社会党左派
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社会党左派(しゃかいとうさは)とは、一般的には、旧日本社会党にあって、福祉国家を志向せず、労農派マルクス主義に基づく政治路線を志向した勢力を指す。結党時から1960年代までは、戦前の労働農民党か日本無産党の系譜に連なる政治家・活動家および左右分裂時に左派社会党に参加した和田博雄派を指した。構造改革論争以降は、構造改革論に反対する佐々木更三派や社会主義協会などを指した。村山富市政権成立後は、村山委員長を支持するグループをマスコミが便宜的に左派と呼んだ。一段階革命論や、平和革命を特徴とした。
目次 |
[編集] 結党から左右分裂まで
結党時の社会党は社会民衆党系や日本労農党系の右派が中心で執行部が占められ、左派はごく少数であった。このため片山哲・芦田均内閣に対しては党内野党の立場に立つことが多く結果的に政権を失う原因にもなった。しかし芦田内閣末期に昭和電工疑獄事件が起きたことが結局政見に対する見識を評価されることになり、更に森戸・稲村論争後に左派の鈴木茂三郎が書記長に就任するなど発言権が強まった。
[編集] この時期の主な政治家
- 加藤勘十
- 戦前は「ファッショ反対」を訴えて、一貫して戦争に反対した。片山内閣には批判的だったが、芦田内閣では労働相として入閣。サンフランシスコ講和条約に賛成して、左右分裂時は右派社会党に属した。再統一後、統制委員長となる。
[編集] 左派社会党(1951-55年)
1951年、サンフランシスコ講和条約の賛否をめぐり、社会党は分裂し、講和条約反対派を便宜的に「左派社会党」と呼んだ。(略して左社)左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。委員長には鈴木茂三郎が、書記長には野溝勝が就任した。(1954年に書記長は和田博雄に交代)
日本労働組合総評議会(総評)の支援を受けたために、当時としては組織的な選挙を展開し、「組織の左社」と呼ばれた。非武装中立論を主張して再軍備に反対し、さらに逆コースに反対して護憲を主張し、女性やホワイトカラー層を中心に支持を集めた。
分裂直後16議席であったが、1952年総選挙で54議席に増え、1953年総選挙ではさらに72議席に増えて右社を追い抜いた。1955年総選挙では89議席となり、左派優位体制を確立した。1955年10月13日、左右社会党は再統一した。左社委員長の鈴木は統一した社会党の委員長となったが、再統一に反対した和田書記長は統一した党7役から外された。
[編集] この時期の主な政治家
[編集] 構造改革論争以後
鈴木派の実力者だった佐々木更三は、同じ鈴木派の江田三郎が構造改革論を唱えると、社会主義協会と手を組んで、構造改革論批判をはじめ、構造改革論争を引き起こした。この論争はやがて、「江田おろし」の様相を呈するようになり、党内では熾烈な派閥抗争が展開されるようになった。
佐々木派は中国と、社会主義協会はソ連との関係を深めたが、そのため、左派が掲げる非武装中立主義に対する国民の信頼は薄くなっていった。
1970年代には社会主義協会が活動家の支持をうけて勢いを振るうようになり、プロレタリア独裁を肯定するなど、日本共産党以上に過激な主張をするようになった。しかし、1977年の江田離党とその後の死をきっかけに、社会主義協会批判が高まり、理論研究集団に徹することを約束させられた。
以後、右派の発言権が高まり、左派出身の委員長の下で、社会党のイデオロギーや政治路線の見直しが右派の主張にしたがってすすめられるという状態が続いた。
1986年の土井たか子委員長の出現で一時、左派も息を吹き返した感があったが、イラクによるクウェート侵攻以後は非武装中立論に対する国民の支持は急速に失われていった。
[編集] この時期の主な政治家
- 佐々木更三
- 社会主義協会と組んで執拗な江田批判をおこなう。しかし、次第に自らの政治基盤を社会主義協会に侵食され、江田と和解し、反協会派を形成する。社会党に無用な混乱を引き起こし、党衰退の要因をつくった。
- 成田知巳
- 委員長。「福祉国家の道は採らない。社会主義で行く」と言明。ヨーロッパにおける社会主義像の変化に鈍感であった。第三国を経由せず、船で日本海を横断し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問。
- 土井たか子
- 反自民の風潮に乗って「おたかさんブーム」を引き起こすが、政権戦略に欠けていたため、ブームを一過性のものにしか出来なかった。
[編集] 村山政権以後
小沢一郎の強権政治および「普通の国」路線に反発し、自民党と組んででも、社会党の自主性を取り戻そうとした勢力をマスコミは便宜的に左派と呼んだ。そのため、山口鶴男のように、かつては右派とされていた政治家も村山を支持したために左派と呼ばれることとなった。村山政権は社会党らしい政策を打ち出すことにほとんど失敗し、逆に社会党自身が基本政策の転換に迫られることとなった。
ただし、「当時70議席に過ぎなかった社会党には独自の政策を打ち出すのは不可能であり、限られた条件の中で村山らは社会党らしさを打ち出し、なおかつ社会党崩壊の原因となった小選挙区制導入を阻止しようと努力した」と村山を擁護する声も根強い。また、「基本政策の転換も党大会で追認されており、村山や左派のみに責任を転嫁するのは間違いである」という主張もある。
村山富市とその周辺は、本来なら「社会党右派」に属する。村山は、一貫して自治労右派、政権構想研究会、水曜会と右派に属して政治活動をしてきた。村山を支えた幹部をみても、山口鶴男は政権構想研究会、水曜会の大幹部だったし、国会の爆弾男として鳴らした大出俊も山口とほぼ同じ。村山内閣を作る際に、小沢一郎を手玉にとった当時の国対委員長で、後に村山内閣二代目の内閣官房長官となる野坂浩賢も、後に社民党幹事長となる伊藤茂らもどちらかと言えば中間右派に属した。
かつて社会党左派と呼ばれた政治家や活動家は、現在では民主党、社会民主党、新社会党に3分解している。民主党内の社会党出身者は、横路などを除くと、社会党左派に属していた者が多く、社会党分裂に際して、議員と一緒に民主党へ乗り換えた職員、オルグたちも社会主義協会籍を隠した者が少なくない。むしろ、村山社民党に残った者の方が、議員、職員・オルグとにも、本来の社会党右派が多かったとする内部の指摘がある。左右両派を比較すると、左派の方が転換にすばしっこく、右派の方が不器用であることが多い。国鉄改革に際しても、国労に残ったのが民同左派出身のどちらかと言えば中間右派、鉄産労を作って当局と最終妥協した方が実は左派だったとするJR経営側労務畑幹部の話も伝わる。更に社会党以外から多くの保守派が民主党へ入党している為、党内での左派の存在は埋没している。社会党の後身である社会民主党ははっきりと西欧流社会民主主義を謳い、社会党左派の立場を継承しているはずの新社会党も1996年の衆議院総選挙、1998年の参議院選挙で国会の議席を失って以来、選挙のたびに得票を減らし続け、2003年、衆議院総選挙では公認候補を立てられなかった。