尾瀬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾瀬(おぜ)は、福島県・新潟県・群馬県の3県にまたがる日本を代表する高層湿原。立ち入りが厳しく制限され、日本の自然・環境保護運動の象徴でもある。
目次 |
[編集] 概要
天然保護区域で、日光国立公園の西端部分にあたり、1953年、国立公園特別保護地域に、1960年、特別天然記念物に指定されている。
自然の宝庫である尾瀬は活火山である燧ケ岳の噴火活動によってできた高層湿原であり、ミズバショウやミズゴケなど湿原特有の貴重な植物群落が見られる。ほぼ全域が国立公園特別保護地域に指定されており、既にある道以外の場所への立ち入りが禁止されている。
このような湿原としての重要性から、日本国政府は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」(ラムサール条約)が指定する湿地の候補として選定した。2005年10月21日には国内での登録を終え、2005年11月8日第9回会議で正式に決定された。
[編集] 地理
至仏山、燧ヶ岳、袴腰山、中原山などの2000メートル級の山に全方向をかこまれた盆地である。東側が上流域にあたる尾瀬沼で標高1660m、西側の下流域にあたる尾瀬ヶ原が標高1400m。尾瀬沼と尾瀬ヶ原周辺に湿原が多い。沼や湿原は只見川の源流となっており、尾瀬ヶ原の水は全て三条の滝となって流れ出る。東西約6km、南北3km。特別保護地域の面積はおよそ8690ha。
[編集] 自然保護運動
尾瀬では自然保護運動がさかんであり、これらの運動の一部は尾瀬の後に他地域で実践されるようになったものも多い。このため、これらの活動について列挙する。
最初期の自然保護運動は、尾瀬原ダム計画の反対運動であった。尾瀬沼のほとりに住んでいた平野長蔵は、一人でこれに反対。発電所の建設に反対するために、尾瀬への定住を始めたという。実際には、発電用施設は尾瀬沼南岸に取水口が1つ建設されたのみで、それ以外は建設されなかった。ただし、東京電力は1966年まではこの地に発電所を立てる計画を持っていた。東京電力が発電所建設を正式に断念するのは1996年である。
その後尾瀬が有名な観光地になると、自動車で乗り入れができる、より簡便な観光ルートの建設が開始された。1960年代当時、自動車で入山できる場所は富士見峠しかなかったが、この後、鳩待峠、沼山峠が整備され、峠の頂上付近まで自動車で乗り入れることができるようになった。この後、三平峠と沼山峠を結ぶ自動車道の建設が始まるが、建設開始直後の1971年7月25日、平野長蔵の子孫の平野長靖が当時の環境庁長官大石武一に建設中止を直訴。5日後、大石が平野とともに現地を視察すると、直後に建設は中止された。竣工した道路の一部は1998年までに廃道になった。
ゴミ持ち帰り運動も、尾瀬が元祖であるとされる。1972年に開始され、翌年までにはすべてのゴミ箱が撤去された。ゴミ以外でも、廃棄物は原則として尾瀬には廃棄しないのも特徴である。公衆トイレの糞尿などは、現地で中間処理されたあと、ヘリコプターで回収されたり、パイプラインを通って尾瀬外の河川に流されたりしている。石鹸など洗剤も使用できない。山小屋の風呂も汗を流すだけで石鹸は使用されない。これは、これらの生活廃水などが自然環境に影響を与えると考えられているためである。
木道が整備され、木道以外の場所を歩けないようにしてあるのも、尾瀬の特徴である。当初、木道の目的は、歩行者がぬかるみにはまらないようにするためのものであった。しかし、1960年代、当時唯一、近くまで自動車で行きくことができた湿原、アヤメ平が登山者により踏み荒らされたことを契機に、尾瀬の全領域で木道が整備され、木道以外の場所は歩けないようになった(一部登山道を除く)。なお、アヤメ平は1969年から復元事業が開始されている。採取した種子をまき、高山植物を現地で栽培するという方式がとられているが、2005年現在、復元は完了していない。
1999年には自然保護を理由に、乗り合い自動車以外の自動車の乗り入れが一部禁止された。規制は数年かけて徐々に強くなっており、2004年現在、群馬県側入山口では5月から10月のほぼ全日、自家用車の乗り入れができなくなっている。
このほか、1972年には群馬県尾瀬憲章が制定されている。また、1996年には尾瀬保護財団が設立された。
2003年に、長蔵小屋が周辺に廃材などの廃棄物を不法投棄していたことが判明。2004年、従業員2名に執行猶予付きの有罪判決がおりた。また、山小屋には罰金120万円が命じられた。平野長蔵の精神に背く事件であり、長蔵が生きていたら嘆き悲しんだ事だろう。
[編集] 観光
現地には自動車道は通っていないため、徒歩で行くことになる。入山口は群馬県側が鳩待峠・富士見峠・大清水(三平峠)の3つで、福島県側が沼山峠の1箇所。このほか新潟県側からの入山口(越後口)がある。バス停から尾瀬までの行程が短い鳩待峠と沼山峠の2つの入山口からの入山者が多く、これら2箇所では、5月から10月までのシーズン中は、自家用車乗り入れ禁止になることが多い。これ以外の季節は降雪により行くことは困難である。自家用車の場合、群馬県側は、片品村戸倉の並木駐車場または尾瀬戸倉スキー場に止め(有料)、そこから路線バスまたは乗り合いタクシーで登山口である鳩待峠に向かう。福島県側からは、御池駐車場に止め、同様に路線バスなどを利用する。しかし、それでもバスの終点から尾瀬の湿原までは、徒歩で1時間ほどかかる。電車・バスを利用する場合、群馬県側は上越新幹線上毛高原駅または上越線沼田駅から戸倉行きのバスを利用。福島県側からは、野岩鉄道会津高原尾瀬口駅からバスを利用する。なお、東武鉄道がシーズン中に浅草駅から夜行列車(尾瀬夜行)を走らせているほか、関越交通も新宿駅から鳩待峠行き夜行バスを走らせている。
尾瀬は広大なため、日帰りで一周することはほぼ不可能である。このため、湿原内に多くの山小屋が存在する。ただし、他地域の山小屋と異なり、すべての山小屋が事前予約制をとっている。これは、予約制でない時代に多くの登山者が詰めかけ、収容人員をはるかに上回る事態となったためである。ただし多くの山小屋は、昼間もカレーなど軽食を出す休憩所として営業している。キャンプは指定された3箇所のみで可能である。うち1箇所は休止中で、2006年現在、改修工事を行っている。公衆トイレは山小屋の存在する場所にしかない。使用はチップ制で、1回100円(沼尻のみ200円)を入り口の箱に投入する。
木道が整備されており、湿原だけを回るなら、標高差は最大で260メートル程度であり、歩行はそれほど困難ではないが、修理中の場所も多い。登山道からずっと木道があることから、軽装の日帰り観光客が多いが、現地は高原であり、同じ群馬県内と比べて気温も10℃以上差がある。夏の山の天気は崩れやすく、雨天時、雨天後は木道が水没していることもある。また、降雨時も1時間以上は歩かないと、バス停まで到着しないことに注意する必要がある。
また、ツキノワグマが生息しており、観光客が襲われた事例もあるため、特に早朝、夕刻には音の出る物の携帯も必要である。
[編集] 歴史
数十万年前から1万年前までの間に周辺の火山活動により川がせき止められ、盆地が形成されたと考えられている。最初期に成立したのは尾瀬ヶ原で、かつてはここは湖で、後の堆積により湿地になったと考えられていた。しかし、1972年にボーリング調査が行われた結果、地下81mまでの場所では、ここに湖があったという証拠が得られなかった。このため、尾瀬ヶ原の成立については不明である。
約1万年前に、火山の燧ケ岳が誕生した。火山活動による溶岩などによって、盆地の東半分がせき止められ、これにより尾瀬沼が成立したと考えられている。
このようにして尾瀬ヶ原と尾瀬沼が成立した頃は、氷河期時代であり、周辺では寒冷地の植物が自生していた。その後、氷河期が終了し、温暖な時代になると、南方から温暖地に住む植物が勢力を伸ばしてきたため、それまでこの地にいた植物たちは、しだいに北へ後退していった。しかし、尾瀬は、高原の盆地という特殊な地理条件のため、他地域の植物があまり入り込まず、氷河期時代に生育していた植物がそのまま現在も自生している。尾瀬の植物には、尾瀬以外ではロシアが南限というもの多く存在する。ただし、気候的には他の南方系植物も十分に生育可能なため、尾瀬へは他地域の植物の種子が入り込まないよう、特に監視がされている。
やがて文字による歴史の時代になるが、尾瀬はあまりにも奥地のため、ほとんど記述が残っていない。
- 1889年 木暮理太郎が尾瀬を通過。
- 同年、平野長蔵らが当時処女峰の燧ケ岳の登頂に成功したというのが、比較的古い記録である。渡邉千吉郎が1894年に残した記録によれば、尾瀬の南にある戸倉村(現在の片品村戸倉)と、北にある檜枝岐村は、江戸時代から尾瀬沼の東岸で交易を行っていた。小さな小屋を立て、そこに村の特産物を置き、かわりに向かいの村の産物をもって帰ったという。
- 1890年 平野が尾瀬沼西端の沼尻(ぬじり)に小屋を建てる。
- 1903年 尾瀬原ダム計画が明らかになると、平野は沼尻の小屋に定住を始める。
- 1908年(1910年説あり) 平野が尾瀬沼西端の沼尻(ぬじり)に尾瀬で最初の山小屋、長蔵小屋を建設。その後平野は尾瀬沼の漁業権を取得し、ヒメマスなどの養殖を試みるが失敗した。なお、長蔵小屋は1915年に尾瀬沼東岸に移動した。
- 1922年 関東水電(現在の東京電力)が水利権を取得。尾瀬原ダム建設が計画される。
- 1934年 日光とともに日光国立公園に指定。
- 1938年 国立公園特別地域に指定。
- 1944年 取水工事開始。1949年、竣工。尾瀬沼から片品側の三平峠に向けて、水力発電用の水を通すトンネルが完成する。
- 1949年 NHKが、江間章子作詞・中田喜直作曲の尾瀬を扱った曲『夏の思い出』を放送。この曲により尾瀬は一躍有名になり、多くの観光客が訪れるようになる。
- 1952年 福島県側で木道の整備が始まる。
- 1953年 国立公園特別保護地区に指定。
- 1956年 天然記念物に指定。
- 1967年 尾瀬沼でのボート、釣りが禁止される。
- 1970年 尾瀬沼東岸を通り、片品村から桧枝岐村を結ぶ道路(国道401号及び群馬県道・福島県道1号沼田桧枝岐線)の建設が開始されるが、自然保護運動により翌年、計画は中断される。
- 1971年 尾瀬周辺を通過する奥鬼怒スーパー林道が着工される。なおこの林道は、のちに尾瀬周辺を通らないよう設計変更されて竣工した。
- 1972年 ゴミ持ち帰り運動開始。翌年までに尾瀬のゴミ箱がすべて撤去される。撤去されたゴミ箱の数は、東京電力関連会社の尾瀬林業が管理していたものだけで1400個。
- 1989年 尾瀬西端の至仏山登山道のうちの1つが、自然保護を理由に閉鎖される。なおこの登山道は、1997年に供用が再開された。
- 1996年 東京電力、尾瀬沼水利権更新を断念。尾瀬原ダム計画は消滅する。
- 1999年 福島県側の沼山峠側で乗り合い自動車以外の自動車の乗り入れが禁止され、翌年には群馬県側の鳩待峠でも規制が開始された。