足利政知
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足利 政知(あしかが まさとも、永享7年(1435年) - 延徳3年4月3日(1491年5月11日) )は室町時代中期の武将。初代堀越公方。足利茶々丸・足利義澄(11代将軍)の父。室町幕府第6代将軍・足利義教の四男とされるが、兄である足利義政・足利義視よりも年長である。従三位、左兵衛督。法名は勝幡院、あるいは幢勝院九山とも。
初め天竜寺香厳院の僧だったが、長禄元年(1457年)に還俗する。これは兄の将軍足利義政の命によるものであり、義政の名代として関東に降り足利成氏(幕府に背き関東で独立勢力化していた)を牽制することを目的としていた。
翌年、幕府公認の鎌倉公方として京を出発するが、成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、やむを得ず伊豆国堀越に逗留。以降堀越公方として、成氏の古河公方政権と三十余年に渡る抗争を繰り広げた。
決して暗愚な武将ではなかったが、当時幕府は応仁の乱の最中であったため満足な軍事力を付与してもらうことができず、終生関東一円を制することは叶わなかった。また、晩年には管領細川政元と連携して将軍足利義材の廃立を計画するが、延徳3年に政知が伊豆で病死したことによって挫折した(義材失脚と義澄擁立は明応の政変にまで持ち越される)。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
1457年(長禄元)12月19日、堀越公方就任。12月26日、還俗し、政知を名乗る。同日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。