五代十国時代
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五代十国時代
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五代十国時代(ごだいじっこくじだい (907年 - 960年))は、中国の唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代。
目次 |
[編集] 概略
五代十国時代が始まる年代として唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には全国王朝としての唐は875年 - 884年に起きた黄巣の乱によって滅びており、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠や李克用の節度使勢力が並存する騒乱状態だと言うことが出来る。そこでこの概略では黄巣の乱の時点から説明する。
[編集] 唐の完全滅亡まで
唐の中央政府は755年 - 763年に起きた安史の乱により、大幅に力を減退させた。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分たちの任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝たちは抑制策を考え、部分的にはこれが成功した。しかし節度使勢力を押さえ込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して、皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が無く、再び節度使たちは頭をもたげてきた。
このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落しきっており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えたものがあったとも言われている。
黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。唐に取って幸運なことに黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかしそれでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無い。ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側についた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この二人の活躍で長安が回復される。
しかしこれにより唐の実力は大暴落しており、皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てていた。この状況は周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。
この時期に中央を争っていたのが、汴州(現在の開封、汴の字はさんずいに卞)を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と太原を中心に山西を支配した李克用の二人のほかに、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。
その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。(十国については五代を全て説明した後に一括して説明する。)
李克用の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年に遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に梁である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ。)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。
[編集] 後梁
朱全忠が皇帝となるとこれに従う事を良しとしない各地の勢力は自らも皇帝を名乗る。また後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。
朱全忠の宿敵である李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は燕王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼしてこれを併合、自信を付けた李存勗は923年に唐皇帝を名乗り(荘宗)、更に後梁の首都を陥落させ、後梁を滅亡させた。
[編集] 後唐
李克用たちの李姓は功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、後唐を建てたのである。後梁を滅ぼした後、更に岐王を名乗っていた李茂貞・四川を支配していた前蜀を滅ぼし、領土を拡大した。しかし荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように洛陽へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将たちの不満を買った。この不満が926年の武将たちによる李嗣源(後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍(近衛兵)たちにより荘宗は殺された。
即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の検地を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として三司使を創設した。また自分のような有力軍人による帝位の奪取を繰り返さないように直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は後の宋にも受け継がれている。明宗は五代の中では後周の世宗に次ぐ名君と称えられる。
[編集] 後晋・後漢
しかし明宗は在位わずか6年(933年)で死去する。三男の李従厚が後を継ぐが、すぐに義子(養子)の李従珂によって簒奪される。更に李従珂は権力の安定を狙って明宗の女婿であり、実力者である石敬瑭を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに答えて契丹の太宗・耶律徳光は大軍を南下させ、後唐軍を一蹴した。
936年、即位して後晋を建てた石敬瑭(高祖)は遼に対して臣従し、後晋はほとんど遼の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の呉に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。
この鎮圧に追われて高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、この即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。946年、契丹(翌年に国号を遼とした。)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋を滅ぼした。
遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗し、また契丹の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。
それを傍観していた石敬瑭の元側近の劉知遠は自らの任地である太原で947年に即位して後漢を建て、軍を南下させて947年に開封を占領した。
しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐が後を継ぐ。幼帝を担いだ側近たちは有力者の排除を図り、次々と軍人たちを誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていたこれを免れた枢密使の郭威は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺をたくらんだ側近たちを一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこにあたる劉贇(りゅうひん、贇は文武の下に貝)を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、自ら即位し、後周を建てた(太祖)。劉贇の父・劉崇は北で自立して北漢を建てた。
[編集] 十国
ここで時間を戻して、北漢以外の十国の興亡を説明する。
十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者・楊行密は群盗から身を起こして、揚州一帯を制圧、北の後梁と互角に争いあう程の勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子・徐知誥によって簒奪される。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を唐とした。後世の歴史家よりは南唐と呼ばれる。
同時期に南の浙江では呉越が勢力を張った。建国者・銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興して浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。
呉越の南の福建では節度使・王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に勤め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。
西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者・馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉氏はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。
四川は揚州と並んで豊かな国であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者・王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年に後唐によって滅ぼされる。その後、この地の当地を任された武将・孟知祥が自立して後蜀を建てる。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。
中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を抑えていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めるとその均衡は一気に崩壊することになる。
[編集] 後周
即位した太祖・郭威は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。
この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが954年に即位した柴栄(世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。
世宗がまず行ったことは自立性の強い軍人たちを抑えることである。その軍人たちを抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えた事で南唐の生殺与奪権を掌握したと言っても良い。
また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では三武一宗の法難と言われる廃仏運動が行われており、一宗が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶に為るものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るための銅が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」と言う銅銭を鋳造した。
統一への道を突き進んでいた世宗だったが、959年に遠征から帰る途上で病死する。
[編集] 宋
後を継いだのはわずか七歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であり、殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。
幼帝を抱いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人たちは、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。
太祖はそれまでの軍人が政治を取る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いた統一への道を歩み始める。
まず、963年に中国大陸のど真ん中の要地である湖北の荊南を合併した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次に965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年に広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年に華南における最大勢力の南唐を滅ぼす。
これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、二代皇帝太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。
太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を滅ぼし、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。唐の滅亡から約70年である。
[編集] 国々
[編集] 五代
国名 | 始祖 | 存続年 |
---|---|---|
後梁 | 朱全忠 | 907年 - 923年 |
後唐 | 李存勗 | 923年 - 936年 |
後晋 | 石敬瑭 | 936年 - 946年 |
後漢 | 劉知遠 | 947年 - 950年 |
後周 | 郭威 | 951年 - 960年 |
[編集] 十国
国名 | 始祖 | 存続年 |
---|---|---|
前蜀 | 王建 | 907年 - 925年 |
後蜀 | 孟知祥 | 934年 - 965年 |
呉 | 楊行密 | 902年 - 937年 |
南唐 | 李昪 | 937年 - 975年 |
荊南 | 高季興 | 907年 - 963年 |
呉越 | 銭鏐 | 907年 - 978年 |
閩 | 王審知 | 909年 - 945年 |
楚 | 馬殷 | 907年 - 951年 |
南漢 | 劉隠 | 909年 - 971年 |
北漢 | 劉崇 | 951年 - 979年 |
[編集] 十国以外
国名 | 始祖 |
---|---|
岐 | 李茂貞 |
燕 | 劉仁恭 |
[編集] 国外勢力
[編集] 主な人物
[編集] 外部リンク
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