暗君
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暗君(あんくん)とは、愚かな君主のこと。ただし、東晋の安帝のような知的障害などの理由で名目上祭り上げられている君主は責任能力がないため暗君とすら呼ばれない。
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[編集] 概説
特に自分の責任において愚かで誤った判断を繰り返して国家を衰退させたり、国家を危機に陥れた君主のことをいう。
多くは、その君主の馬鹿さ加減を語る逸話が残っている(政務を放棄して遊興にふけった、など)。ただし、その逸話には、当時の歴史家の主観や歴史書を編纂させた当時の政権の意向が反映されることがあるため通時代的な評価を考えなければならない。
本来は優秀な君主がたまたま戦争で敗北したり、国を立て直すために努力したにもかかわらず裏目に出たり(例えば東ローマ帝国のユスティニアヌス帝)、国家自身が衰退期だったために建て直しがきかなかったりする不運な君主(例えば唐の昭宗、明の崇禎帝など)のことは、暗君とは言わない。
対語は、明君(聡明な君主)、名君(優れた君主)である。
しばしば国を滅ぼすような暴虐な行為を行った君主が、暴君(tyrant)とされるのみならず、愚かな君主であるということで暗君とされることがある(この場合「昏君」と呼ばれることもある)。
日本の戦国大名の場合、織田信長に滅ぼされた君主が暗君に分類されやすい傾向がある。その一方、武田信玄に滅ぼされた君主は名将とされやすい傾向がある。これは信長が純軍事的な能力や治世力に欠けており、それに滅ぼされた者はそれ以下の人物であった、またその程度の人物が相手であったから信長は天下を取れたと評する意見の影響であると考えられる。信玄の場合はこの逆である。このような思想は、おそらくは徳川時代に形成されたものであり、徳川家を破った武田氏を高く評価する一方、徳川家が織田家の権力を乗っ取ったことを正当化するための論理などが影響していると考えられる。
[編集] 有名な暗君
[編集] 日本
- 北条高時(1303‐1333)
- 鎌倉幕府執権。幕府滅亡時の得宗(嫡流家当主)。鎌倉幕府は幕府転覆を企てていた後醍醐天皇を更迭し、古典『太平記』をはじめ、儒教的価値観から江戸時代にかけては中国古代の暴君的イメージを重ねられる。『保暦間記』などによる、闘犬や田楽に熱中し、病弱であった人物であったことが知られるようになると、暗君と評される傾向になる。
- 家臣に謀殺された将軍義教の子で、義教時代の将軍専制を試みるが近臣の台頭や失脚により阻まれる。将軍家の後継者問題が有力守護大名家と関係して幕府を二分し、全国的な争乱となる応仁の乱に至る。文化的活動への傾斜から暗君、あるいは暴君と評され、乱後には政治的実権を正室の日野富子に奪われた。また、実子で将軍となる義尚も同様に評される傾向にある。
- 美濃斎藤氏最後の当主。領国経営に関心を示さなかったため竹中重治(竹中半兵衛)の反乱により稲葉山城を奪われる。しかし重治本人は龍興を諫める目的であったため城はすぐに返還された。しかし態度を全く変えようとしなかったため美濃三人衆や竹中重治らの離反を招き、最後には織田信長の美濃侵攻によって美濃国主の座を追われた。もっとも跡を継いだのが若年であり、しかも信長が隣国の主であれば数年領地を維持するだけでも困難なことであったとの意見もある。
- 一般的にイメージされる暗君というわけではないが、京風の興事に関心が行き、足利義昭を迎え入れたものの、上洛する気を起こさず、家臣明智光秀の離反を招いた。織田信長の越前侵攻によって隣国へ亡命しようとした矢先に従兄弟の朝倉景鏡に裏切られ、やむなく自害した。逸話によると信長は義景の頭蓋骨を浅井長政親子共々後に金箔をはられた格好で杯に使ったとされているが事実ではない(実際には酒宴に供しただけであったとされる。また金箔を頭蓋骨に貼ることは敵将への礼であったとする説もある)。
- 豊臣秀吉の親族であったが、幼少時代から愚鈍さを知られ、その行く末を心配した秀吉が毛利家の養子にしようと小早川隆景に相談したとき、隆景は主家を救うためにすぐさま自分の養子として貰い受けることを申し出たといわれる。関ヶ原の戦いの折には、一応は西軍に組するも最後まで旗色を明確にせず、家康による鉄砲の威嚇射撃を受けて西軍に襲い掛かる。結果的にこれが戦いの趨勢を決した。その卑劣で小心な様子から現代に至るまで嫌われ役であることが多い。なお秀秋は関ヶ原の二年後、わずか二十一歳で死去しているが、これは西軍の大将石田三成や大谷吉継の呪いであるともいわれる。ただし、判断力には難があったものの統率力はあり、それなりに能力のある人物であったからこそ関ヶ原で活躍できたものと思われる。岡山時代の評判は芳しいものとはいえないが暴政に走る前は善政を敷いており、小早川家が断絶したのも若年のうちに死去したからであって加藤明成のように改易されたわけではない。このため単純に暗君だというのは一面的でしかなく、評価が難しい人物だといえる。
[編集] 中国
- 美女に溺れ、賢臣の比干を殺し、酒池肉林等悪徳を繰り返して結果、周の武王(周)武王に位を奪われた。しかし、彼の悪評は周の易姓革命を正当化するためにたてられたといわれる。後世の東周時代の子貢は彼の悪行はそれほどではなかったのではないかと疑問を持っている。
- 周の幽王
- 王妃を笑わせるためだけに何度も軍を召集し、諸侯に離反され、西周を滅ぼした。
- 斉の湣王
- 馬鹿の故事成語の由来となる。
- 「(穀物がないのならば、)肉粥を食べれば良いではないか(何不食肉糜)」という発言は、フランス王妃マリー・アントワネットの逸話の元になったとされる。
- 東昏候というのは「東のバカ殿様」という意味である。
- 酷刑を楽しみ、北斉の領土が奪われた際も、家臣に「まだまだ遊び暮らすには十分な国力がある」と言われて納得してしまったという。
- 25年後宮に引きこもって政務を執らなかったという記録を持つ。明史では「明は万暦において滅ぶ」と評される。
[編集] 朝鮮
[編集] 西洋
- ローマ帝国皇帝コンモドゥス:暴虐帝。彼の登場によりいわゆる五賢帝時代は終わりを告げた。
- 西ローマ帝国皇帝ホノリウス:既にゲルマン人の侵入が始まっていたにも関わらずラヴェンナに引きこもったまま政務を省みず、ローマ市が西ゴート人に略奪されても趣味である鶏を飼うこと熱中していたという。
- 東ローマ帝国皇帝ミカエル3世:「飲んだくれ」とあだ名され、放蕩に耽った暗愚な皇帝とされているが、実は帝位を簒奪したバシレイオス1世の行動を正当化するためだと言われている。
- アールパード朝ハンガリー王エンドレ2世
- プランタジネット朝イングランド王ジョン:欠地王。身勝手な行動と失政に怒った諸侯にマグナ・カルタを突きつけられ、王権を制限される。累代のイギリス王室がジョンと名付けることを避けるほどの嫌われぶりである。
- プランタジネット朝イングランド王ヘンリー3世
- テューダー朝イングランド女王メアリー1世:血塗れのメアリー(ブラッディ・メアリー):カトリックに傾倒するあまり、プロテスタントの指導者を弾圧・処刑したため。
- ブルボン朝フランス王ルイ15世(フランス革命の原因)
- ブルボン朝フランス王ルイ16世:暗君とする見方は一面的である。