるが、太平洋戦争末期の連合艦隊にあたるのが今の自衛艦隊といえないことはない。ただし、海上自衛隊の組織そのものはアメリカナイズされているので、所属している自衛官に「連合艦隊」という意識はないかもしれない。
[編集] 書籍
- 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社刊: ISBN 4-7698-0979-4、『連合艦隊の栄光』光人社刊: ISBN 4-7698-1006-7
[編集] 映画
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
この「連合艦隊」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(関連: ウィキポータル 軍事 - ウィキプロジェクト 軍事) |