皇居
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皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における住まいのことである。
皇居の呼び名は、内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城(きゅうじょう)、蓬が洞(よもぎがほら)、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。
現在は、天皇の住まいである「御所」、行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある江戸城跡一帯を指して皇居と呼ぶ。
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[編集] 概要
古代には、天皇の住まいは一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指した。このような宮には、難波高津宮(大阪市)、小墾田宮(奈良県明日香村)、飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村)などがある。後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院をはじめとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて大内裏と呼ばれる。京には、難波京(大阪)、藤原京(奈良)、平城京(奈良)、平安京(京都)などがある。
平安京は、794年(延暦13年)に桓武天皇によって定められ、明治時代初期に明治天皇が東京へ遷るまで、長く皇居が置かれた。960年(天徳4年)に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年)にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。1227年(安貞元年)に大内裏が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝時代の1331年(元弘元年)、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが土御門内裏と呼ばれ、現在の京都御所の前身となる。
現在の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍が居城としていた江戸城跡にある。1868年(明治元年)に明治天皇が江戸に行幸し、江戸を「東の京」として東京と改称した際、江戸城も東京城と改称され、江戸城西の丸を天皇の東幸中の行宮(行在所)と定めた。天皇は一旦京都に戻り、翌1869年(明治2年)、東京に遷り、東京城が皇居とされた。→なお、日本の首都の項目を参照のこと。
1873年(明治6年)に江戸城西の丸は炎上し、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。1879年(明治12年)西の丸に新宮殿を造営することが決まり、1888年(明治21年)に明治宮殿が落成した。このときまで、皇居は皇城(こうじょう)と称されていたが、以後、宮城(きゅうじょう)と称された。明治宮殿は、御車寄・広間から正殿、鳳凰の間、東西の溜り、豊明殿や千種の間など、応接・政務の場と天皇の住居にあたる奥宮殿が接続していた。この明治宮殿は、1945年(昭和20年)5月、第二次世界大戦中の空襲により焼失した。なお、戦後の1948年(昭和23年)に、宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。
1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新たな皇居の造営が始められた。新しい皇居は、明治宮殿のように天皇の御住居(御所)と宮殿を接続させず、別々に造ることとなった。1961年(昭和36年)、皇居内の吹上地区に吹上御所(現・吹上大宮御所)が完成した。宮殿は、1964年(昭和39年)に着工し、1968年(昭和43年)10月に竣工。翌年4月から使用されている。現在の御所は、皇居内の吹上地区に建設され、1993年(平成5年)12月から使用されている。
現在、皇居一帯は、東京という大都市の中央にありながら、きわめて緑豊かな地区で、堀の周りは都心のランニングコースとして人気が高い。皇居は住所表示では東京都千代田区千代田1番にあたり、本籍として人気が高い住所になっている。また、国有財産としての皇居の価値は、2188億1000万円である(国会報告情報「平成15年度国有財産増減及び現在額総計算書」に基づく。)。
衛星パノラマ画像プログラムのグーグルアースにおいては世界のランドマークの一つとして日本では唯一登録されている。
[編集] 皇居内の施設
- 宮殿
- 御所
- 吹上大宮御所
- 香淳皇后の住居として使われていた。
- 皇居東御苑
- 桃華楽堂
- 三の丸尚蔵館
- 宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)
- 宮内庁庁舎
- 皇宮警察本部庁舎