恵帝 (西晋)
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恵帝(けいてい、259年 - 306年、在位290年 - 306年)は、西晋の2代目の皇帝。姓は司馬、諱は衷、字は正度。諡号は孝恵皇帝である。武帝の第2子。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。生母は楊皇后。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
泰始3年(268年)に立太子される。武帝は、太子の司馬衷が暗愚であるということを改めて知り、廃嫡しようとまで考えた。そこで、武帝は尚書の仕事を司馬衷にやらせることにした。この時、司馬衷の妃であった賈妃(恵帝が皇帝に即位した後は賈后)が、他人に代筆させて仕事を終わらせた。武帝はこれにすっかり騙されて、廃嫡しようとは考えなくなった。または騙されなくとも太子の側室の謝貴妃が産んだ孫の司馬遹(愍懐太子)がいるので、希望の星である孫の繋ぎ役として太子のままにしたともいわれる。
太熙元年(290年)4月に武帝が崩御すると、司馬衷が即位した。司馬衷は相変わらず暗愚なので、実際の政治は、武帝の皇后であった楊太后の一族が執り行なうようになる。しかし、皇后となった賈氏の一族が実権を奪おうとした。結局永平元年(291年)2月に賈后が楊太后を殺して一族を粛清した。さらに、その後政治を行なった司馬亮と衛瓘を司馬瑋に殺害させ、罪を司馬瑋に着せて殺す(広義には、ここから八王の乱が始まったとされる)。この結果、賈后は実力者を一掃して実権を握った。その後、数年間は賈后の一族の専横の下、波乱多き恵帝の治世にしては安定した時期を迎える。
賈后は、皇太子の司馬遹が自分が産んだ子ではないことを気にして、元康9年(299年)冬11月に、太子の司馬遹を廃嫡し、金墉城にその3人の皇子らと共に幽閉した。同時に司馬遹の養母である王氏は殺害された(生母の謝貴妃は若くして他界したため)。そして、翌年春3月には、司馬遹は賈后の手により24歳の若さで殺害された。
これに対して、同年の夏4月に趙王司馬倫は賈后を殺害し、反対派を粛清し、自ら相国となる。これが八王の乱の始まりである。翌年、即ち永康2年(301年)の正月に司馬倫は恵帝に迫って譲位させる。恵帝は太上皇とされ、金墉城(なお、この時永昌宮と改称された)に幽閉される。なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、恵帝が最初である。
永康2年(301年)の4月には、斉王司馬冏らによって、司馬倫が殺害され、恵帝は復位する。その後も皇族らの争いは長く続き、恵帝は、実権を握る皇族らの駒としかならなくなっていった。光熙元年(306年)冬11月、洛陽の顯陽殿にて、餅を食べて食中(あた)りのため49歳で崩御した。或いは毒殺されたのだともいう。帝の遺体は太陽陵に埋葬されたという。
恵帝の暗愚さを示す逸話としてこのようなものがある。戦乱で民衆が穀物がなくて苦しんでいる時に、恵帝はこう言ったと伝えられている。
「(穀物がないのならば、)肉粥を食べれば良いではないか(何不食肉糜)」
但し、暗君といわれる彼にも救いのある逸話もあった。それは304年の秋7月に侍中の嵆紹が皇族の乱に巻き込まれたために主君の彼を庇って、反乱軍によって血を浴びて斬り殺された。その時に嵆紹の血が恵帝の衣装を汚したために、重臣が衣装を取り替えるべく進言した。だが恵帝は「これは朕を守って死んだ嵆侍中の尊い血である。そのままにせよ」と言ったそうである。
[編集] 宗室
[編集] 妃后
- 皇后賈南風
- 謝貴妃
- 王夫人
[編集] 子女
- 愍懐太子司馬遹
- 謝貴妃の子
- 河東公主
- 臨海公主
- 始平公主
- 哀献公主
- いずれも賈南風の娘
[編集] 関連項目
- マリー・アントワネット(恵帝と同じような、庶民の現実を理解していない発言をしたとされるフランス王妃。ただし、恵帝の発言を元とした創作説もある。)