新社会党
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新社会党(しんしゃかいとう)は、1996年1月、社会民主党から独立して結成された日本の社会主義政党。略称は新社党もしくは社会党(選挙での略称届出では「社会党」を使う)。
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[編集] 結党と歩み
日本社会党は1993年の細川連立政権以降、それまで反対してきた自衛隊や日米安保条約、小選挙区制、原発などを容認した。しかし党内左派の反発は大きく、小選挙区比例代表並立制導入などを目的とした公職選挙法改正案(政治改革法案)採決では造反が相次いだ。
1996年1月1日、日本社会党(1月19日に改称し社会民主党)の矢田部理参議院議員らは「新社会党・平和連合」を結成、衆議院議員2人(小森龍邦、岡崎宏美)、参議院議員3人(矢田部、栗原君子、山口哲夫)が参加した。矢田部らは離党届を提出したが、社民党は受理せず除名処分とした。後に現在の「新社会党」に改称。委員長に矢田部、副委員長に岡崎と小森、書記長に元釧路市長でもある山口が就任した。社会党元副委員長和田静夫は顧問に就任。新党護憲リベラルを経て憲法みどり農の連帯を結成したいとう正敏らも入党。元々護憲リベラルのメンバーと小森は「新党民主フォーラム」という護憲新党準備団体を共同で結成しており、親和性が高かった。
政策的には日本国憲法の護憲・非武装中立・社会主義経済を主張。社民主義を「大資本の支配を前提にして軍事力の行使を是認」と資本主義の枠内にみなして批判するなど、かつての社会党左派の流れをくみ、理論的には向坂逸郎の死後分裂した社会主義協会(坂牛派)の色彩が強い。ただし、「資本主義を温存する福祉国家ではなく社会主義国家を」と福祉政策には余り肯定的でなかったものの、近年は社会保障の充実を政策に取り入れるなど、政策を転換した部分もある。
1996年の衆議院総選挙、1998年の参議院選挙といずれも全員落選し、国会に議席を失った。また、いずれの選挙でも得票率が2%に満たず、政党要件も失った。
2000年の衆議院総選挙、2001年の参議院選挙でも議席回復に失敗。また、反基地闘争で共闘関係にある沖縄社会大衆党の新垣重雄を東京都選挙区で推薦したが、当選には至らなかった。2003年の衆議院総選挙では、初めて社民党と本格的な選挙協力を行い、無所属で候補を擁立したが及ばなかった。2004年の参議院選挙でも公認候補を立てず、原和美らを無所属で擁立した。しかし、他党候補の推薦を除き、当選者は得られなかった。原は2005年の第44回総選挙でも兵庫1区より無所属で立候補したが、落選している。
現在も一定の地方議員を擁する。国政については長らく議席が無いが、野党共闘(特に社共共闘)を進め、その中で党勢拡大と議席回復を狙っている。
[編集] 現状
地方では、北海道、茨城県、神奈川県、大阪府、兵庫県、鳥取県、広島県、徳島県、熊本県などで、ある程度の勢力を保っている。千葉県では勢力が衰退しているものの長生村で全国で唯一、新社会党籍を持った首長がいる(歴代2人目)。広島県教職員組合は、はっきり新社会党支持を打ち出している。また、中選挙区時代に広島県選挙区で当選を果たしていた小森龍邦・前委員長は、部落解放同盟書記長であったが、93-94年に盛んだった政治改革論議で、細川連立内閣との協力を重視していた他の幹部と意見を異にし、社会党を含む連立与党が提出した政治改革法案に反対票を投じ、その責任を取る形で解放同盟に書記長辞任願いを出し受理された。実質的には解任だったともいわれる。その後小森は解放同盟広島県連顧問就任。現在も広島県の部落解放運動を事実上指揮していると言われる。
現在の社民党について、変節しているという評価ではあるが、護憲派による「平和共同候補」擁立を軸に選挙共闘を積極的に呼びかけ、支援・投票し続けている。また、社民党との将来の合併を見越して「社会党」への改称を試みたが、多くの党員の反対により否決された。また、日本共産党にも護憲での共闘を呼びかけ、地方選挙では支援した例もあるが、共産党は2006年1月6日、門前払いにしている(「政党間共闘の条件は存在しない」 共産党が新社会党の申し入れに回答)。
党員数が少ないため独自の運動を展開するのは困難な状態にあるが、労働運動では全労協、連合の一部(自治労、日教組、旧全国一般など)と共闘関係。憲法運動では「憲法を生かす会」を組織。
[編集] 歴代党委員長
委員長 | 在任期間 |
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矢田部理 | 1996年 - 2002年 |
小森龍邦 | 2002年 - 2005年5月29日 |
栗原君子 | 2005年5月29日 - |