川口能活
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川口 能活(かわぐち よしかつ、1975年8月15日 - )は日本のプロサッカー選手。静岡県富士市出身。弱冠21歳でフル代表に選出されて以来、代表に選ばれ続けている日本の守護神。
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[編集] プレイスタイル
身長179センチは世界の他のGKと比べるとかなり小柄であるが、それを補って余りある高い身体能力を誇り、ゴール前での果敢な飛び出しと俊敏な反応が武器。DFへのコーチングにも優れ、攻撃の起点となる正確なフィードキックも備えている。国際試合の大舞台に滅法強く、研ぎ澄まされた集中力でスーパーセーブを連発する。PKストッパーとしても名高い(本人曰くPKを止めるコツがあるらしいが「企業秘密」と言い貫いている)。ワールドカップのたびに。日本代表正GKの座を争ってきた、名古屋グランパスエイトの楢崎正剛とは、プレイスタイルが正反対である。
欠点としては、好不調の波が比較的大きく、そのパフォーマンスがどの試合でも発揮されるわけではないことや、ドイツW杯グループリーグ・オーストラリア戦)に見られるように、積極的なプレースタイルが仇となってミスをしてしまう場合があること、などが挙げられる。
代表での活躍の記憶が強いせいか、クラブでは活躍しないなどと時に揶揄されてきたが、2006年は代表でもクラブでも安定した結果を残し、Jリーグアウォーズでベストイレブンにも選ばれている。
[編集] 経歴
- 1993年 清水市立商業高等学校卒業
- 1994年-2001年10月 横浜マリノス/横浜F・マリノス
- 2001年11月-2003年8月 ポーツマスFC(イングランド)
- 2003年8月-2004年 FCノアシェラン(デンマーク)
- 2005年- ジュビロ磐田
高校卒業後、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。入団2年目にして、かつて日本代表の守護神であった松永成立からポジションを奪う。その年、Jリーグ新人王獲得。 1996年のアトランタ五輪では、ブラジル戦でビッグセーブを連発し、マイアミの奇跡の立役者となった。
その後、順当に日本代表に選ばれ、フランスW杯・アジア最終予選の全試合に出場。予選突破に大きく貢献した。フランスW杯・本大会では3戦全敗したものの、多くの好セーブを見せ、世界的に高い評価を受けた。
フランス大会後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では楢崎正剛にポジションを譲る機会が多くなったが、負傷の楢崎に代わって出場したアジアカップ2000では優勝の立役者となる。 2001年、FIFAコンフェデレーションズカップ で正GKに復帰し、準優勝を果たす。その後、イングランドのポーツマスFCへ念願の海外移籍を果たす。 しかしポーツマスFCでは言葉の問題もありポジションを奪えずベンチを暖める日々が続き、日韓W杯では代表メンバー23人に選ばれるも、結局出場の機会を与えられなかった。
日韓W杯後、ジーコが日本代表監督に就任するが、依然としてポーツマスで出場機会を得られなかったため、代表でも控えに甘んじることになる。 2003年、出場機会を求めてデンマークのFCノアシェランに移籍するも、ポジションを確保するまでには至らず、なおも苦悩の日々が続く。 しかし、中国で開催されたアジアカップ2004が転機となる。負傷の楢崎に代わってゴールマウスを守り、2連覇に大きく貢献。ポジションを奪回した。 2005年、ジュビロ磐田に移籍。 2006年、自身3度目となるドイツW杯の代表メンバーに選ばれ2大会ぶりに正GKとして出場した。初戦のオーストラリア戦では終盤に自身の判断ミスもあり短時間で大量失点を許してしまったが、第2戦のクロアチア戦では相手PKを奇跡的にセーブした。第3戦のブラジル戦では計21本のシュートを浴び4失点するも、好セーブを連発。全試合を通して高いパフォーマンスを見せ、グループリーグ敗退に終わったチームの中から『1次リーグ敗退国ベストイレブン(FIFA発表)』控えGKに選定されるなど(正GKはチェコのペトル・ツェフ)、関係者や各メディアから高評価を受けた。
ドイツW杯後に発足したオシムジャパンにおいても代表に招集され続けている。現在はチーム最年長のベテランとしてキャプテンを務めている。
[編集] エピソード
- 極限状態の集中力に優れ、数々の伝説的なプレーを見せている。
アトランタ五輪では、ロナウドやロベルト・カルロスを擁し、五輪史上最強と言われたブラジルを相手にビッグセーブを連発し、完封勝利。マイアミの奇跡と呼ばれた。 アジアカップ2000、決勝のサウジアラビア戦では劣勢の中、好セーブを連発し、優勝に貢献。 アジアカップ2004、対ヨルダン戦のPK戦では、両チーム3本ずつ終了して1対3という崖っぷちの状況でPKを4連続でストップし、日本を奇跡的な逆転勝利に導いた。 ドイツW杯1次リーグの対クロアチア戦、負ければグループリーグ敗退が決定と言う試合中に与えてしまった絶体絶命のPKを鮮やかに止め、日本の決勝トーナメント進出に望みをつなげた。これにより川口は、ワールドカップにおいてPKを止めた史上20人目のGKになった。
- 練習熱心で努力家として有名だが、かつては精神的に不安定な面があり、試合中もミスを犯してしまうと集中力を欠き大量失点を喫することもしばしばであった。また、自らがストイックなあまり周囲に厳しすぎるという一面もあり、チームメイトに対しての怒鳴り散らすコーチング、叱責などは日常茶飯事であった。
高校時代からのチームメート田中誠は、「彼は高校時代、いつ休んでるのかわからないくらい朝から晩まで練習していた。今はむしろ僕らより早く帰るけど」「試合中は後ろ(=川口)がうるさくて、耳が痛くなるくらいだった」と語る。 日本代表が苦境に追い込まれた1998年フランスW杯アジア地区最終予選時においては、試合後のバスの中で主将の井原正巳と言い争いになり、一触即発の状態になったこともある。 当時は節制に節制を重ね、100分の1キログラム単位で体重管理を行うという徹底した自己管理も、川口の張り詰めたプレイスタイルを象徴していた。
- しかし、これらのヒステリックとさえ言われたスタイルも、日本代表の正ゴールキーパーの座を失ったり、海外クラブでの苦境を経験することで薄れていった。今では、試合中に無意味に怒鳴ることもなくなり、むしろミスをした味方を励ましたり、時折笑顔を見せたりとチームを鼓舞しようとする姿勢が目立つ。自身も楽しんでプレーできるようになったという。現在では、日本代表の主将を務めるまでに精神的に成長している。
- 普段はこれらのプレーとは裏腹な天然ボケかつ無頓着な素顔で、チームメイト達に格好の話題を提供する存在だという。例えば、洗濯を依頼する用具・練習着をゴミ袋に入れて持ってきたり、また、ある時にはマンモスの事をイノシシだと思っていたり…というエピソードがある。
- 近年の代表では背番号23を付ける事が多いが、本人が好きな番号なのでは無く、登録上の関係で割り当てられた番号を付けているにすぎない(ジーコ政権下では、当初の正GKが楢崎であり、その為背番号1は彼が付けていた)。本人は「(海外から帰ってきて、国内や代表では)1番には、やはりこだわりがある」と雑誌等インタビューで答えている。
[編集] 戦歴
[編集] Jリーグ通算成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1994年 | 横浜マ | J | - | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1995年 | 横浜マ | J | - | 41 | 0 | - | - | 2 | 0 | ||
1996年 | 横浜マ | J | - | 15 | 0 | - | 0 | 0 | 13 | 0 | |
1997年 | 横浜マ | J | 1 | 22 | 0 | - | 2 | 0 | 0 | 0 | |
1998年 | 横浜マ | J | 1 | 34 | 0 | - | 1 | 0 | 0 | 0 | |
1999年 | 横浜Fマ | J1 | 1 | 28 | 0 | - | 2 | 0 | 6 | 0 | |
2000年 | 横浜Fマ | J1 | 1 | 28 | 0 | - | 3 | 0 | 5 | 0 | |
2001年 | 横浜Fマ | J1 | 1 | 25 | 0 | - | 7 | 0 | 0 | 0 | |
2005年 | 磐田 | J1 | 1 | 29 | 0 | - | 1 | 0 | 3 | 0 | |
2006年 | 磐田 | J1 | 1 | 0 | - | 0 | 0 | ||||
通算 | 222 | 0 | - | 32 | 0 | 13 | 0 |
[編集] 個人タイトル
- 1995年 - 新人王
- 2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ ベストイレブン
- 2001年 - 6月AFA最優秀選手賞
- 2004年 - アジアカップ ベストイレブン
- 2006年 - Jリーグ ベストイレブン
[編集] 個人記録
[編集] 代表歴
- 1996年 - アトランタオリンピック出場
- 1998年 - フランスワールドカップ出場
- 2000年 - アジアカップ出場
- 2002年 - 日韓ワールドカップ代表メンバー選出
- 2004年 - アジアカップ出場
- 2006年 - ドイツワールドカップ出場
※国際Aマッチ出場試合数は6月22日のブラジル戦に出場し、三浦知良(91試合)を抜き歴代2位となる。(1位は井原正巳の123試合)
[編集] 外部リンク
ジュビロ磐田 - 2006 |
---|
1 川口能活 | 2 鈴木秀人 | 3 茶野隆行 | 4 大井健太郎 | 5 田中誠 | 6 服部年宏 | 8 菊地直哉 | 9 中山雅史 | 10 成岡翔 | 11 西紀寛 | 13 森下俊 | 14 村井慎二 | 15 西野泰正 | 16 岡本達也 | 17 太田吉彰 | 18 前田遼一 | 19 藤井貴 | 20 金珍圭 | 21 佐藤洋平 | 22 カレン・ロバート | 23 福西崇史 | 24 山本康裕 | 25 ファブリシオ | 26 中村豪 | 27 上田康太 | 28 船谷圭祐 | 29 森野徹 | 30 八田直樹 | 31 松井謙弥 | 32 山本浩正 | 33 犬塚友輔 | 監督 アジウソン | クラブ | 編集 |
日本代表 - 1998 FIFAワールドカップ | ||
---|---|---|
1 小島伸幸 | 2 名良橋晃 | 3 相馬直樹 | 4 井原正巳 | 5 小村徳男 | 6 山口素弘 | 7 伊東輝悦 | 8 中田英寿 | 9 中山雅史 | 10 名波浩 | 11 小野伸二 | 12 呂比須 | 13 服部年宏 | 14 岡野雅行 | 15 森島寛晃 | 16 斉藤俊秀 | 17 秋田豊 | 18 城彰二 | 19 中西永輔 | 20 川口能活 | 21 楢崎正剛 | 22 平野孝 | 監督 岡田武史 |
日本代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
---|---|---|
1 川口能活 | 2 秋田豊 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 稲本潤一 | 6 服部年宏 | 7 中田英寿 | 8 森島寛晃 | 9 西澤明訓 | 10 中山雅史 | 11 鈴木隆行 | 12 楢崎正剛 | 13 柳沢敦 | 14 アレックス | 15 福西崇史 | 16 中田浩二 | 17 宮本恒靖 | 18 小野伸二 | 19 小笠原満男 | 20 明神智和 | 21 戸田和幸 | 22 市川大祐 | 23 曽ヶ端準| 監督 トルシエ |
日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ||
---|---|---|
1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 アレックス | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |