フィリップ・トルシエ
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フィリップ・トルシエ(Philippe Troussier、1955年3月21日 - )はフランス出身のサッカー監督。1998年~2002年まで日本サッカー協会の要請を受け、サッカー日本代表監督を務めた事で知られる。アフリカで実績を上げ、ブルキナファソにて白い呪術師(White Witchdoctor)の異名をとった。
2006年3月に在住地のモロッコで、ドミニク夫人とともにムスリムとなり、イスラム教における名をオマルと改名(夫人は「アマナ」と改名)、3人のモロッコ人の少女を養子にもらった。(現在でも仕事上では俗名である“フィリップ・トルシエ”を使用)
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[編集] 経歴
[編集] 来日まで
- 1955年 フランス・パリで6人兄弟の長男として生まれる。実家は精肉店だった。
- 1976年 フランスリーグでプロサッカー選手となる。
- 1984年 指導者に転向。フランスではU-15フランス代表監督や、アランソン、レッドスター、クレテイユといったクラブの監督を務める。
- 1989年 アフリカ・コートジボワールに渡りASECミモザ・アビジャン監督に就任し選手権3連覇を達成。
- 1993年 アビジャンでの功績が認められ前年アフリカネイションズカップを制したコートジボワール代表監督に迎えられるが、サッカー協会と決裂し解任。
- 1997年2月 ナイジェリア代表監督に就任してフランスW杯予選突破を達成するも、サッカー協会と決裂して同年9月に解任。
- 1998年春 既に決まっていた南ア代表監督就任までの間という条件で、同年のアフリカネイションズカップのホスト国・ブルキナファソ代表の監督に迎えられる。短期間でよくチームを作り、弱小と見られていた同国をベスト4に進出させた。
- 1998年 3月 W杯南アフリカ代表監督に就任。1998年フランスワールドカップは2分1敗で1次リーグ敗退、契約期間満了に伴い退任した。
[編集] 日本代表監督時代
- 1998年9月 フランスワールドカップ終了後、日本代表監督に就任。契約期間は2年で、その後2年はオプション。ファルカン監督以来5年ぶり、3人目の外国人監督となった。A代表とU-21代表(98年当時)の監督を兼任。
- 同年12月 バンコクアジア大会ではU-21代表を率いて臨み、二次リーグ敗退。
- 1999年 清雲栄純の後任としてU-20代表監督を兼職。FIFAワールドユース・ナイジェリア大会では準優勝を果たした。秋には中田英寿も合流したU-22代表を率いて、二大会連続の五輪出場を決める。一方A代表では招待されたコパ・アメリカで二敗一分けに終わりほとんど実績を残せず、批判の声も現れ始めた。
- 2000年 五輪代表をA代表に合流させるも、2月のカールスバーグカップでメキシコに破れ香港リーグ選抜に引き分け、3月中国に引き分け、4月韓国に負けと一向に成績は上向かなかった。このため批判が高まり、サッカー協会が契約を更新しないとの噂がマスコミを通じて喧しくなる。しかし、5月にモロッコで開催されたハッサン二世国王杯でフランスと2-2で引き分け、続くキリンカップ2000でも同点優勝し、自らの契約延長を勝ち取る。
- 同年9月 シドニーオリンピックではメキシコシティオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出。準々決勝でアメリカ合衆国とPK戦の末、準決勝進出を逃す。
- 同年10月 レバノンで開催されたアジアカップ2000では、グループリーグ第1戦・第2戦で圧勝して決勝トーナメントへ。決勝トーナメントでイラク、中国、サウジアラビアを撃破し、1992年大会以来の優勝。
- 2001年3月24日 母国フランス・スタッド・ド・フランス(サン=ドニ)で行われたフランス代表との親善試合に臨むも、『サン=ドニの悲劇』とも呼ばれる0-5の惨敗を喫してしまう。これを機に、チームのベースを結果至上の現実路線に大きく転換。4月のスペイン戦では5バック・3ボランチという超守備的布陣で臨み、結局0-1で破れた。
- 2001年6月 日韓共催FIFAコンフェデレーションズカップ準優勝。
- 2002年6月 日韓ワールドカップでは「ノルマ」と言われたグループリーグを2勝1分の成績で突破し、日本代表を初の決勝トーナメント進出に導く。しかし決勝トーナメント1回戦トルコ戦、日本代表は0-1で敗れる。W杯終了後、監督を退任した。
[編集] 2002年以降
- 2002年7月 フランス代表監督の最終候補に残るが、面接の結果ジャック・サンティニが選ばれ選に漏れる。
- 2002年8月以降 1年間のサバティカルを利用し、長年の懸案事項であった古傷の膝の手術を行いリハビリに専念。
- 2003年8月 カタール代表監督に就任。
- 2004年7月 成績不振のためカタール代表監督を解任される。
- 2004年11月 Jリーグ・ヴィッセル神戸から監督就任のオファーが届く。就任確実とも言われたが、フランスの名門オリンピック・マルセイユから届いたオファーで翻意し、契約せず。
- 同年11月 フランス・マルセイユの監督に就任。
- 2005年5月 UEFAカップ出場権を逃したことなどもあり、マルセイユの監督を解任される。
- 同年7月 ナイジェリア代表監督に再び就任とナイジェリアサッカー協会より発表があったが、膝の手術のためこれを辞退する。
- 同年10月 モロッコ代表監督に就任。2010年ワールドカップ(W杯)までの5年契約を結ぶ。
- 同年12月 モロッコサッカー連盟との考え方の相違を理由に代表監督を解任される。
- 2006年3月 モロッコ人の養子を迎えたことで、子供達のためにと妻と共にイスラム教に改宗。名はオマルをもらう。
- 2006年6月 テレビ東京とドイツW杯コメンテーター契約を結び、同局の中継放送・及び各種関連番組に出演。
[編集] 選手経歴
[編集] 監督経歴
- INFビシー(フランス)1983-1984
- CSアレンソン(フランス)1984-1987
- レッドスター(フランス)1987-1989
- USクレテイユ(フランス)1989
- ASECミモザ(コーチジボワール)1989-1992
- コーチジボワール代表1993
- カイザー・チーフス(南アフリカ)1994
- FUSラバト(モロッコ)1995-1997
- ナイジェリア代表 1997
- ブルキナファソ代表 1997-1998
- 南アフリカ代表 1998
- 日本代表 1998-2002
-
- U-20日本代表 1999
- 日本オリンピック(U-23)代表 1999-2000
- カタール代表 2003-2004
- オリンピック・マルセイユ(フランス)2004-2005
- モロッコ代表 2005
[編集] 人間「トルシエ」
- 練習中は選手を怒鳴ったり突き飛ばすなど話題に事欠かなかったが、真意として「日本代表は中田英寿を除くと幼く、大人しすぎる」と分析し、選手達が国際試合で戦えるためにあえてこのような指導法を貫いたと本人は主張している。そしてその中から反論したり自己主張する精神を養い、評価しているつもりだということである。
- ジンクスを大切にし、勝った試合で着ていたスーツや靴下を次の試合でも着用し試合に臨んでいた。しかし2002年ワールドカップのトルコ戦では「黒スーツだと勝てる」というジンクスに反するグレーのスーツで現れたこともある。
- 些細なことでムキになったり怒鳴るなど、子供のような一面もある。また、「日本にキャプテンはいらない」など異端な発言を繰り返し、こういった性向から各国のサッカー協会、クラブチームの首脳陣や選手たち(釜本邦茂、川淵三郎、エディ・トムソン、フレデリック・アントネッティ、ビセンテ・リザラズなど)と確執が絶えなかった。
- 2002年ワールドカップのチュニジア戦、スクリーンに大きく映された小野と中田(ちょうどこの2人はFKの前に時間をかけていた)を見て、「お前たちは映画スターのつもりか!」と激怒する等の数々のエピソードにより、彼のことをよく思っていないサッカーファンがいる一方で、日本代表監督時の実績や、マスコミやサッカー協会に対して躊躇なく批判を向けたことを評価するファンもおり、未だ評価の分かれる所である。
- プライベートでは通訳を担当したフローラン・ダバディーと行動を共にし、日本の文化を学んだりした。好きな日本食は蕎麦だったそうである。相撲部屋を見学した際に貴乃花光司に感銘を受けて親しくなり、後に貴乃花が膝を負傷したとき、トルシエの紹介によってフランスで手術を受けている。またダバディーの知り合いだった滝川クリステルを「フランス語で直接会話できる才色兼備な女性」として大変気に入っていた、と自ら語っている。
- 2006年、ドイツW杯コメンテーターとして、テレビ東京の番組に数多く出演したが、バラエティ的要素を持ったコーナーなどではユーモア溢れる言動も多く、代表監督時代にはあまり見られなかったユニークな一面を見せた。また、ある局のスポーツ番組では日本の決勝トーナメント進出のカギを握る選手を中村俊輔と答えた。
[編集] 戦術
[編集] フラットスリー
彼が指導者として教育を受けた時代には3バックが全盛だったこともあり、どのチームに赴いてもフラットスリーと言われる3-5-2システムを軸にしてきた(マルセイユではコーチ陣の助言により、一部の試合で4バックも用いている)。
- ディフェンダー3人をフラットに並べて高く押し上げ、コンパクトさを維持する(プッシュアップ)
- オフサイドトラップを多用し、相手を牽制する(オフサイドトラップ)
- 守備的な選手を配置した厚い中盤でプレッシャーをかける(プレッシング)
- 中央型のMFを両サイドに配置する(トルシエの場合、もっぱら左サイドに攻撃的選手、右サイドに守備的選手が配される)
これらを特徴とする。前三者は欧州を席巻したアリーゴ・サッキ率いるACミランが、最後の点は1986年のメキシコワールドカップでのデンマーク代表チームの布陣がヒントになっているといわれる。
通常ウイングバックのポジションには縦の突破力が求められるが、トルシエの場合はそれを必要とせず、片方のサイドに攻撃の起点としての役割を求める(先のデンマーク代表は両サイドともトップ下を主戦場とする攻撃的な選手だったため、スペイン代表が研究した末に選んだカウンター攻撃に沈んだ)。それが最も機能したのはサウジアラビアに4-1、ウズベキスタンに8-1で勝利したアジアカップ2000である。しかしいったん守勢に回ると、DFライン近くに帰陣する守備貢献を要求され、そこから前線に攻撃で顔を出さねばならないため、中央型のMFが機能していたか疑問を呈する声も多い。
ラインコントロールにおける特徴としては、
- ボールホルダーに対して3mの間隔を保ち、ラインを維持する。
- 相手チームのボールホルダーの挙動に応じて、ラインを上げるか、下げるか、止めるかの判断を行う。
というものが挙げられる。
欠点としては、
- 高いディフェンスライン一般に言えることだが、ディフェンスライン背後の大きなスペースを攻略される
- ライン制御に固執しすぎるため、DFの呼吸が少しでも崩れると簡単に失点しやすい(例:W杯ベルギー戦)
- 3バック全般に言えることであるが、3バックの両脇のスペースを突かれやすい
などがある。明神智和によると、トルシエは相手の2列目の選手がディフェンスラインの裏に走り込んできた状況の対処法を教授していなかったとのことである。トルシエ本人は、最後までラインを維持したカバーリング[1]で対処できると考えていた。ワールドカップ直前期のノルウェー戦ではその欠陥が顕在化していたが、特段の修正もないまま本大会に臨んだ。
2002FIFAワールドカップの初戦、日本対ベルギーでの2失点はどちらもセットプレー後、プレッシャーをかけていない状況でディフェンスラインを上げたため、その裏のスペースを狙われたものだった。このため、大会前から危機感を覚えていた選手たちは監督不在のミーティングで戦術変更を決断し、相手チームがボールを保持した時にディフェンスラインを深めに設定し、安定志向の守備でロシア戦以降を戦うことになったと選手が証言している。ロシア戦の試合中にトルシエが「ラインを上げろ」と声を荒げたが、選手たちは自主的に決断した戦術変更を遂行した。
[編集] オートマティズム
トルシエはオートマティズムを重要視し(自身のサッカー観として、オートマティズムなど組織的な面が60%で占め、残りの40%が個々のタレントの力と発言したことがある)、ボールの位置や状況に応じて選手が自動的に動けることを理想とした。このため練習では紅白戦が極端に少なく、シャドートレーニングに主眼が置かれた。メリットとしてはメンバーが入れ替わってもチームの質が大きく変化しないこと、デメリットとしては選手の個性が出しにくく、意外性を欠き、ゲームのリズムに変化をつけにくいことが挙げられる。
攻撃面では、アジアカップ2000で見せた左サイドを起点にトップに縦パスを入れ、第3の動きで飛び出すパターンがオートマティズムの理想に近いものであった。しかし世界レベルでは、攻守ともに組織が機能不全に陥ったサンドゥニでのフランス戦の大敗以降、守備重視の選手選考・チーム構築へシフトしたこと、更にトルシエがアジアカップで重用した名波浩が膝を痛めて長期離脱した影響もあり、「ボールを奪ったらトップの選手に素早くボールを入れること」という方針の下、ダイレクトプレーが多用されるようになった。
守備面では、守備の苦手な選手でもどのタイミングにどの位置取りをしなければならないかの意思統一がなされていたことで効果的な守備ができていた、と松田直樹が肯定的な評価をしている。ただし、フラットスリーのラインコントロールを機能させるにはオートマティズムの徹底が不可欠であるが、緻密な連動を90分の試合中に保ち続けるのは困難である。ワールドカップベルギー戦の一失点目は、セットプレー時のラインの押し上げに右サイドの選手が取り残され、オフサイドをかけられなかったことによる。
[編集] 関連項目
- フローラン・ダバディー - トルシエのアシスタントとして活躍した。
- スター・システム - 日本のサッカー報道を批判するにあたって使った言葉。
[編集] 外部リンク
日本代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
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