岡田武史
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岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 -大阪市生まれ)は、元サッカー選手。横浜F・マリノス前監督。岡ちゃんの愛称で知られる。メガネにジャージがトレードマーク。
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[編集] 来歴
1997年にサッカー日本代表のコーチを勤めていたが、フランスW杯予選で成績不振だった加茂周監督の更迭を受け、監督代理として任命された。その後代表チームを率いて、残りの予選を戦い、土壇場から初めての本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。その後、本選では正式に監督に任命される。また、1998年の本戦直前に日本のエースだった三浦知良や北澤豪をメンバーから外した事などで当時世間の注目を集めた。本選では「グループリーグ1勝1敗1分で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、エースに指名した城彰二が期待外れに終わり、3戦全敗で敗退した。
1999年には、J2落ちしたコンサドーレ札幌の監督に就任。元日本代表監督だけあって、就任1年目は5位に終わったが2年目の2000年には圧倒的な強さでJ2制覇。自身初体験となるJ1クラブの監督となる。就任3年目の2001年、コンサドーレ札幌の監督を辞め、解説者になる。
2003年には、横浜F・マリノスの監督に就任。当初の念願だった常勝チームの監督になる。充実した戦力で1年目の1stステージから優勝。以後、3ステージ連続優勝、2年連続年間優勝のタイトルを獲得する。
2005年、横浜F・マリノスの成績低迷の責任を取り辞めると噂されたが、2006年以降も監督を続投することが公式に発表された。しかし2006年は開幕から4連勝したもののその後は急激に調子を落とし、誕生日前日の2006年8月24日に電撃辞任した。表面上は成績不振によるものとされているが、本当の理由はフロントとの確執にあると言われている。
- 堅実かつ柔軟な戦術を駆使し、数々のタイトルを勝ち取った非常に優秀な監督である反面、若手を好み、あまりベテランを重用しない采配から試合の盛り上がりに欠けるとも言われ、好き嫌いの分かれるところである。
- 幼少時からプロ野球阪神タイガースの大ファンである。岡田彰布阪神監督とは直接面識はないものの、同姓、同じ早稲田大学の同級生(1浪しているため)、優勝経験監督と、何かと共通点は多い。
- 97年サッカー日本代表フランスW杯予選、カザフスタン戦に引き分け、この結果加茂周が更迭される。それを受け、急遽監督に抜擢された彼だったが、その心境を、翌朝のインタビューでは「ホテルがスイートルームになっただけ」、後日も「別に大したことは無かった」、とひょうひょうと答えている。だが、更迭当夜、岡田に日本代表アシスタントコーチ就任を依頼された小野剛は、それを二つ返事で快諾すると、逆にこう叱りとばされたという。「そんなに簡単に受けて良いのか?例え話じゃないんだ、もし失敗したら本当に日本にいられなくなるかも知れないんだぞ!」マスコミをひょうひょうと交わしながら、しかし強烈なプレッシャーと戦うことになった、その覚悟の一面を見て取れる。
[編集] 略歴
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
- 1990年-1994年 - 古河電工/ジェフユナイテッド市原:コーチ
- 1995年-1998年7月 - 日本代表
- 1999年-2001年 - コンサドーレ札幌:監督
- 2003年-2006年8月 - 横浜F・マリノス:監督
[編集] 現役時代
- 大阪府立天王寺高等学校時代にはユース日本代表に選ばれた。
- 高校卒業後一年の浪人ののち早稲田大学政治経済学部に入学。当初は同好会でサッカーを楽しむつもりでいたが、サッカー協会関係者に「アジアユース選手権へ行かせたのは将来への投資だったのに」と嘆かれサッカー部(早稲田大学ア式蹴球部)入りした。
- この時期、学生結婚している。
- マスコミへの就職を志望していたがかなわず、1980年、大学卒業と同時に古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原の前身)に入る。頭脳派のディフェンダーとして活躍し、1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献した。
- 日本代表としても国際Aマッチ21試合に出場した。
- 1982年、インド・ニューデリーでのアジア大会に日本代表として出場。
- 当初発表された代表メンバに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により 岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。日本は1次リーグでイラン、韓国と同居する厳しいグループに入ったが、緒戦・イランでほとんど攻め手がなかったにも関わらず、試合終盤の木村和司のゴールで1-0の勝利。イラン戦、岡田の試合出場は無し。最終戦の韓国戦を迎えた段階で、日本2勝(首位)、韓国1勝1敗。ただし得失点差により、日本は自力で1次リーグ突破の2位以内を確保する為には引分以上が必要。この韓国戦で、日本はFW尾崎加寿夫に代え、守備的中盤選手として岡田を大会初起用、守備の枚数を1枚増やした布陣でゲームに臨んだ。前半、日本は1失点するも我慢強く守備を続け、後半13分に岡田の入れたクロスを原博実がゴール、1-1の同点とし、1次リーグ突破に大きく近づく。後半30分をまわり、勝つ以外に1次リーグ突破が無い韓国に攻め込まれるも、日本は我慢強く守った。そして一瞬のカウンターから左サイドのゴールライン際で風間八宏がボールキープ、GKまでつり出してからマイナスにグラウンダーのボールを折り返し、攻め上がった岡田が左足ダイレクトでゴールを決めた。試合はその後、引分でよいゲームをリードした日本が、あせる韓国をいなし、2-1で勝利、首位での1次リーグ突破を決めた。岡田は守備を期待されての起用ながら、2ゴールに絡む活躍で日本の1次リーグ突破に大きく貢献した。その後 日本は、準々決勝でイラクと対戦。岡田は韓国戦に続けてスタメン出場した。延長までもつれ込んだ試合は、結局0-1、日本の敗戦となった。ただし、この試合の後半25分、金田喜稔のクロスを原博実がヘディングでゴールに入れたシーン、VTRで何回見てもオフサイドとは見えなかったが、このプレーで日本はオフサイドを取られ、その後の試合展開に大きな影響を与えた。
- メガネがトレードマークであるが、現役時代にも、メガネをかけてプレイしていたことがある。
[編集] 指導者時代
- 1990年に現役を退くと古河電工のコーチに就任。
- 1992年にはドイツへコーチ留学している。
- 1994年、加茂周が日本代表チーム監督に就任した際に、そのサッカー理論を買われコーチとして招かれた。
- 1997年10月、FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選のさなか、加茂が成績不振を理由に解任されると、代理監督1試合ののち監督に昇格。イランとの第3代表決定戦の末予選を突破し、翌1998年の本大会まで日本代表チーム監督を務めた。
- 1999年、J2に転落したばかりのコンサドーレ札幌の監督に就任。クラブチーム初指揮となる初年度は5位に終わったが、自身の発想の転換以外にもチームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行い、エメルソンや播戸竜二、今野泰幸など若くて有能な選手を次々獲得した。翌2000年にはこれが結実し、圧倒的な成績でJ2優勝を果たした。2001年J1で年間11位の成績を残しコンサドーレを離れる
- 2002年、サッカー解説者として活動した。また、FIFAワールドカップ日韓大会では、NHKの解説者を務め、トルシエの後の次期日本代表監督候補にも噂された。
- 2003年、横浜F・マリノス監督に就任。ファースト・セカンド両ステージを制し、1年目にして「完全優勝」。年間王者に輝く。
- 2004年、ファーストステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。浦和レッドダイヤモンズと争ったサントリーチャンピオンシップも1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。
- 2005年、当然優勝候補の一つに挙げられていたが、アジアチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。結局、9位という不甲斐ない成績で終了した。
- 2006年もチームの調子は上がらず、18節終了時点で自力優勝が消滅。19節の大宮戦終了後に辞意を表明し、翌8月24日に辞任した。
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝ち点 | 順位 | チーム |
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1999年 | J2 | - | 36 | 17 | 13 | 6 | 57 | 5位 | コンサドーレ札幌 |
2000年 | J2 | - | 40 | 31 | 4 | 5 | 96 | 優勝 | |
2001年 | J1 | 1st | 15 | 6 | 6 | 3 | 21 | 8位 | |
2nd | 15 | 4 | 9 | 2 | 14 | 14位 | |||
年間 | 30 | 10 | 15 | 5 | 35 | 11位 | |||
2003年 | J1 | 1st | 15 | 10 | 3 | 2 | 32 | 優勝 | 横浜F・マリノス |
2nd | 15 | 7 | 3 | 5 | 26 | 優勝 | |||
年間 | 30 | 17 | 6 | 7 | 58 | 完全優勝 | |||
2004年 | J1 | 1st | 15 | 11 | 1 | 3 | 36 | 優勝 | |
2nd | 15 | 6 | 5 | 4 | 22 | 6位 | |||
年間 | 30 | 17 | 6 | 7 | 59 | 優勝 | |||
2005年 | J1 | - | 34 | 12 | 10 | 12 | 48 | 9位 | |
2006年途 | J1 | - | 19 | 6 | 8 | 5 | 23 | 12位 |
※2005年シーズンより、1st,2ndステージ制を廃止し、1ステージ制を採用している。
※2006年は成績不振で引責辞任。順位は辞任当時のもの。
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
日本代表 - 1998 FIFAワールドカップ | ||
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1 小島伸幸 | 2 名良橋晃 | 3 相馬直樹 | 4 井原正巳 | 5 小村徳男 | 6 山口素弘 | 7 伊東輝悦 | 8 中田英寿 | 9 中山雅史 | 10 名波浩 | 11 小野伸二 | 12 呂比須 | 13 服部年宏 | 14 岡野雅行 | 15 森島寛晃 | 16 斉藤俊秀 | 17 秋田豊 | 18 城彰二 | 19 中西永輔 | 20 川口能活 | 21 楢崎正剛 | 22 平野孝 | 監督 岡田武史 |
- 日本代表監督
- 1997途中-1998
-
- 先代:
- 加茂周
- 次代:
- フィリップ・トルシエ
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