藤原良房
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藤原 良房(ふじわらの よしふさ 延暦23年(804年) - 貞観14年9月2日(872年10月11日))は、平安時代の貴族、廷臣、公卿。人臣最初の摂政。染殿、白河殿と称される。
藤原北家の藤原冬嗣の二男として生まれる。嵯峨天皇の皇女源潔姫を妻とし、妹の順子を女御として権勢を振るう。承和9年(842年)、順子所生の道康親王を皇太子に立てるため、承和の変を仕組んで皇太子恒貞親王を廃することに成功した。承和11年(844年)、道康親王が文徳天皇として即位するに及び自分の娘明子(あきらけいこ)を女御として配し、自らは人臣最初の太政大臣となった。さらに文徳天皇の後、惟喬親王を退け、明子の産んだ惟仁親王を9歳で即位させ清和天皇とした。良房は天皇の外祖父として人臣最初の摂政の座についた。また、貞観8年(866年)、応天門の変では、大納言伴善男を退け、大伴氏の勢力を宮中から駆逐、名実ともに藤原氏の第一人者となり、その後の藤原氏の地位を確立した。良房には嗣子がいなかったため、兄の藤原長良の三男、藤原基経を養子とした。
[編集] 系譜
- 父:藤原冬嗣
- 母:藤原美都子(父:藤原真作)
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 814年(弘仁5)、嵯峨天皇より皇女の潔姫を降嫁
- 826年(天長3)1月、蔵人に補任。 2月、中判事に遷任。
- 828年(天長5)1月7日、従五位下に叙位。 閏3月9日、大学頭に任官。
- 830年(天長7)5月、春宮(のちの仁明天皇こと、正良親王)亮に遷任。 11月、越中権守を兼任。 閏12月、加賀守を意兼任し、越中権守を去る。
- 833年(天長10)2月、左近衛少将に転任し、加賀守如元。 2月、蔵人頭に補任。左近衛少将如元。 3月6日、従五位上に昇叙し、蔵人頭・左近衛少将如元。 8月14日、正五位下に昇叙し、蔵人頭・左近衛少将如元。 11月18日、従四位下に昇叙し、左近衛権中将に転任。蔵人頭如元。
- 834年(承和元)7月9日、参議に補任し、左近衛権中将如元。
- 835年(承和2)1月7日、従四位上に昇叙し、参議・左近衛権中将如元。 4月7日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。 4月15日、左兵衛督を兼任。
- 839年(承和6)1月11日、陸奥出羽按察使を兼任。
- 840年(承和7)8月8日、中納言に転任し、左兵衛督・陸奥出羽按察使如元。
- 842年(承和9)1月7日、正三位に昇叙し、中納言・左兵衛督・陸奥出羽按察使如元。 7月11日、右近衛大将を兼任し、左兵衛督を去る。 7月25日、大納言に転任し、左近衛大将を兼任。陸奥出羽按察使如元。 8月11日、民部卿を兼任し、陸奥出羽按察使を去る。
- 844年(承和11)2月、陸奥出羽按察使を兼任。
- 848年(承和15)1月10日、右大臣に転任し、右近衛大将如元。
- 849年(嘉祥2)1月7日、従二位に昇叙し、右大臣・右近衛大将如元。
- 851年(嘉祥4)11月7日、正二位に昇叙し、右大臣・右近衛大将如元。
- 854年(仁寿4)8月28日、左近衛大将を兼任し、右近衛大将を去る。
- 857年(斉衡4)2月19日、太政大臣宣下。左近衛大将を去る。 改元して天安元年4月19日、従一位に昇叙し、太政大臣如元。
- 858年(天安2)11月7日、摂政宣下。太政大臣如元。
- 864年(貞観6)、摂政を去る。
- 866年(貞観8)8月19日、摂政宣下。太政大臣如元。
- 871年(貞観13)4月1日、准三宮宣下
- 872年(貞観14)9月2日、薨去。享年69. 9月4日、贈正一位。忠仁公の諡号を賜る。
[編集] 関連項目
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