後梁
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後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に、唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝に禅譲させて建国した。都は開封。
朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代が到来した。
太祖朱全忠は912年、病床にあって養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王朱友珪によって殺された。帝位についた朱友珪は人望を得ず、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。しかし、朱友貞も後唐の荘宗(李克用の子、李存勗)との戦いに敗れて殺され、後梁は滅んだ。こうして後梁の皇帝はみな非業に倒れ、三代16年の短命に終わった。