台湾問題
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中華民国(台湾) (参考: 台湾問題) |
台湾問題(たいわんもんだい)は、中華民国の全実効統治地域である台湾の政治的地位および主権帰属に関する中華人民共和国と中華民国の政治問題である。台湾海峡を挟んで中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)の沿岸部が接していることから、両岸問題とも呼称される。この問題に対しては両国を中心としてさまざまな見解があり、内容によっては台湾の歴史にも見解が及んでいる。
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[編集] 問題の歴史的背景
台湾海峡における周辺の政治勢力の進出の記録のうち、最も早期のものとして、モンゴル族が樹立した元朝が13世紀後半に、澎湖諸島に行政機関を設置したという史料があるが、台湾本島にまで領有範囲が及ぶことはなかった。その後、漢族の明朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有が及ばなかった。17世紀になるとスペイン人が台湾島北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として台湾島南部を制圧した。制圧期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を進め、その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「大員」(台湾話:タイオアン)、更に「台湾」という名称が誕生したという説もある。その後、台湾のオランダ人勢力は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地であるゼーランディア城も陥落した為に全て駆逐されていった。
オランダ人を駆逐した鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点としたが、1662年に死去した為に息子の鄭経が「抗清復明」の基地化を進めていった。しかし、鄭氏による台湾支配はその後の清朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入ることとなった。当初清朝は、抗清勢力を壊滅させる為に台湾島を攻撃したので台湾島の領有には消極的であった。だが、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。
その為に、清朝は台湾本島の統治には消極的であり続け、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなく、半ば見捨てられた島状態となって行った。この間、福建省、広東省からは生活に窮した多くの人々が台湾島に移住し、今日の台湾における本省人の礎となった。以上の経緯が台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民共和国の台湾領有権は不当」の根拠の一つになっている。なお、現在、中華人民共和国と台湾は、清朝の主権が台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも及んでいたと主張している。
19世紀後半になると、清朝は日本や欧米列強の対外進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。だが、1894年に日本との間で勃発した日清戦争に敗北した為、翌1895年に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾を日本に割譲し、台湾省を廃止した。台湾では日本への台湾割譲に対する抵抗運動が起こり、一時期台湾民主国が建国されたが、日本軍によって抵抗運動は暫時平定され、日本政府は台湾総督府による統治を1945年まで実施し続けた。その後、枢軸国として日本も参戦した第二次世界大戦で連合国が有利な立場となると、1943年に米国、英国、中華民国、ソ連の首脳が集まってカイロ会談が開かれ、台湾の主権を中華民国に返還することが首脳間で取り決められた。その為、1945年の日本敗戦後に連合軍の委託を受けて台湾に軍を進駐させた中華民国政府は、この取り決めを根拠として台湾を自国領に編入し、1947年 には 二・二八事件 を契機に台湾省を設置することで台湾の統治体制をより強固なものとしていった。
中華民国政府は台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれていた。1946年から激化し始めた国共内戦は、当初は中華民国政府が優勢であったものの、年を経るごとに中国人民解放軍が優位な立場を占めるようになり、中華民国政府は少しずつ、しかし確実に支配地域を中国共産党に奪われていく状況にあった。このような状況は1949年になると急速に進展し、中華民国政府は4月に首都の南京を人民軍に制圧され、10月には中国大陸の大部分を制圧した中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言するまでになった。その為、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などをぞくぞくと台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による中華民国政府統治区域の制圧は1955年に停止した。それ以来、台湾海峡を挟んで中華民国政府と中華人民共和国政府が対立しあう状況が続いており、現在でも中国大陸と台湾は異なる国家による分裂統治となっている。
連合軍からの委託を受けて1945年に中華民国軍が台湾に進駐した際、中華民国政府はカイロ会談における取り決めを根拠に台湾を領有した。但し、1951年に日本が連合国側諸国と締結した平和条約(サンフランシスコ平和条約)では日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)しか取り決められておらず、更には日華平和条約においても「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)しか明記されていない。その為、現在に至るまで国際法的には台湾の主権移転対象(帰属先)については不明確な状態にあり、これを根拠に台湾の国際的地位はまだ決まっていないとする「台湾の地位未定論」も唱えられている。
[編集] 台湾問題に関する国際法的議論
台湾問題をどのように認識するかは、立場によって異なる。
[編集] 政府承認
第一の認識は、中華人民共和国や蒋介石・蒋経国時代の中華民国のように、自らが中国の正統政府と主張している場合である。つまり、中国というひとつの国だけが存在し、その中に「中華人民共和国政府」と「中華民国政府」と名乗る政府が存在している。各国はいずれが正統な政府として承認すべきかの選択(承認切換)を迫られる。つまり、台湾問題は政府承認の問題となる。
なお、第二の分裂国家理論や、第三の台湾独立論から議論する場合、台湾問題の解決には国家承認の問題が出てくる。詳細は、別項の「二重承認」を参照。中華人民共和国が言う「二つの中国」とは分裂国家理論であり、「一中一台」は台湾独立論だと解釈する事も出来る。
[編集] 分断国家論
第二の認識は、中華人民共和国と中華民国は、分断国家(中国語では「分裂国家」)であるというものである。国連では「中華民国」を安保理常任理事国としている。そのため、現在の中華人民共和国は中華民国から国名を変更したものと解釈する必要がある。
ただし、1949年に毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言している。これは、中華民国から中国大陸が独立して「中華人民共和国」を建国したと解釈すべきである。当時は毛沢東本人も中国共産党もこうした認識を持っていなかった可能性もある。中華人民共和国は後年、国内的に同国「建国」という言い方を改めないまま、対外的には1949年に中華民国は消滅し、中華人民共和国が成立したという説明をしている。しかし、なぜ北朝鮮と韓国あるいは旧東西ドイツのような分裂国家ではないのか、という問題に関して、国共内戦は外国勢力と無関係な内戦だったからだと答えるに留まっている。(この主張自体にも、中国共産党がソ連の軍事支援を受けていたという矛盾点が存在する。)
ところが、実際には、中華人民共和国の実効支配地域である中国大陸と、中華民国の実効支配地域である台湾と周辺島嶼は長年、固定化されている。本来、政府承認の切換においては、中華人民共和国と中華民国のような長期間の分裂状態を想定していない。このような分裂国家を政府承認で扱うという矛盾は、国際機関における加盟資格において顕在化した事例がある。
一つ目の事例は、関税および貿易に関する一般協定(GATT)である。中華民国はGATTの原加盟国であったが、その加盟時期において中華民国は中国大陸をほとんど支配していなかった。そのため、1980年代以降、中華人民共和国がGATTへの「復帰」を申請することには無理が有るといわざるを得ない。1995年にGATTを発展解消した、世界貿易機関(WTO)が成立し、中華人民共和国の復帰問題はなくなった。ちなみに、GATTやWTOでは、主権国家以外にも独立関税領域の加盟を認めている。中華民国政府は「台湾・澎湖・馬祖・金門」独立関税領域を代表する政府として2002年1月に加盟した。
二つ目の事例は世界保健機構(WHO)である。WHOでは国連追放まで中華民国が加盟していたが、中華人民共和国の政府は加盟資格を速やかに継承せず、加盟金を支払わなかった。
[編集] 台湾地位未定論
第三の認識は、台湾地位未定論で、台湾独立論の法的な論拠となっている。中華人民共和国と同様、中華民国の国民政府は国共内戦で敗北し、領土を失ったと見做している。しかし、台湾は放棄された旧日本領であるが、中華民国には譲渡されていない。連合国が国民政府に台湾の統治を委任したに過ぎない。したがって、本来、台湾の地位や処遇は、住民自決の原理により決定されなければならない。そして、中華民国政府による領土としての台湾接収や、住民投票を経ない長年の統治は、違法行為であると結論付けている。
ただし、この主張には議論すべき点が二つ残っている。
一つ目の論点は、台湾独立には住民投票が必要だという点である。台湾地位未定論では、現在の台湾を主権国家でなく、所属が未定の領域と見做す。そのため、台湾独立には住民投票を行い、台湾住民の意思を確認する必要がある。諸外国による台湾の国家承認は、その後で行われるべきである。つまり、台湾独立論は「台湾は独立国だ」という現状認識ではなく、「台湾は将来、独立すべきだ」という主張なのである。
二つ目の論点は、台湾住民が「台湾は国ではない」という主張に同意しない可能性である。つまり、彼らが中華民国政府の統治や、自らが中華民国の国民であることを否定するとは考えにくい。李登輝政権は、中華民国の民主化を果たし、「中華民国在台湾」(中華民国は台湾にあり)と主張した。その時期にアイデンティティーを確立した台湾住民は、台湾=中華民国=主権国家と認識している。ただし、現行の中華民国憲法規定(追加修正条項)は、中国大陸地区があたかも領土の範囲内であるような扱いを行っている。こうした中華民国の曖昧な領土・境界の考え方は、イェリネックの国家の三要素を満たす事を阻害している可能性もある。
なお、台湾地位未定論を理解するには、国際法の知識が必要であるため、一般住民には理解しにくい。そのため台湾独立論にシンパシーを持つ台湾住民でも、「台湾は主権国家ではない」と言われて反発する者も多い。そのため、分裂国家理論の方が、現在の台湾住民のアイデンティティや自尊心を維持しやすい場合もある。もちろん、それゆえに、中華民国が国際社会に参加できない現状を受け止め、現実的な議論を行う事から、台湾住民を遠ざけていることも事実である。
[編集] 二重承認問題
中華人民共和国は「一つの中国」原則を主張し、二重承認を絶対に認めない立場を取っている。
一方、台湾では李登輝総統が就任した後、台湾における中華民国の地位を明確化しようとし、二重承認を容認する動きも見られた。1989年にグレナダと国交樹立した際、同国に中華人民共和国との断交を求めなかった。しかし、中華人民共和国が同国と断交し、二重承認とはならなかった。
今日、二重承認が実現せず、また台湾を承認する国は年々減少している。中華人民共和国が態度を軟化させない以外に、その理由として、以下が挙げられる。
その一つは、香港返還に伴う駐香港総領事館の存続問題である。マンデラ政権下の南アフリカ共和国のように二重承認に踏み切ろうとした。しかし、同国は当時、イギリス統治下の香港に総領事館を設置していた。しかし、中華人民共和国は香港に領事館や総領事館を置き、その存続を希望する国に対して、中華人民共和国政府を承認させたを選んだ経緯がある。
二つ目の理由は、中華人民共和国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、拒否権を有していることである。ただし、中華人民共和国が現実に拒否権を行使した例は過去4回しか存在しない。しかし、中華人民共和国を承認していない国が安保理で扱う議題の当事国となった場合、有利な案件は否決され、不利な案件は可決されるリスクを負う。具体例はマケドニアである。同国は一度中華民国を承認したものの、国連PKOの派遣に関する決議を中国に妨害されることを恐れて撤回した。
三つ目の理由は、中華民国を承認する国はその潤沢な経済力を背景に、経済援助を目当てにしている国が多い。こうした国々は、アフリカや中米・南太平洋の島々を中心にが存在する。いずれも小国であり、国連などの国際機関などで中華民国の参加や加盟に協力はするが、それを実現させるほどの政治力を持っていない。しかし、少数でも承認してくれる国家があることは、主権国家としての存続に必要不可欠だと歴代の中華民国の政権は認識している。 民進党出身の陳水扁政権も同様である。陳水扁総統は就任直後、「四不一没有」(4つのノーと1つのナッシング)を表明し、独立路線の棚上げと対中関係の改善を目指した。ところが、2002年8月に陳総統が民進党主席に就任した日、中華人民共和国はナウルに承認切換を行わせたのである。これに反発した陳総統は「一辺一国」発言をした。中華人民共和国も経済援助を用い、台湾を承認する国々を切り崩し続けた。そのため、陳水扁政権にとっては中華民国を承認する国を確保することが緊急の課題となり、「一国一辺」発言に沿うはずの二重承認の実現まで手が回らなくなった。そのため、中華民国の側も政府承認の切替のみに注力する結果となった。
[編集] 台湾の国際参加と名称問題
中華民国が国際機構や主要国に承認されていないため、台湾の国際参加には様々な障害が伴っている。そのため、実際には領域としての参加を余儀なくされている。その場合、台湾の呼称が政治問題化する場合も多い。国際社会における主な台湾の名称には、以下が有る。
IOCやFIFAなどスポーツの国際機構には、国家承認問題を棚上げしたまま、チャイニーズタイペイという地域として参加している。
[編集] 台湾問題に関する各勢力の意見・法的扱い
[編集] 中華民国(台湾)
[編集] 台湾国民政府
台湾移転後も国民政府(戒厳令下の国民党政権)は、「中国を代表する正統な国家」としての立場を継承する立場にあることを主張した。国民政府が台湾地域のみを統治することを内戦中の一時的な措置とした上で、台湾を含めた全中国(中華民国#国土参照)の領有権を主張してきた。また、自由地区(台湾を指す)のみによる選挙の実施は全中国の代表性を損なうと主張し、民主化運動を法理独立と見做し、弾圧した。
[編集] 戒厳令解除と中華民国憲法の追加修正条項
しかし、李登輝政権は戒厳令を解除し、中華民国が中国大陸を実効支配していない事や中華人民共和国政府への対応を始めた。それが、国家統一委員会の設置と、それによる国家統一綱領の制定であった。さらに中華民国憲法の改正により、「自由地区」(台湾)における(総統、国民大会、立法院、監察院など)国政選挙の実施を行った。
ただし、改憲は憲法本文を形式上を残し、追加修正条項を設けた。これは一つの中国原則を主張する保守派への配慮であった。また、中国大陸を「大陸地区」と呼称し、外国として認めたわけではない。また、中華民国政府は、今日まで中華人民共和国を正式に承認していない。国民政府の一つの中国原則では、外モンゴルの領有も主張しており、現在のモンゴル共和国とも正式な外交関係がなく、実務関係と代表部の設置に留まっている。
[編集] 今日の中華民国政府
台湾での国政選挙の実施により、中華民国は事実上の台湾国家となった。少なくとも、戒厳令前の国民政府のいう「法理独立」は達成された事になる。残る問題は、中国大陸の中華人民共和国政府との関係や、台湾・中国大陸を包摂する全中国に関する定義づけであった。これに関して、政府要人は順に以下のような概念を提起した。
- 一国二政府
- 二国論(一中二国、特殊な国と国の関係)
[編集] 2000年の政権交代以後
- 民進党・陳水扁政権
- 台湾前途決議文(1999年)
- 統合論
- 一国一辺
- 中国国民党
- 国家連合構想
連戦は2000年総統選挙期間中、未だ李登輝総統(当時)の後継者であったため、二国論を支持せざるを得なかった。選挙後、李登輝前総統を国民党主席から追放し、自ら党主席に就任した。その後、連戦は徐々に李登輝路線の修正を始めた。2001年1月4日に、連戦は新著『新藍圖、新動力』の発表会で、著書の内容と関連して中国との国家連合を提唱した[1]。同年8月に開かれる第16回全国党大会において、第政策綱領に盛り込もうとした。しかし、党内の台湾本土派の反対により大会開催前に断念せざるを得なかった[2]。また、中国側も同年3月に全人代報道官が反対を表明している[3]。その後、しばらくの間は連戦は国家連合を唱え続けたが、後には自らの提案の存在自体を否認する発言を行っている。
- 国家連合構想
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- 3つの選択肢(馬英九)
2006年2月14日、中国国民党は台湾本土派の日刊紙「自由時報」に意見公告を掲載した。そこで馬英九同党主席は、統一、独立、現状維持の三つの選択肢を上げ、統一が最終的目標であるが、現在は現状維持が最も現実的な選択肢だと述べた。これは、陳水扁総統が国家統一綱領と国家統一委員会の廃止に言及した事を牽制するものであった。ただし、この意見公告に対しては、最終的な統一が馬英九の理想である事を強調する見方と、中国国民党が台湾独立も台湾有権者の選択肢の一つとして明言したことを重視する見方がある。なお、2004年に、中国国民党籍の王金平立法院院長も、「台湾独立も選択肢の一つ」と述べたことがある。
- 3つの選択肢(馬英九)
しかし、政党によっては問題に関する見解が異なっている。泛藍連盟に属する政党は従来の政府見解を支持する立場にあるものの、泛緑連盟に属する政党は「台湾の主権帰属は中国の国家には属さない」と見解を取り、台湾独立運動を展開している。双方の勢力は国内の世論を二分しており、現在の中華民国政府の与党は泛緑連盟の民主進歩党であるものの、積極的な政策を採りづらい状況下にある。
[編集] 中国共産党・中華人民共和国政府
中国共産党の台湾問題に対する見解は、その時代の政治情勢によって、大きく変化している。
[編集] 中華人民共和国建国以前
1949年の建国以前の中国共産党は、台湾を中国の固有領土と認識しておらず、その独立を支持していた。毛沢東の発言によれば、ソヴィエト連邦をモデルとした連邦国家を目指し、主要な少数民族には自治権を付与し、自治共和国を設置する。一方、以前の中国の植民地である朝鮮と台湾については、独立を望むなら援助を与える方針であった。[4]
[編集] 中華人民共和国建国から1970年代末まで
中華人民共和国政府は、自国が1949年に崩壊・消滅した中華民国の継承国家であり、「中国を代表する正統な国家」としての立場を中華民国から引き継いだ立場にあるとしており、そこから1945年に中華民国の領土に編入された台湾の最終帰属も、中華民国の立場を継承した中華人民共和国に継承されると主張してきた。その為、中華人民共和国は、名目的に台湾省を設置する事で自己の主張の正当化を図り、併せて蒋介石によって台湾へ移転された現在の中華民国政府のことを、「崩壊した中華民国政府(国民政府)の一部勢力が台湾を不法占領して樹立した非正統的な政府」として、その存在の正統性を否定してきた。
[編集] 「台湾同胞に告げる書」の発表および改革開放期以降
[編集] 当局以外の少数意見
2004年、中国が統一法を制定するとの噂が流れた。後に、2004年12月から翌2005年3月にかけ、中国の全国人民代表大会は反国家分裂法として立法作業に入る。この反国家分裂法に先んじて、2002年に余元洲・江漢大学政法学院副教授が「中華人民共和国国家統一促進法(学者建議案)」[1]を発表していた。[5]反国家分裂方途の関連は定かではないが、全人代や国務院台湾事務弁公室にも送付し、また何人かの全人代の代表や政府関係者が彼の意見を聴取したとも言われる[6]。
彼の統一促進法では、中華民国の実行支配地域を「中華人民共和国台湾特別政治地域」とし、中華人民共和国の実行支配地域を「中華民国大陸特別政治地域」とすることを提案している。二つの国が互いの全領土に対する主権を共有する点では、国際法上荒唐無稽といわざるを得ない。しかし、中華民国の存在を公的に認め、当事者間においては双方を外国と看做さない点において、分断国家理論やそれに基づく本来の「特殊な国と国の関係」(旧東西モデル)に近い発想と言い得る。
[編集] 注釈
- ↑ 「連戰發表: 兩岸邦聯构想」『大紀元』2001年1月5日
- ↑ 「台國民黨政綱放棄“邦聯”」『BBC中文網』2001年07月25日
- ↑ 「中國反對兩岸統一用邦聯制」『BBC中文網』2001年3月4日
- ↑ エドガー・スノー著、宇佐美誠次郎・杉本俊朗訳『中国の赤い星』上巻、永美書房、1946年、122-123頁
なお後の版では、この部分が改竄されている。 - ↑ 「催生国家统一法的人」『南方人物周刊』2004年7月12日
- ↑ 「大陸学者推出《国家统一促进法》建議」『鳳凰週刊』第148期、2004年05月25
[編集] 関連項目
- 台湾についての詳細:台湾、台湾の歴史。
- 台湾の主権に関連する国家:中華民国、中華人民共和国
- 台湾問題に関連する歴史の詳細:中国の歴史、中華民国の歴史、台湾民主国、国共内戦。
- 中華民国における政治の詳細:中華民国の政治、泛緑連盟、泛藍連盟、台湾正名運動、台湾独立運動。
[編集] 外部リンク
中華民国(台湾)
- 中華民国行政院・大陸委員會(中国語、英語)
- 海峡交流基金会(繁体字中国語)
- 国立中山大学・大陸研究所(繁体字中国語、英語)
- 『國家統一綱領』 1991年2月23日に中華民国政府が発表した声明。
- 民進党『臺灣前途決議文』(繁体字中国語) 1999年に採択された台湾・民進党の新綱領。
中華人民共和国
- 中華人民共和國國務院台灣事務弁公室(中国語、英語)
- 『台湾問題与中国的統一』(簡体字中国語) 中華人民共和国政府・国務院報道弁公室が1993年に発表した台湾問題に関する白書。
- 『為促進祖国統一大業的完成而継続奮闘』(簡体字中国語)
- 中華人民共和国・対台湾政策資料 (簡体字中国語)
- 『告台湾同胞書』(簡体字中国語) 中華人民共和国・全国人民代表大会が 1979年1月1日に発表した声明文。
- 517声明(簡体字中国語) 中華人民共和国政府・国務院報道弁公室が2004年5月17日に発表した声明。
日本語による関連サイト
そのほかの言語による関連サイト
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