今川義忠
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今川 義忠(いまがわ よしただ、永享8年2月10日(1436年2月26日) - 文明8年2月6日(1476年3月1日))は今川範忠の子で駿河今川家6代当主である。幼名は龍王丸。通称は彦五郎。治部大輔・上総介。正室は伊勢新九郎(北条早雲)の姉(妹?)北川殿。子に今川氏親。
嘉吉3年(1441年)、嘉吉の乱に際して父範忠の名代として1000騎を率いて尾張国まで出陣している(『今川記』では範政とされているが、小和田哲男静岡大学教授によると範政は永享5年(1433年)に没しており、名代は義忠と思われる)。
康正2年(1454年)、享徳の乱で幕府より今川氏へ関東公方足利成氏討伐が命じられ、父範忠の名代として出陣して鎌倉を攻略して将軍より感状を受けた。
寛正2年(1461年)に父範忠の危篤を受けて駿河守護職を継承。家督を継承した義忠は将軍足利義政より堀越公方足利政知への援助を申し受けている。また、寛正6年(1466年)には甲斐の武田信昌とともに古河公方足利成氏の討伐を命じられている。
今川氏は本拠の駿河国以外に遠江国の守護を保持していたが、応永26年(1419年)以降は遠江国は斯波氏の分国となっていた。また、遠江国にあった今川了俊系の分家の所領が今川範将が反乱を起こして討たれた後に、斯波氏の被官の国人に奪われており、今川氏と斯波氏との対立が深まっていた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、堀越公方足利政知と相談の上で1000騎を率いて上洛する。山名宗全は義忠を西軍を引き入れようとするが、将軍警固のために上洛したことを理由に花の御所(東軍が占拠している)へ入り、そのまま東軍へ属した。かねてから対立している遠江守護の斯波義廉が西軍であったために東軍に属したようだ。
この上洛中に伊勢新九郎(北条早雲)の姉(または妹)の北川殿と結婚したと考えられている。伊勢新九郎は長年、素浪人とするのが通説で、その姉妹の北川殿は側室とされていた。しかし、近年の研究で伊勢新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で備中伊勢氏の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっている。上洛中に義忠は政所執事伊勢貞親をしばしば訪ねており、新九郎の父の盛定が今川家との申次衆を務めていた。その縁で北川殿が義忠に嫁いだと考えられ、正室とするのが妥当である。北川殿との間には文明5年(1473年)に嫡子龍王丸(氏親)が生まれている。
応仁2年(1468年)細川勝元の要請で東海道の斯波義廉の分国を撹乱すべく駿河国へ帰国。帰国した義忠は積極的に遠江国への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
文明5年(1473年)、東軍の三河守護細川成之が美濃守護代斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河国へ出陣している。そのために将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って同じ東軍の尾張守護斯波義良(西軍の斯波義廉と対立)及び三河吉良義真の被官となっていた遠江国の国人巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼした。そのため、同じの東軍の斯波義良、細川成之と敵対することになった。文明7年(1475年)東軍は西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光を寝返らせ遠江国の守護代とし、義忠と敵対。遠江国の政情は混沌とする。義忠は遠江国へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。
文明8年(1476年)、遠江国の国人、横地四郎兵衛と勝間田修理亮が義忠に背き斯波氏に内通して見付城を修復して抵抗の構えを見せたために、500騎を率いて出陣して横地と勝間田の城を囲んで、両人を討った。その帰途の夜、遠江国小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。義忠は馬に乗って指揮をとるが、流れ矢に当たって討ち死した。
義忠の不慮の死により、僅か6歳の龍王丸が残された。この後、今川氏は一族の小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態になり、それを調停するために北川殿の兄弟であり幕府申次衆の伊勢新九郎が駿河国へ下向している。このことが、伊勢新九郎と今川氏との絆を強め、後の伊勢新九郎の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。