栗原君子
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栗原 君子(くりはら きみこ、1946年1月13日- )は、広島県出身の日本の市民運動活動家、政治家。元参議院議員で、現在は新社会党中央執行委員会委員長。
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原子爆弾が投下された広島の出身で、若くから反核運動・平和運動に参加した。母は反戦詩人栗原貞子。1975年4月から1992年まで、熊野町議会議員を務めた。
1992年の第16回参議院議員通常選挙に地元の広島県選挙区に「護憲・ヒロシマの会」から立候補。「連合の会」の現職議員を破り初当選。当選後は日本社会党に所属した。非武装中立や自衛隊違憲論などの社会党の伝統的な政策を重視し、1993年に社会党が細川護煕連立政権への参加で自衛隊容認に転じたことを党内から批判した。1994年の政治改革関連法案では、与党議員でありながら反対票を投じた。
1995年、社会党の村山富市委員長が自由民主党等との連立で首相に就任し、自衛隊合憲や日米安全保障条約の堅持を打ち出すと激しく反発した。同党がこの方針を綱領とした新党への改組を検討すると、栗原は左派の矢田部理に同調して新党参加を拒否し、1996年1月、村山による社会民主党結成に先立って、矢田部や同じ広島県出身の小森龍邦などと共に新社会党を結成した。
栗原にとって新社会党への参加は政治信念に基づいた結果であったが、社会党時代に支援を受けた連合系労働組合が離反したのは大きな痛手となった。1998年の第18回参議院議員通常選挙では新社会党の公認候補者として広島県選挙区から出馬したが落選し、これで同党所属の国会議員はいなくなった。2001年の第19回参議院議員通常選挙でも同じく広島県選挙区から立候補し、落選した。
その後は市民運動に関わり、2005年には小森の後任として新社会党の第3代委員長に就任した。新社会党初の女性委員長で、党勢の衰退に歯止めを掛ける役割を期待されている。至近選挙での国会議席回復が厳しいなか、日本国憲法の擁護(護憲)や自衛隊の海外派遣反対などで社民党や日本共産党、各種市民団体との連携を模索している。ただし、前任者の矢田部や小森ほどの知名度は無く、理論家としての評価も定まっていない。
また、戦前の日本の戦争責任を追及し、個人補償を求める外国の団体との共闘をおこなうこともあるため、愛国主義(右翼)的主張を持つ論者からは「反日的・自虐的」という批判を浴びることもしばしばある。
2007年参院選への出馬を表明した。比例区からの出馬を目指しているが、新社会党単独での比例区擁立は困難なため、共産党や社民党と共同名簿を組み、その名簿団体の公認候補としての出馬を希望している。
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