藤原仲麻呂の乱
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藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は奈良時代に起きた内乱である。恵美押勝の乱ともいう。孝謙上皇・道鏡と対立した太帥(太政大臣)藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こして、滅ぼされた。
[編集] 経緯
藤原仲麻呂は光明皇后の信任を得て紫微令に任じられて次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると仲麻呂はその寵愛著しく、政権を完全に掌握した。天平宝字2年(758年)、仲麻呂の推す淳仁天皇を即位させて、太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。天平宝字4年(760年)には遂に太師(太政大臣)にまで登りつめた。
栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、光明皇太后が死去し、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。仲麻呂は、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これが上皇を激怒させた。孝謙上皇は怒りのあまり尼になるとともに「天皇は小事を行い、大事と賞罰は自分が行う」と宣言してしまった。孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。
焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、淳仁天皇に願って都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、仲麻呂は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。
9月11日、比良麻呂は孝謙上皇に動員令を密告。孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇の居る中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。これを知った仲麻呂は子の訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、玉璽と駅鈴の奪回を図った。しかし、直ちに授刀衛の少尉坂上苅田麻呂と将曹牡鹿嶋足が出動して、訓儒麻呂を射殺した。
孝謙上皇は仲麻呂の邸に勅使紀船守を送り、官位の剥奪と藤原姓を名乗らせぬとの宣言をさせる。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入り、仲麻呂が長年国司をつとめ勢力地盤だった近江の国衙を目指した。孝謙上皇は吉備真備を召して従三位に叙し仲麻呂誅伐を命じる。
仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊太智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子の辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図ろうとし、琵琶湖の湖西を越前に向い北進する。淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。
官軍の佐伯伊太智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、物部広成に愛発関(近江と越前の国境の関所)を固めさせた。仲麻呂軍の先発隊精兵数十人が愛発関で敗れた。辛加知の死を知らない仲麻呂は愛発関を避け、舟で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、逆風で舟が難破しそうになり断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかった。佐伯伊太智が防戦して、仲麻呂軍を撃退する。
仲麻呂軍は退却して三尾(近江国高島郡)の古城に篭った。官軍は三尾を攻めるが、仲麻呂軍は必死で応戦する。9月18日、官軍に討賊将軍藤原蔵下麻呂の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵石村石楯に襲われ斬殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。
仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流された。代わって孝謙上皇が重祚する(称徳天皇)。称徳天皇の道鏡への寵愛は深まり、大臣律師に任命され、太政大臣禅師、法王にまで昇り、皇位をうかがうまでの権勢を持つようになる。