斎藤妙椿
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斎藤妙椿(さいとうみょうちん、応永18年(1411年) - 文明12年2月21日(1480年4月1日))は、室町時代の武将である。美濃国守護代斎藤宗円の子で斎藤利永の弟。幼少時から出家し善恵寺で修行する。同寺に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれ、斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の後継を持是院家と言う。妻は伊勢北畠氏の出身で一女を設けている。また甘露寺元長の娘を養女とし、尾張の織田敏広に嫁がせている。
長禄4年(1460年)に兄利永が亡くなると、甥である新守護代斎藤利藤を後見するため、加納城へ移りここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。美濃国守護土岐成頼の被官ではあるが、同時に足利将軍の直臣という立場に立とうとし、更に美濃周辺数ヶ国の支配をも目論んだ。官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。
応仁の乱では成頼とともに山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護、敵対する東軍京極氏の守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の二度に渡って撃破する。文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させ、更に文明6年(1474年)6月、越前国に赴いて朝倉氏、甲斐氏を和解させた。この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。京では厭戦気分が漲り、土岐成頼は文明9年(1477年)冬、足利義視・足利義材父子を連れて美濃に下国した。妙椿は尚も三河・尾張への出兵を続けるが、文明12年(1480年)に死去。養子である斎藤利国(妙純)を重用するよう成頼に遺言したため、死後百日を経ずして斎藤利国と斎藤利藤の同族争いが勃発する。
妙椿は一条兼良や東常縁、宗祇らの文化人とも親交があった。一条兼良は応仁の乱の最中の文明5年(1473年)、妙椿に招かれ美濃に下り連歌百韻に参加している。また、東常縁は応仁の乱勃発時に遠く下総国に居り、美濃の所領には兄である東氏数がいたが、富島氏と通じていると見なされ、妙椿の攻撃を受け逃亡、所領は妙椿に占領されてしまった。常縁はこれを悲しみ歌に詠んだところ、この歌が人伝に妙椿に伝わり、常縁が直接自分に歌を送ったならば所領を返還しようと言い、その後、二人の間で歌の応答があり、所領返還が決まったという。宗祇も応仁の乱中、しばしば美濃を訪れ連歌の会を催している。
かつては斎藤利永の子である斎藤利藤と同一人物と考えられていたが、正徹の歌集「草根集」の中の記述から利永の弟であることが判明した。妙椿自体は守護代にはなっておらず、利永の次は利藤が守護代職を継承している。