橘奈良麻呂の乱
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橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は奈良時代の政変である。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して失敗した。
橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇后に信任されていた藤原仲麻呂が皇后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。
天平勝宝7歳(755年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、恥じた諸兄は辞職した。2年後、諸兄は失意のうちに75歳で死去した。
天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。翌天平宝字元年(757年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王が立太子される。
仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月28日、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月2日、孝謙天皇と光明皇后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。
しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。
翌7月3日、右大臣豊成を訊問から外し、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽(ぎょくじ)を奪い、右大臣藤原豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。
東人の供述により、7月4日に奈良麻呂をはじめ、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問された加担者たちは皆、謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。
この後すぐに獄に移され、百済王敬福、船王らの監督下、何度も杖で全身を打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した(続日本紀には詳しい記述が無いが、他にも拷問で獄死した加担者がいたと思われる)。また首謀者である奈良麻呂の名が続日本紀に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる(後に奈良麻呂の孫の嘉智子が皇后になった(檀林皇后)ため記録から消されたといわれる)。
安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。また、右大臣・藤原豊成が事件に関係したとして大宰員外帥に左遷されている。
仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。天平宝字2年(758年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。そして、天平宝字4年(760年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、天平宝字8年(764年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ。(藤原仲麻呂の乱)