恒貞親王
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恒貞親王(つねさだしんのう、天長2年(825年) - 元慶8年9月20日(884年10月12日))は、平安時代前期の皇族。淳和天皇の第2皇子。母は嵯峨天皇の皇女正子内親王。異称は亭子親王。法名は恒寂。
異母兄の恒世親王の死後、淳和天皇の後継者とされた。833年(天長10年)従兄弟にあたる仁明天皇の即位に際し立太子したが、淳和上皇や恒貞親王は皇太子に立てられる事によって権力闘争に巻き込まれる事を憂慮して度々事辞退の申し入れをしたものの、嵯峨上皇や仁明天皇に慰留されてしまう。だが、淳和上皇の死後に承和の変が発生して、842年(承和9年)に皇太子を廃された。
その後24歳で出家して法号を恒寂と称した。真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となった。884年(元慶8年)陽成天皇が退位したあとの皇位継承問題が生じた際に、即位を要請されたがこれを拒絶したと伝えられている。
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