斯波義廉
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斯波 義廉(しば よしかど、生没年不詳)は室町時代中期の守護大名である。室町幕府の管領。父は堀越公方 足利政知に随身して武蔵国に随行した関東探題渋川義鏡、母は山名氏一族の娘とも。妻は山名持豊(宗全)の娘、朝倉孝景の娘。
長禄3年(1459年)、斯波氏の当主・斯波義敏は家臣の甲斐常治と対立し、8代将軍足利義政の怒りに触れて罷免され、実子松王丸が家督を相続する。松王丸ものちに廃され、義廉は斯波義健の養子として迎えられ、家督を継承する。このとき、尾張国・越前国・遠江国の守護も兼ねている。
文正元年(1466年)、義政生母の死去による大赦で義敏が赦免され、周防の大内教弘の支援を得て巻き返しを図り、京都で義政と対面し、義政は伊勢貞親らの進言もあり、裁定で義廉に義敏への三ヶ国の守護返還を命じる。娘婿の山名宗全らは義廉を支持し、このため義敏は管領の細川勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の1つにもなる。義敏は文正の政変で失脚し、応仁元年(1467年)正月に義廉は畠山義就の辞意により管領に就任。
応仁元年(1467年)5月、京都市街において応仁の乱がはじまる。義廉は山名宗全率いる西軍に属して各地に転戦し、文明3年(1471年)に越前守護代の朝倉孝景が東軍に属し、幕府から追討を受ける。文明7年(1475年)、尾張の織田敏広に擁立されて下国、東軍織田敏定の勢力を一時同国から駆逐する。しかし、文明10年(1478年)、敏定が幕府から「凶徒退治」を命じられ下国すると、支持勢力を失い、その後の行方は不明となる。息子が朝倉氏により名目上の主君とされたので越前に移り住んだという説が有力視されている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1459年(長禄3)2月、家督を相続し、治部大輔に任官。
- 1466年(文正元)9月、再び家督相続。
- 1467年(文正2)1月8日、幕府の管領となる。同年改元し、応仁元年5月、左兵衛佐に遷任。
- 1468年(応仁2)7月15日、管領退任。