Privacy Policy Cookie Policy Terms and Conditions マイケル・ジャクソン - Wikipedia

マイケル・ジャクソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マイケル・ジャクソンは、

  1. アメリカ合衆国歌手。本稿で後述。
  2. イギリスビールウイスキー評論家ライターマイケル・ジャクソン (ライター)を参照のこと。
  3. 日本東京アパッチ所属のプロバスケットボールプレイヤーマイケル・ジャクソン (バスケットボール選手)を参照のこと。

マイケル・ジャクソン
拡大
マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソンMichael Joseph Jackson1958年8月29日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー市出身の男性ミュージシャン歌手。身長176cm。エリザベス・テイラーthe true king of pop, rock and soulと称し、一般的には短くKing of Popのニックネームで呼ばれている。イギリスのゴシップ誌からはGod of Popというニックネームをつけられている。

ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。エルヴィス・プレスリーやビートルズなどと同様に、音楽界における歴史上の天才の一人。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイヴ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」の記録を保有。アルバム"Thriller"に関する記録は「[1億400万枚]の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」というギネス記録を保有している。マイケル・ジャクソンは、現在8つの音楽界における世界記録保持者である。

兄弟と結成したジャクソン5のボーカルとしてデビュー。1980年代にはそのダンスやヴォーカルの実力で、全世界をそのエンターテインメント性で魅了した。「ムーンウォーク」は、彼の代表的なブレイクダンスのひとつ。ゴシップキングとしても知られ、白い肌(皮膚病)や整形のためよくタブロイドのネタにされる。子供好きだがしばしば誤解され、性的虐待疑惑で訴えられた事もあるが結局無罪となる。歌手ジャネット・ジャクソンは実妹。

目次

[編集] 来歴

[編集] 1958-1970

9人兄弟姉妹の7番目として、ゲイリーアフリカ系アメリカ人街に生まれる。ゲイリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。

ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはキリスト教の一派(正式にはエホバの証人)の敬虔な信者で、マイケル自身も同様である。その活動の一環である家庭訪問はthriller発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートとして働く事で一家の財政を何とか補おうとしていた。

幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。

父は昔「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、ミュージシャンの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露する事もしばしばあった。

ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキーティトジャーメインと二人の従兄弟(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。

翌年、兄マーロンと二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンドRipples & Waves Plus Michael(のちthe Jackson Brothersと改名)の一員として頭角を現した。

初めてナイトクラブで働いた時のギャラはわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演する事で地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。

1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5(ジャクソンファイブ)」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームズ・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。

地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。

当初ジャクソン5をインディアナで発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。

1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー(マイケルは本当は11歳だが当初は8歳の設定だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。その後「小さな経験(The Love You Save)」「I'll Be There」のシングルを4曲連続で全米チャート1位に放り込んだ。

[編集] 1971-1980

マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。

1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも起こり出した。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、声変わりまで経験し、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなったなー」などと冷やかされる事もしばしばであった。

結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがジャクソンズに新たに加入した。

このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。

1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。

クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を製作。7月先行シングルとして発表された「今夜はドント・ストップ」は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほど放映されなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。

8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を世界中に印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。

10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。

さらに、「Off The Wall」「あの娘が消えた」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。 「あの娘が消えた」のレコーディングでは、何度レコーディングをやっても、マイケルが最後に泣いてしまい、収録し直しを何回もしたが、結局そのままアルバムに収録される事になった。

「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。

ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン(Lovely One)」(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル(This Place Hotel)」(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティ・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。

[編集] 1981-1990

1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日(One Day In Your Life)」がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。

1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「ガール・フレンド」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組む事になり2曲のデュエットを後に生む事になる。ポールとはプライベートで一緒になる事が多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。

1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。

1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。だが、その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっている。2005年の無罪判決の時もジャーメイン「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出てしまっている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品として知られている。1983年5月には、モータウン25周年コンサート( Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされる。ムーンウォークを披露した直後、マイケルは自分のダンスに自信が持てず泣いたが、マイケルが敬愛しているフレッド・アステアから電話をもらい、「君のダンスは素晴らしい」と言われ、マイケルは嬉しかったと後に語ってる。また小さな子供から「どうやったらあんなに踊れるの?」とも聞かれ、マイケル自身反響に驚いた。「Billie Jean」は人気も非常に高く、この曲は2004年VH1の人気投票でイマジンを抑え史上最高の曲に選ばれた。また、イギリスの音楽雑誌Qにおいても2006年7月に80年代の最優秀シングルに選ばれた。

2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われる作品がこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用している。この曲は本人だけではなくMTVの人気まで上げたとされる。

そして、12月には後の多くの調査でプロモーションビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男になったり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。

また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散ってしまい、その中から登場したマイケルは、頭部に大きなヤケドを負ってしまった。皮膚移植手術によって、完治はしている。[1]

「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。

ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年)
拡大
ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年)

1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We are the world」をライオネル・リッチーと共作した。しかし、その姿勢は評価されたが「バンド・エイド」の模倣であるとも揶揄され、アメリカ人しか集まらなかったため、結局はアメリカ中心主義ではないかとも批判され賛否両論の結果となった。しかし、楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から受賞された時、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかってしまった。

同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット(「The Girl Is Mine(1982)」、「Say,Say,Say(1983)」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけた所マイケルは断ったためその後はさほど仲が良くない。なお、皮肉な話だがマイケルにビートルズの版権を買うよう勧めたのはポールであった。[2] マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの息子ショーンと1988年の「ムーンウォーカー」で競演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年にも購入した版権の半数を未だ所有している。

1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や講演も受け持つ事になったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。

8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの製作に取り掛かった。完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。現在までにこの偉業を達成したのはマイケル1人だけである。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いヴィデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表してるのではという一説がある。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露し、人々を圧巻した。なお監督はマーティン・スコセッシである。

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版された。4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストでは初登場1位を獲得した。

この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演した事で話題となった。

また、この頃マイケルはビートルズの版権の大量購入など、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。また、この曲はダイアナ妃のお気に入りの曲で、1988年7月のウェンブリー・スタジアムでダイアナ妃の前でライブを行おうとした際は、ダイアナ妃がマイケル本人に歌って欲しいと頼んだ事もある

7月発売のシングル「Another Part Of Me」は1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったためマイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた。

カハラ・ヒルトン・ホテルにて(1988年)
拡大
カハラ・ヒルトン・ホテルにて(1988年)

1987年9月から世界ツアーを行い、日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もう1つのMはマドンナである。

1989年、マイケルがBREアワードでポップ・ロック・ソウルの三部門を制したため、エリザベス・テイラーはマイケルを評して「the true king of pop, rock and soul」と呼んだ。

[編集] 1991-2000

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し1991年11月に「Dangerous」を発表。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消したが、発売後6週間において1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。

11月発売のシングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。アメリカにおいても最大級のヒットとなり、全米チャートで7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の技術であるモーフィングという技術を用い、5億人の人がこのショートフィルムを見たとされる。だが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのヴァージョンのショートフィルムはその部分の映像によってパンサー・ヴァージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことであるが、映像では黒豹が登場する)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一般放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では普通に見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれたKKKなどいくつか修正されていて、今ではそれらの文字は消されている。

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジト(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。だが、訪れたコートジアポールでは「サン族の王冠」の名称を授与されている。

4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy D、ノーティー・バイ・ネーチャーなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。

1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Goon Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショウ」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する"事件"が起きた)。

1993年マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する(詳しくは後述)。

1994年にはMJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。この結婚騒動の最中、一部で父ジョーゼフが幼少期のマイケルに対し性的虐待を行った疑惑が浮上する。

1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは"history"と"his story"を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。二枚組としては世界で5番目に売れた二枚組アルバムとなった。

アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹ジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであり、一部からマイケルを超えたとも評されるほどであった。同ショートフィルムは当時最先端のCG技術を駆使しており、莫大な費用がかかったが同時に非常に凝った作品であったため多くの人たちから評価され、様々な賞を受けている。

8月You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。アメリカだけで100万枚以上の売り上げを記録した。このショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとの競演が話題となった。

12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。

1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。中国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月15日デビー・ロウと二度目の結婚。

1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。突然の発表であった上、変則的な曲目のアルバムであったが、600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年(1990年死去)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。

この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていたヒストリーからの第7段シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年にはノーベル平和賞にノミネートされた。来日し世界空手道連盟から名誉五段を授与される。

1999年6月にはマイケルと有志の友人達が2つのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。

この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、全て実現しなかった。

[編集] 2001-

2000年12月12日に、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年殿堂入りしている。

2001年10月最新オリジナルアルバム「Invincibe」を発表。タイトルは無敵でいつまでも成長し続けることで人々のために貢献するという意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した[3]。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げる事になる。(後述#ソニーウォーズ

8月先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。

Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。マイケルの近年最高の曲との意見も少なくない。

「Invincible」は当時の最先端の音楽を取り入れており、マイケルの音楽が21世紀であっても通じる事を多くの人に印象づけた。このアルバムはビルボード誌の2002年度人気アルバム投票では、投票された29,705票中の79パーセントを集め、R&B・ヒップホップアルバムチャートで1位に選ばれている。

2001年には「Off The Wall」「Thriller」「BAD」「Dangerous」の再発売も行われ、再編された「Greatest Hits - HIStory Volume I」も発売され各国のアルバムチャートにマイケルのアルバムが複数並んだ。

同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャークリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More I Can Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリーセリーヌ・ディオンジャスティン・ティンバーレイクビヨンセリッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる。

なお、マイケルはブッシュ大統領の政治方針の反対派で民主党を支持し、資金集めに協力しようと2002年4月にはアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの芸能界の師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。

同時多発テロの支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売する事が決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。

11月、マイケルのエピックにおける集大成とも言うべき「Number Ones」を発表。各国のチャートや、様々な角度からのナンバーワンソングを集めたベストアルバムであり、「HIStory」とは違い時系列順に曲目が並んでいる。このベストアルバムの新曲「One More Chance」にもCBSの特番用に作られた映像は存在していたが、マイケルが裁判(後述)で自らの無罪を証明しなければならない事になったため発表が見送られてしまった。

2004年2月、妹ジャネットが国民的ショーであるスーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びた。この後ジャネットは「自分が非難されるようになって、初めて兄の気持ちが分かった」と語る。

2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。世界への苛立ちがストレートに表現された曲調、歌詞共に激しい曲である。

2005年6月13日性的虐待疑惑のすべての件に関し冤罪であったとして無罪判決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。

最新のベスト盤は2枚組アルバム「The Essential Michael Jackson」。なお、このアルバムは裁判の影響で全くプロモがされなかった。裁判の影響もあってかアメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランスベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)などヨーロッパにおける人気の高さが伺える。

2005年ハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。だが、この製作時にはウィキペディアが早まった不正確な速報を流したとして問題になってしまった(後述)。

2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。

同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再販され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。1位を獲得した曲目は以下の通り。

  1. Thriller(3月2日)
  2. Rock With You(16日)
  3. Billie Jean(23日)
  4. Beat It(30日)
  5. Bad(4月6日)
  6. The Way You Make Me Feel(13日)
  7. Dirty Diana(20日)
  8. Smooth Criminal(27日)
  9. Leave Me Alone(5月4日)
  10. Jam(6月1日)
  11. Heal The World(8日)
  12. You Are Not Alone(15日)
  13. Earth Song(22日)
  14. Stranger In Moscow(7月6日)
  15. Blood on The Dance Floor(7月13日、20日)

2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本MTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKI叶姉妹らと対面した。

また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りで出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2260万円)。

パリのディズニーランドで娘パリスと供に(2006年6月18日)
拡大
パリのディズニーランドで娘パリスと供に(2006年6月18日)

6月17、18日にはドイツの首都ベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。

音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。

8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。

9月29日、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。

12月19日に、Michael Jackson Premium Christmas Partyに出演するために再び来日する。[4]

[編集] 受賞記録

  • 1972年
    • ビルボード・ミュージック・アワード - 年間最優秀シングルアーティスト、年間最優秀男性アーティスト
    • アメリカ合衆国連邦議会 - 特別功労賞
  • 1980年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 最優秀男性ソウルアーティスト、最優秀ソウルアルバム「オフ・ザ・ウォール」、最優秀ソウルシングル「今夜はドント・ストップ」
    • キャッシュボックス・アワード - 年間最優秀ソウルアルバム「オフ・ザ・ウォール」
    • グラミー賞 - 最優秀R&Bボーカル・パフォーマンス男性部門「今夜はドント・ストップ」
  • 1981年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 最優秀ソウル/R&B男性ボーカリスト、最優秀ソウル/R&Bアルバム「オフ・ザ・ウォール」
    • 英国レコード協会アワード - アルバム「オフ・ザ・ウォール」
    • キャッシュボックス・アワード - 年間最優秀ソウル・アルバム「オフ・ザ・ウォール」
  • 1983年
    • ブラック・ゴールド・アワード - 最優秀男性ボーカリスト、最優秀ビデオパフォーマンス「今夜はビート・イット」、年間最優秀シングル「ビリー・ジーン」、最優秀アルバム「スリラー」
    • ビルボード・ミュージック・アワード - 年間最優秀ポップアーティスト、年間最優秀ブラックアーティスト、年間最優秀ポップアルバム「スリラー」、最優秀ポップアルバムアーティスト、最優秀ポップシングルアーティスト、最優秀男性ポップアルバムアーティスト、最優秀ポップシングルアーティスト、最優秀ブラックアルバムアーティスト、最優秀ブラックシングルアーティスト、最優秀ブラックアルバム「スリラー」、最優秀ダンス/ディスコアーティスト、最優秀ダンス/ディスコ12インチシングル「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」(2曲同時受賞)、最優秀ビデオ大賞「今夜はビート・イット」、最優秀パフォーマンス男性アーティスト、アーティストのイメージを高めるため最も効果的にビデオを活用した楽曲「今夜はビート・イット」、アーティストの曲を盛り上げるため最も効果的にビデオを活用した楽曲「今夜はビート・イット」、最優秀振り付け曲「今夜はビート・イット」
    • キャッシュボックス・アワード - 最優秀男性アーティスト、最優秀ポップシングル「ビリー・ジーン」、最優秀男性シングルアーティスト、最優秀ブラックアルバム、最優秀ポップアルバム、最優秀黒人男性アーティスト、最優秀黒人シングルアーティスト、最優秀ブラックシングル「ビリー・ジーン」
    • オーストラリア - 年間最優秀アルバム、年間最優秀シングル
    • ブラジル - 年間最優秀海外アーティスト
    • ギリシャ - 年間最優秀レコード
    • オランダ - 年間最優秀アルバム
    • イタリア - 年間最優秀アーティスト
    • 日本 - 年間最優秀アーティスト、年間最優秀男性ボーカリスト、年間最優秀アルバム
    • スペイン - 最も重要な海外のアルバム
    • イギリス - 年間最優秀アルバム、年間最優秀アーティスト
  • 1984年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 特別賞、最優秀男性ポップ/ロックボーカリスト、最優秀ポップ/ロックシングル「ビリー・ジーン」、最優秀ポップ/ロックアルバム「スリラー」、最優秀ポップ/ロックビデオ「今夜はビート・イット」、最優秀ソウル/R&Bアルバム「スリラー」、最優秀男性ソウル/R&Bボーカリスト最優秀ソウル/R&Bビデオ「今夜はビート・イット」
    • アメリカン・ビデオ・アワード - 最優秀長編ビデオ、最優秀ホームビデオ
    • ブリット・アワード(イギリス) - 最優秀国内アルバム「スリラー」、最優秀海外ソロアーティスト
    • カナディアン・ブラック・ミュージック・アワード - 最優秀海外アルバム「スリラー」、最優秀海外シングル「ビリー・ジーン」、最優秀男性ボーカリスト、年間最優秀エンターテイナー
    • グラミー賞 - 年間最優秀プロデューサー「スリラー」、年間最優秀アルバム「スリラー」、年間最優秀シングル「今夜はビート・イット」、最優秀男性ロックボーカルパフォーマンス「今夜はビート・イット」、最優秀男性R&Bボーカルパフォーマンス「ビリー・ジーン」、最優秀最新R&B楽曲「ビリー・ジーン」、最優秀男性ポップボーカルパフォーマンス「スリラー」、最も優秀な子供向け作品アルバム「E.T.ストーリーブック」
    • MTVビデオ・ミュージック・アワード - 最優秀パフォーマンスビデオ「スリラー」、最優秀振り付け賞「スリラー」
    • ピープルズ・チョイス・アワード - 年間最優秀エンターテイナー、年間最優秀ビデオ「スリラー」
    • NAACPイメージ・アワード - H・クロード・ホドソン自由勲章
    • NARMギフト・オブ・ミュージック・アワード - ベスト・セリング・アルバム「スリラー」、ベスト・セリング・シングル「ビリー・ジーン」、ベスト・ホームビデオ「メイキング・オブ・スリラー」
    • アメリカ大統領人道主義賞受賞
  • 1985年
    • グラミー賞 - 最優秀長編ビデオ「メイキング・オブ・マイケルジャクソンズ・スリラー」
  • 1986年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 特別功労賞、ソング・オブ・ザ・イヤー「ウィ・アー・ザ・ワールド」(作曲部門)
    • グラミー賞 - ソング・オブ・ザ・イヤー「ウィ・アー・ザ・ワールド」、レコード・オブ・ザ・イヤー「ウィ・アー・ザ・ワールド」、最優秀ポップパフォーマンス・デュオまたはグループ「ウィ・アー・ザ・ワールド」、最優秀短編ミュージックビデオ
    • ピープルズ・チョイス・アワード - 最優秀新曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」
  • 1988年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 最優秀ソウル/R&Bシングル
    • ビルボード・ミュージック・アワード - 最優秀ブラックアーティスト、ブルース&ソウル、年間最優秀アーティスト、1988年ベストライブショー
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞
    • ブリット・アワード - 最優秀海外ソロアーティスト
    • ケーブル・エース・アワード - 最優秀編曲特別賞
    • エボニー・マガジン - 年間最優秀エンターテイナー
    • ソウル・トレイン - 年間最優秀R&Bアルバム「バッド」、年間最優秀男性シングル。
    • 黒人大学連合基金 - フレデリック ・D・パターソン・アワード
    • MTVビデオ・ミュージック・アワード - MTV先駆者賞
    • NAACPイメージ・アワード - 最優秀アルバム「バッド」、レオナルド・カーター人道主義賞
  • 1989年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 特別功労賞
    • BETアワード - 「バッド」ツアーの成功を讃えて
    • ビルボード・ミュージック・アワード - 最優秀ブラックアーティスト、最優秀ポップ/R&Bアルバム「バッド」
    • ブラボー・マガジン - ブロンズオットー賞
    • BREアワード - 三冠王アワード(ポップ・ロック・ソウル)、年間最優秀ビデオ
    • ブリット・アワード - 最優秀ミュージックビデオ「スムース・クリミナル」、最優秀海外ソロアーティスト、最優秀海外男性アーティスト
    • 英国レコード協会アワード - 年間最優秀ビデオ
    • キャッシュボックス・アワード - ビデオのパイオニア賞
    • 批評家協会賞 - 最優秀ビデオ
    • フライデー・ナイト・ビデオ - 最優秀アーティスト
    • フォーブス・マガジン - 年間最優秀エンターテイナー(収入部門)
    • ガードナー・ストリート小学校 - 最も有名な卒業生
    • ソウル・トレイン・アワード - 最優秀男性R&B/アーバンコンテンポラリーシングル、最優秀R&B/アーバンコンテンポラリーミュージックビデオ、第1回サミー・デイビス・ジュニア賞/ヘリテージ賞
    • ビデオ・ソフトウェア・ディーラー協会 - 最優秀ミュージックビデオ「ムーンウォーカー」
    • ワールド・ミュージック・アワード - ホール・オブ・フェイム
    • MTVビデオ・アワード - 最優秀特殊効果賞「リーヴ・ミー・アローン」
    • ナショナル・アーバン・コーリーション - ヒューマニタリアン賞
    • ピープルズ・チョイス・アワード - 最優秀ミュージックビデオ「スムース・クリミナル」
  • 1990年
    • BMI就任式 - 第1回マイケル・ジャクソン功労賞
    • ボーイ・スカウツ・オブ・アメリカ - グッド・スカウト・ヒューマニタリアン・アワード
    • キャピタル・チルドレン・ミュージアム - ヒューマニタリアン賞
    • グラミー賞 - 最優秀短編ビデオ「リーヴ・ミー・アローン」
    • ホワイトハウス認定 - この10年を代表するアーティスト
  • 1992年
    • ビルボード・ミュージック・アワード - 1992年ワールド・アーティスト・アワード・ナンバーワン・ワールド・シングル「ブラック・オア・ホワイト」、1992年ワールド・アーティスト・アワード・ナンバーワン・ワールド・アルバム「デンジャラス」、最新トップ100シングルアーティスト男性部門、最新R&Bシングルアーティスト、最新ダンスミュージック・クラブプレイ・アーティスト、最新ダンスミュージック・マキシシングル・セールス・アーティスト
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞
    • ガボン - 国民名誉功労賞
    • 米国黒人所有放送者賞 - 特別功労賞
  • 1993年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 最優秀ポップ/ロックアルバム「デンジャラス」、最優秀ソウル/R&Bシングル「リメンバー・ザ・タイム」、アルバムのセールスと世界各国での人道的な貢献を讃える国際的なアーティスト賞
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞
    • BMIアワード - 今年最もよくかかった曲(「ブラック・オア・ホワイト」「リメンバー・ザ・タイム」)
    • エコー・アワード - 年間最優秀海外アーティスト
    • グラミー賞 - リビング・レジェンド賞
    • NAACPイメージ・アワード - 第25回シルバー・アニバーサリー年間最優秀エンターテイナー賞、最も卓越したミュージックビデオ「ブラック・オア・ホワイト」
    • ソウル・トレイン・ミュージック・アワード - ヒューマニタリアン・オブ・ザ・イヤー、最優秀シングル男性部門「リメンバー・ザ・タイム」、最優秀R&Bアルバム男性部門「デンジャラス」
    • ワールド・ミュージック・アワード - 今年最も売れたUSアーティスト、今年世界で最も売れたポップアーティスト、この時代に世界で最も売れたアーティスト
    • ギネスブック - 特別功労賞
  • 1994年
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞
    • ケーブル・エース・アワード - 最も卓越したミュージカルに贈られるスペシャル・チルドレンズ・チョイス・アワード「ケアリング・フォー・キッズのキッズアワード」
    • クレンショー・コミュニティー・ユース・アンド・アート基金 - ヒューマニタリアン賞
    • MTVムービー・アワード - 最も優れた映画挿入歌「ウィル・ユー・ビー・ゼアー」
    • ポップ・ロック・マガジン - 年間最優秀シンガー
    • スマッシュ・ヒッツ・アワード - 最優秀男性ボーカリスト
  • 1995年
    • ビルボード・ミュージック・アワード - スペシャル・ホット100アワード
    • ビルボード・ミュージック・ビデオ・アワード - 年間最優秀ビデオ・ポップ・ロック部門「スクリーム」
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞
    • ブラジリアンTVZビデオ・アワード - 年間最優秀海外ビデオ「スクリーム」
    • ヨーロピアンMTV・ミュージック・アワード - 年間最優秀男性アーティスト
    • ハリー・チャピン・メモリアル・ヒューマニタリアン・アワード受賞
    • MTVビデオ・ミュージック・アワード - 最優秀ダンスビデオ「スクリーム」、最優秀振り付け「スクリーム」、最優秀美術監督「スクリーム」
    • ポップコーン・マガジン - この10年を代表するアーティスト賞、年間最優秀男性ボーカリスト
    • ポップロッキー・マガジン - 年間最優秀男性ボーカリスト
    • BETホール・オブ・フェーム・アワード - 初の殿堂入り受賞
    • MTVヨーロピアン・ミュージック・アワード - 最優秀男性パフォーマー
  • 1996年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 最優秀男性ポップ/ロックアーティスト
    • ブロックバスター・エンターテインメント・アワード - 最優秀男性ポップ賞「ヒストリー」
    • ブラボー・マガジン - ゴールドオットー賞、プラチナオットー賞特別功労賞、最優秀男性シンガー、最優秀アルバム「ヒストリー」、最優秀ショー、ナイセスト・シンガー
    • ブリット・アワード - アーティスト・オブ・ジェネレーション
    • レ・フィルムファンタスティーク(フランス) - 最優秀ビデオ「アース・ソング」
    • ダニッシュ・グラミー賞(デンマーク) - 最優秀海外男性アーティスト、最優秀海外アルバム「ヒストリー」
    • ジェネシス・アワード - 1995年ドリス・デイ・ミュージック賞:ビデオ「アース・ソング」
    • グラミー賞 - 最優秀ミュージックビデオ短編部門「スクリーム」
    • アイリッシュ・ミュージック・アワード(IRMA) - 最優秀海外アーティスト賞アルバム「ヒストリー」
    • 香港ヒット・ラジオ・アワード - 最優秀海外男性アーティスト、ベスト・ソング・オブ・ザ・イヤー「ユー・アー・ノット・アローン」
    • ワールド・ミュージック・アワード - 史上最も売れたアルバム「スリラー」、1996年に最も売れた男性アーティスト、最も売れたアメリカ人アーティスト、最も売れたR&Bアーティスト、史上最も売れたアーティスト
  • 1997年
    • ボブ・フォッシー賞 - 最優秀ミュージックビデオ振り付け賞
    • ブラボー・マガジン・アワード - シルバーオットー賞、最優秀アルバム「ヒストリー」、最優秀ショー
    • ブラジリアンTVZビデオ・アワード - 年間最優秀海外ビデオ「ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア」
    • オランダ・ミュージック・ファクトリー・アワード - 最優秀男性シンガー、最優秀ライヴアクト
    • ポップコーン・マガジン・アワード - 最優秀男性ボーカリスト
  • 1998年
    • ブラボー・マガジン・アワード - シルバーオットー賞
  • 1999年
    • ボリウッド・アワード(インド) - 卓越したヒューマニタリアン賞
  • 2000年
    • ワールド・ミュージック・アワード - ミレ二アムで最も売れた男性ポップアーティスト賞
  • 2002年
    • アメリカン・ミュージック・アワード - 世紀を代表するアーティスト
    • NRJアワード(カンヌ) - 最優秀海外男性シンガー
    • NAACPアワード - 卓越したミュージックビデオ「ユー・ロック・マイ・ワールド」、卓越したバラエティシリーズ/特番「30th アニバーサリー・セレブレーション」
    • セレブレート・ザ・マジック基金 - 人道的な支援を支えたマジカルライフ賞
    • バンビ・アワード(ベルリン) - ミレミアムを代表するポップアーティスト
    • ワード・アート・アワード2002受賞
  • 2003年
    • BMIアーバン・アワード「バタフライズ」
    • ラジオ・ミュージック・アワード - 第1回ヒューマニタリアン賞
    • ワンネス・アワード - 人種の調和のための貢献に対するパワー・オブ・ワンネス賞
  • 2004年
    • アメリカ大使夫人協会(AASA) - アフリカでのエイズ撲滅運動に対するゴールデン・エレファント・アワード
  • 2006年
    • MTVビデオ・ミュージック・アワード・ジャパン(日本) - レジェンド・アワード
    • ワールド・ミュージック・アウォード2006(WMA) - ダイヤモンド・アウォード

[編集] 音楽性

ジャクソン・ファイブはソウルミュージックの中でも非常にポップで白人にも受けるものだったため、人気の一方で黒人層からの批判もあった。

クィンシー・ジョーンズと出会ってからはソウル・R&B、ポップなどを融合させた極めてクオリティの高い作品を発表。ポール・マッカートニーとのデュエットや「Beat It」でハードロックのギタリストを起用するなど、ジャンルや黒人・白人の垣根を超越した存在となった。

1987年の「BAD」、1991年の「Dangerous」ではニュー・ジャック・スウィングと呼ばれるサウンドを多用し、流行を牽引した。

1990年代後半になっても、マイケルは流行に安易に迎合する事を嫌いこのスタイルを保ったが、2001年の「Invincible」では同時代性を意識した曲を多く収録した。

ハード・ロックにも関心を示し、「Beat It」では、ヴァン・ヘイレンのエディー・ヴァン・ヘイレン、「Dirty Diana」ではスティーヴ・スティーヴンス、「Black Or White」ではガンズ・アンド・ローゼズ(当時)のスラッシュを起用している。近年はギター・ヒーローが少ないせいもありなりを潜めているが、「Whatever Happens」ではカルロス・サンタナを起用している。

パンチの効いたボーカルを聴かせるアップチューンとは対照的に、繊細なハイトーンの美声で歌い上げるバラードにも定評がある。「She's Out of My Life」「Heal The World」「You Are Not Alone」他。

また、社会問題や地球環境といった問題を扱い、広く平和を訴える曲も多い。「Man in the Mirror」「Heal The World」「Earth Song」他。

[編集] ダンス・パフォーマンス

マイケルのダンスは彼の最大の魅力の一つであると語る人は多い。1歳半の時には、洗濯機の鳴る音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていたと母のキャサリンは語っている。練習の際は「フレッド・アステアやジーン・ケリーを手本にしていた」と本人が語っている。「踊るときは何を考えているのでしょうか」という質問には、「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えている。

前に歩くような動作で後ろに進む「ムーンウォーク」はあまりにも有名。もともとは「ゲットーで踊る黒人の子供たちから」学んだものだと本人が語っている。また、初期のころから膝を曲げつま先で立つ独特なポーズを見せており、アルバムのフォトやムーンウォークの締めなどによく用いられる。なお、ムーンウォークをする際には、コツではないがつま先で立つことは重要な要素である。帽子を投げるパフォーマンスでも知られる。

「オフ・ザ・ウォール」の頃はただ曲に合わせて踊るだけであったが、「スリラー」の頃には縦と横の激しい動きが出始めプロのダンサー達との競演も始まった。この頃はマイケルは技術的に様々なものを習得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も習得した。

さらに「バッド」の頃になると体の様々な動きをダンスに取り入れる事で、非常に完成されたダンスを披露できるようになった。この時期に同アルバムの楽曲smooth criminalのショートフィルム(マイケルにおけるPVの総称)で披露した斜め立ちはムーンウォークに次いで有名。このセンセーショナルな動きはアキレス健や背筋などを鍛えることで可能になるが、より大きく傾けてみせるためには靴の裏にフックをかける必要がある。このsmooth criminalは、ムーンウォークのBillie Jeanと並んでライブツアーでは必ず行われる内の最も人気なライブパフォーマンスの一つとなっている。このようにして、マイケルは歌手としてだけではなくダンサーとしても不動の地位を手にすることになる。

「デンジャラス」の頃には非常に速いダンスも出来るようになり、「Black Or White」ではその部分が放映禁止にこそなったが見事なソロ・ダンスを披露している。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないパフォーマンスをしている。 2005年には裁判の精神的ショックから著しい衰弱が伝えられファンから心配されたが、2006年3月に兄のジャーメインが「毎日300回の腕立て伏せと腹筋をやっている」事を伝え、精神的なタフさとその自分に対する厳しさで皆を驚かせた。そして、2006年5月には回復した姿を日本で披露した。

[編集] ディスコグラフィー

[編集] CDアルバム

モータウン時代

  オリジナル・リリース:1972年1月

  オリジナル・リリース:1972年8月

  オリジナル・リリース:1973年4月

  オリジナル・リリース:1975年1月

エピック/ソニー

  オリジナル・リリース:1979年8月
  プロデュース:クインシー・ジョーンズ
  参加アーティスト:ラリー・カールトン、デヴィッド・フォスター、ワー・ワー・ワトソン、パティ・オースティン他

  オリジナル・リリース:1982年11月
  プロデュース:クインシー・ジョーンズ
  参加アーティスト:ポール・マッカートニー、エディ・ヴァン・ヘイレン、デヴィッド・フォスター、ラトーヤ・ジャクソン他

  オリジナル・リリース:1987年8月
  プロデュース:クインシー・ジョーンズ
  参加アーティスト:スティーヴィー・ワンダー、ジミー・スミス、サイーダ・ギャレット、スティーヴ・スティーヴンス他

  オリジナル・リリース:1991年11月
  プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー他
  参加アーティスト:スラッシュ、ヘヴィー・D、ポール・ジャクソンJr、ルイス・ジョンソン他

  オリジナル・リリース:1995年6月
  プロデュース:ジャム&ルイス、ダラス・オーティン、R・ケリー他
  参加アーティスト:ボーイズⅡメン、ザ・ノトーリアスB.I.G.、シャキール・オニール他

  オリジナル・リリース:1997年5月
  プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー、ジャム&ルイス、ダラス・オースティン他
  参加アーティスト:スラッシュ、ワイクリフ・ジーン、ファンクマスター・フレックス、サトシ・トミイエ他

  オリジナル・リリース:2001年10月
  プロデュース:マイケル・ジャクソン、ロドニー・ジャーキンス、テディ・ライリー、R・ケリー、ベイビー・フェイス他
  参加アーティスト:ザ・ノトーリアスB.I.G.、クリス・タッカー、カルロス・サンタナ、ブランディー他

  オリジナル・リリース:2001年11月

  オリジナル・リリース:2003年11月

  オリジナル・リリース:2004年11月

  オリジナル・リリース:2005年7月

※各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である。

[編集] DVD・ビデオ

  • Moonwalker (1988)
  • Dangerous - The Short Films (1993)
  • Video Greatest Hits - History (1995)
  • HIStory on Film, Volume II (1997)
  • Number Ones DVD (2003)
  • The One (2004)
  • Michael Jackson: Live in Bucharest (2005)

[編集] 代表曲

[編集] モータウン時代

  • Got To Be There(全米4位・全英5位)
  • Rockin' Robin(全米2位・全英8位)
  • Ain't No Sunshine(全英8位)
  • Ben(全米1位・全英7位)
  • I Wanna Be Where You Are(全米16位)
  • With a Child's Heart(全米55位)
  • We're Almost There(全米54位)
  • Just A Little Bit Of You(全米23位)
  • Ease On Down the Road (from The Wiz)(全米41位・全英45位)
  • One Day in Your Life(全米55位・全英1位)
  • Farewell My Summer Love(全米38位・全英7位)
  • Girl You're So Together(全英33位)

[編集] Off The Wall

  • Don't Stop Till You Get Enough(全米1位・全英3位)
  • Rock With You(全米1位・全英7位)
  • Off The Wall(全米10位・全英7位)
  • She's Out Of My Life(全米10位・全英3位)
  • Girlfriend(全米-位・全英41位)

[編集] Thriller

  • The Girl Is Mine(全米2位・全英8位)
  • Billie Jean(全米1位・全英1位)
  • Beat It(全米1位・全英3位)
  • Wanna Be Startin'Somethin'(全米5位・全英8位)
  • Human Nature(全米7位・全英-位)
  • P.Y.T(Pretty Young Thing)(全米10位・全英11位)
  • Thriller(全米4位・全英10位)

[編集] BAD

  • I Just Can't Stop Loving You(全米1位・全英1位)
  • BAD(全米1位・全英3位)
  • The Way You Make Me Feel(全米1位・全英3位)
  • Man In The Mirror(全米1位・全英21位)
  • Dirty Diana(全米1位・全英4位)
  • Another Part Of Me(全米11位・全英15位)
  • Smooth Criminal(全米7位・全英8位)
  • Liberian Girl(全米-位・全英13位)
  • Leave Me Alone(全米-位・全英2位)

[編集] Dangerous

  • Black Or White(全米1位・全英1位)
  • Remember The Time(全米3位・全英3位)
  • In The Closet(全米6位・全英8位)
  • Jam(全米26位・全英12位)
  • Heal The World(全米27位・全英2位)
  • Who Is It(全米14位・全英10位)
  • Will You Be There(全米7位・全英9位)
  • Give In To Me(全米-位・全英2位)
  • Gone Too Soon(全米-位・全英33位)

[編集] HIStory

  • Scream(全米5位・全英3位)
  • You Are Not Alone(全米1位・全英1位)
  • They Don't Care About Us(全米30位・全英4位)
  • Stranger In Moscow(全米91位・全英4位)
  • Earth Song(全米-位・全英1位)
  • HIStory(全米-位・全英5位)

[編集] Blood On The Dance Floor

[編集] Invincible

[編集] Number Ones

※基本的に掲載されている曲は米国もしくは英国でシングル発売されたもの。
 各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である
 太字は全米、全英を含め、米国のR&Bチャートもしくはヨーロッパ諸国などで首位を取った曲である。(Jam、Heal The Worldは再販で1位)

[編集] アルバムセールス

[編集] モータウン

  • Got to Be There: 410万枚
  • Ben: 440万枚
  • Music & Me: 200万枚
  • Forever Michael: 160万枚
  • The Best of: 220万枚
  • One Day in Your Life: 150万枚
  • Farewell My Summer Love: 200万枚
  • Looking Back to Yesterday: 30万枚
  • The Original Soul of Michael Jackson: 37万枚
  • Anthology: 260万組(2枚組みアルバム)

[編集] エピック/ソニー

  • Off The Wall: 1900万枚
  • Thriller: 1億400万枚
  • Bad: 2800万枚
  • Dangerous: 2900万枚
  • HIStory: 1800万組(2枚組みアルバム)
  • Blood On The Dance Floor: 600万枚
  • Invincible: 800万枚
  • Greatest Hits - HIStory Volume I: 300万枚
  • Number Ones: 600万枚
  • The Ultimate Collection: 25万組(5枚組みボックスセット)
  • The Essential Michael Jackson: 200万組(2枚組みアルバム)

※モータウン時代のアルバムは1995年までの統計である。「Greatest Hits - HIStory Volume I」、「The Ultimate Collection」及び「The Essential Michael Jackson」 の三つの売り上げ枚数は公式のものではなくこのサイトによる。また売り上げ枚数は全世界でのものである。

[編集] ワールド・ツアー

[編集] BAD Tour

1987年9月12日~1989年1月27日
マイケル初のソロ・ワールド・ツアー。9月9日に来日し、12日に東京で開始した。アメリカ・ロサンゼルスで終了するまで、15ヶ国123公演を行い、440万人の観客を動員した。ツアー総売上高は1億2千5百万ドル。コンサート・ツアー史上最大の世界記録樹立。

[編集] Dangerous Tour

1992年6月27日~1993年11月11日
ドイツ・ミュンヘンに始まりメキシコ・メキシコシティでツアー中断を発表するまで、69公演を行い、350万人の観客を動員した。 機材総量1250トン以上、スタッフ235人、80台のトラックという破格の規模で行われた。

[編集] HIStory Tour

1996年9月7日~1997年10月15日
チェコ・プラハに始まりダーバンで終了するまで、35ヶ国58都市で82公演を行い、450万人の観客を動員した。

[編集] 日本公演

[編集] エピソード

ショートフィルム
最も有名なミュージックビデオと形容されているThrillerの制作費はその当時の金額で80万ドル。マイケルが自分の映像作品の事をショートフィルムと正式に呼ぶようになったのはBlack or Whiteの製作後である。マイケルとジャネット共演のScream(1995)では700万ドルの巨費が投じられ、最も費用のかかったミュージックビデオということになっている。アメリカのホラー作家スティーヴン・キングが制作に参加していることでも知られるGhosts(1996)は35分の最長ミュージックビデオでもある。余談だが、この作品でマイケルは一人5役を演じている。Captain EOでは映画の長さ17分に対して制作費1700~3000万ドルと見積もられており、当時としては一分あたりに直して最も費用がかけられた映画だった。なお「Smooth Criminal」のショートフィルムの真のフルサイズヴァージョンは「ムーンウォーカー」であり、こちらは42分ある。映画であるためミュージックビデオではないが、もしミュージックビデオとして扱われたならこちらの方が長かった。
マイケル曰く、『ぼくはお金に固執はしない。たとえば、その辺の子どもが、ダイヤを見て「これきれい」と言ったら、「いいよ、持って行きな」と言っちゃうだろうし』。また、マイケルが子どもの時、彼が泣きながら帰ってきたので、父親が聞いてみたところ、マイケルは自分のお小遣いを全部つかって、まわりの子どもたちに色々なものを買ってあげたそうである。
結婚歴
1994年5月26日、エルヴィス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリーと結婚し「世紀の結婚」と言われたが1996年1月18日離婚。1999年には「エルヴィスだって鼻の整形をした」とマイケルが発言したため、怒って電話にも出なくなった。リサ・マリーは、マイケルの児童虐待の裁判の苦境中にも、結婚中のネガティブな事をメディアにまくしたて今は絶縁関係にある。1996年11月15日、デビー・ロウと結婚。ビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。1999年10月8日には離婚した。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。2002年にはさらに代理母により次男が誕生した。
ネバーランド
自宅は遊園地が併設されており、ネバーランドと呼ばれる。敷地面積は2万6000エーカー。ネバーランドの名は「ピーターパン」に登場する大人にならない島に由来している。「ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」と語っている。ラマゾウ、マッスルズという名のニシキヘビなど様々な動物も暮らしている。
  • マイケルはセガのゲームがお気に入りで、来日の際に何度かセガ社を来訪している。セガではマイケルに「ギャラクシー・フォース」を筐体ごとプレゼントするなど歓待している。
  • 少年時代、クリスマスも誕生日もなく、休み返上で働いていて、レッスンにいく途中、子供たちが楽しそうに外で遊んでいる姿を見ては、泣いていた。と本人が語っている。
  • バブルス君とはマイケルと行動をともにしていた当時世界一有名なチンパンジーで、1987年9月の初来日の際も共に来日し一躍有名になった。
  • ダイアナ・ロスの事を尊敬している事は有名であるが、本人は中学生時代に彼女に告白して失恋している。その時は「もう絶対結婚はしない」とまで言ったそうである。
  • 1970年代はテータム・オニールとの交際話もあった。
  • 「スリラー」のヒットと同時期に交際していたのはブルック・シールズ。
  • 初来日の際は「日本では静かな声でおだやかに話す人のほうが価値があると思われているんだ!」と驚いたという。
  • マイケルとマドンナとプリンセス・テンコーが、ブルネイのハサナル・ボルキア国王(スルタン)一人のためだけにショーをしたとき、テンコーは油田、マドンナがダイヤモンド、マイケルは鉱山か炭鉱をもらった(テンコー談)。
  • 日本のアニメーションのマニアでも知られていて、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』などを好んでいる。実際に映画『ムーンウォーカー』では変形ロボット、『MTV』では映像を使用した。イラストレーターのいのまたむつみを呼んで自分のキャラクターを描かせたこともある。
  • 自伝では「最も優れたエンターテインメントはストーリーテラー(語り部)である」と書いている。
  • 酒どころかコーラも飲まない。ペプシのCMに出演した際も一滴も飲まなかった。
  • 木登りが好き。木の上で、Black Or White、Heal The Worldを書いた。
  • 家族との確執も噂されるが、父親の誕生パーティーもきちんと行っている。
  • マイケルの楽曲は今もなお数多くの若いアーティストによってカバーされている。(Alian Ant Farmのsmooth criminalは同グループの人気を押し上げた)
  • 2003年10月1日にロンドンで開かれたクリスティーズのポップス記念品オークションでは、マイケルが1976年に描いたチャップリンの鉛筆画が4112ポンドで落札された。
  • 中東に滞在中(2005年)、女子トイレでメイク直しをしてしまった事がある。広報担当によると「アラビア語が読めず間違えてしまった」とのこと。
  • 変装をしてお忍びで外出する事も多いが、子供連れのため発覚し騒ぎになってしまうこともしばしば。
  • 食の細さで知られる。母キャサリンやエリザベス・テイラーはいつも心配しており、エリザベス・テイラーは無理に食べさせた事もある。
  • ベジタリアンである。
  • 非常に敬虔なクリスチャンで、聖書に書かれた通り結婚するまで童貞を貫いたがタブロイド誌はゲイ疑惑などでその事をはやし立てた。
  • ロックンローラーの一般調査で上位に上る。(大抵の1位はエルヴィス)

[編集] 慈善活動

世界各地で子どもたちのための慈善活動を行っている。

  • 1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立。11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出たともいわれる。
  • 1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。
  • モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っている。

[編集] 事業

1985年のATV買収に代表されるように実業家としても知られる。1990年代には韓国で子供向けのテーマパークを建設する計画を発表したこともあるが、実現しなかった。近年はCD売上の落ち込みもあって財政難が度々報じられ、金銭に関する裁判も複数抱えている。これに対し、マイケルは「僕が破産寸前などという話はまったくのデマ」とはっきり語っている。実際、マイケルは現在でも昔の曲の印税だけで年間推定約20億円は収入がある。スリラーの頃は印税だけで推定約138億円であるからさすがに落ちた感はあるがそれでも十分である。

[編集] マイケル・ジャクソン・ジャパン

1998年7月27日に、マイケル・ジャクソンが構想するテーマパークを日本で建設するために日本企業とのジョイントベンチャーとして設立された。マイケル・ジャクソンは事業資金の一部を提供する他、計画のアドバイスをするのみとされている。しかし、その後具体的な事業の進展は伝えられていない。

[編集] プロデューサー業

1990年代、ソニーレコード傘下に自身のレコードレーベルMJJ Recordsを設立。女性グループBrownstoneや、甥3人によるユニット3Tなどをデビューさせた。

日本のジャニーズ事務所との繋がりもあり、1990年代後半にはTOKIO長瀬智也を3Tと共演させたTomoya with 3T による楽曲『ETERNAL FLAME』(1997/8/13)やJ-FRIENDSのチャリティシングル『Children's Holiday』(1998/1/21)をプロデュース・作詞・作曲した。

[編集] チャリティー・ソング

[編集] We Are The World

  • アフリカ飢餓救済

参加アーティト:Michael Jackson, Stevie Wonder, Ray Charles, Bob Dylan, Billy Joel, Cyndi Lauper, Lionel Richie, Diana Ross, Paul Simon, Kenny Rogers, Bruce Springsteen, Quincy Jones (プロデューサー), Hall and Oates, Kim Carnes, Steve Perry, Tina Turner, Dionne Warwick, James Ingram, Smokey Robinson, Kenny Logins, Al Jarreau, Willie Nelson, Huey Lewis 他

[編集] What More Can I Give?

  • 米・同時多発テロ被災者支援

参加アーティト:Mariah Carey,Celine Dion,Beyonce Knowles,Usher,Ricky Martin,Justin Timberlake,Mya,Boyz II Men's Shawn Stockman,The Backstreet Boys' Nick Carter,Carlos Santana,'N Sync,Julio Iglesias,Brian McKnight,Billy Gilman,Anastascia,Tom Petty,Aaron Carter 他

[編集] I Have This Dream

  • ハリケーン〈カトリーナ〉被害者支援

[編集] ゴシップ

[編集] 事実確認の取れない記事・報道の数々

マイケルは金銭目的で訴えられる事が非常に多く、ビートイットは自分の作品だと言う男性に訴えられたり、契約不履行だとして訴えられたりする事が数多い。2003年までに金銭目的で訴えられた回数は1500回に上っていた。2004年には1年だけで約130人訴訟を起こした。1997年には「ウィル・ユー・ビー・ゼアー」はイタリア人歌手の曲の盗作だとして訴えられた。マイケルは「何か似た部分はあるけど全くの偶然だね。だって僕、イタリア語ができないんだから」と一蹴した。

マイケルは「裏切られたマイケル・ジャクソン」で子供たちは「セックスしてできた子供」と言い、ロウも同様に証言していた。2005年4月の裁判の証言ではマイケルを「子供たちにとって良き父親」と称賛し「裏切られたマイケル・ジャクソン」もマイケルに言わされたものではないと証言している。デビー・ロウは親権に関する裁判も起こしている。離婚後、ロウは子供たちと45日おきに1度、8時間の面会を許可されていたが、マイケルが常に子供たちを連れて旅に出ていたため彼女はすべての親権を放棄していた。2006年まで行われた裁判は、この面会に関する親権を取り戻すべく行われた。なお、この裁判は2006年9月に「デビー・ロウと和解することで決着」したという。

ゴシップ記事も多く、マイケルとジャネットは同一人物であるという説(1995年ごろ)もあった。子供に関するゴシップは「マイケルには隠し子の長男がいる」というものもあり、その子供はマイケル・ジョセフ・ジャクソンJr.といい、BADの発売の頃に生まれた子供で彼の母親はスイスに住んでいるのだという。全てマイケル側は否定しており実際にはマイケルの「名付け子」だった。

知名度を利用する人間も多く、2004年にはマイケルと少年の映像を提供するというコンピュータウイルスが出現。2005年には「マイケルが自殺未遂」[5]、さらに「マイケルが死亡」[6]という情報を組み込んだコンピュータウイルスが出現。Panda Softwareが2005年6月13日発表した「セレブウイルス・ランキング」では、2004年にはウイルスやスパムに6番目に悪用される存在となった[7]

また、ハイドロキノンの美白効果とかで「マイケルも使っている美白化粧品」[8]というものもあったが根拠不明。

ネット上では真偽不明の噂が流れるというのは日本の俗説であるが、彼の場合はテレビや新聞のニュースにおいても信用できる情報は少なく、事実上それらもゴシップ化している。

事実確認のされない報道は多く、「マイケル・ジャクソンがネバーランドを売却」という報道は数回伝えられた。だが、これらは実際には「ネバーランドを売却しなくては財政的にきついのではないか」とか「マイケルが国外に移った」とかいった事から事実確認が為されず勝手に作り出された報道であった。

無罪判決が出された時も、ドイツ公共テレビARDのニュースキャスターが「陪審団は昨夜、ジャクソン被告が10の罪状すべてで有罪であるとの評決を下した」と速報を読み上げ騒動になった。しかも、この誤りはライバル局の人気コメディアンが「マイケル有罪」と伝えた映像のビデオを使って指摘するまで関係者達は誰も気づかないという事態になった。

性的虐待裁判の後には模倣犯が出現し、1987年から1999年まで性的虐待をされたことを「思い出した」怪しげなスーツの男がいた[9]が、彼の民事訴訟は2006年4月18日に裁判官によって却下された(この男には前科もあった)。

ウィキペディアも問題を起こさなかったわけではない。2005年ハリケーン・カトリーナの被害に際してチャリティシングルをマイケルが企画した際に、ウィキペディアが「チャリティーソングは12月20日にリリースされる」「タイトルは『I Have A Dream』」といった早まった情報を流した。これらは事実確認の取れない、いわゆる「噂の集約」といったものであった。そのため、12月15日レイモン・ベインが「ジャクソン氏のハリケーン救済ソングの名前を含め、ウィキペディアで伝えられている情報は事実に反しており不正確なものです」と報道する事態となった。

名称に関してはレコーディングに参加したシアラやディニッシュが語った事であり全く根拠のない事ではなく、後に公式の発表もなされている。しかし、結果的にこのような事態になったには事実である。標準時間2005年12月12日7時45分には英語版Wikipediaで「I Have This Dream」の項目が事実確認の為されないまま作られてしまっている。

「薬物を乱用」「バーレーンで職探し」といった嘘情報が流された時、レイモン・ベインは「読んだ内容の90%は信じないでください。大半は嘘ですから」と2006年1月20日語っている。

[編集] 暗い記憶

マイケル自身はさほどひどい目にあわなかったと述べていたが「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座わっていて、間違えると叩れ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた」「ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった」「父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」などと語っている。

また、グループの駆け出しの頃、売り出すためとはいえストリッパーがいかがわしい出し物をするナイトクラブで営業しなければならなかったこともある。『マイケルジャクソンの真実』の製作者J・ランディ・タラボレッリによれば、兄や父がファンの女の子とセックスをしているときに、弟のマイケルとマーロンは同じ部屋でその行為を見ていたのだという。また、マイケル自身に対してジョーゼフが性的いたずらを行っていたのではないかという疑惑があり記事になりかけたが、これはマイケルの元側近ボブ・ジョーンズがゴシップと判断し圧力をかけもみ消した。ところが、この疑惑がもみ消されたことを知ったマイケルは「ジョーゼフの件が嘘だって、どうして分かる?」とジョーンズに述べ、曖昧な態度を取っていたといわれる。

[編集] 整形

「マイケルは整形をしすぎているのではないか」とはよく言われるが、アメリカの芸能界では整形はそれほど珍しい事ではない。1992年にはデイリー・ミラー誌がマイケルの顔を醜く加工した写真を掲載し話題となり、1998年正式に謝罪した。

マイケルは「覚えているだけで2回」「顔の変形は成長したんだ」と言及している。「マイケルジャクソンの真実」の著者J・ランディ・タラボレッリは「マイケルが最初に整形をしたのは、ステージで転んだのが原因で、医学的な理由だった。最初の手術の後その結果が気に入って、整形を繰り返すようになったのではないか」と述べている。2回目の手術は、より高音を出すための鼻の手術で、マイケル自身も認めている。なお、回数に関する疑いは裁判でもマイケルが嘘をついているのではないかとして問われたが、やけどの治療であると弁護側は述べたとされる。

80年代初め頃、マイケルの整形を担当していたのはコマーシャル撮影時に負ったやけどを治療した、美容外科医スティーブン・ホフラン医師だった。

[編集] 白い黒人

スリラーの発売頃から肌が白くなり初めたことについては、マイケル本人が1993年のオプラウィンフリートークショーで病気によるものであると告白している[10]。2003年には狼瘡(ろうそう)患者支援団体および研究機関へのチャリティーイベントに出席したこともある。現在マイケルは爪に色素が残っているのみである。

マイケルが患っているとされる病気は、尋常性白斑(vitiligo、vulgaris、しろなまず、白皮)という父方の病気で、皮膚の色素の一部分がぬけて、それが徐々に広がっていく(全身に広がってしまう事もある)自己免疫疾患である。彼の父親はアフリカン・アメリカンではあるが、青い目をするなどいくらか白人が混じっている(これはマイケルの子供達がなぜ白いかを論証する)。マイケルは天気の良い日には肌を守るため黒い傘をさしており、マスクを付けたりサングラスをかけることもしばしばである。

ボビー・テイラーは、マイケルが子供の頃シャワーを浴びる姿を見たとき、体中に白い斑点があったと語っている。当時はまだ体の一部だけだったようである。初めのうちは黒いファンデーションで隠せる程度であったが、やがて隠せなくなりやむを得ず白いファンデーションを使うようになったという。「Dangerous」を歌っている最中にズボンに白いファンデーションが付いてしまった映像もある。

日本ではほとんど知られていないが、黒人の罹患率は2%強にもなる(en.Wiki、他参照)。原因としては免疫障害、自律神経障害、ストレスなどの説がある。本来免疫というのは体の外部から侵入してくる非自己(ウイルスなど)と自己を区別して、非自己を排除する働きをするのが一般的なのだが、自己であるはずのメラニン細胞を攻撃、破壊または機能が低下してメラニンを作れなくしてしまい、その結果、皮膚が色抜けして白くなるというもの。メラニンを作れなくなった細胞は紫外線に対し無防備になり、皮膚癌などを防ぐため日焼け止めを塗布等の処置をしなければならない。治療法は、レーザー治療(白斑付近のメラノサイトを刺激し白皮膚に色を甦らせる)、ドライアイス凍結療法、紫外線療法、外用薬などがある。また、体の50パーセント以上に白斑がみられる患者の場合、monobenzoneなどの塗り薬を正常な皮膚に塗布し残りの正常な皮膚から色素をぬく方法(体の色を均一化)が取られる事もある。{関連ページ アルビノ

[編集] 1993年の疑惑

1993年、13歳の少年が自分の父親(ビバリーヒルズの歯科医)によってマイケルを告発させられる。家宅捜索の際、捜査員はマイケルの家の花瓶を蹴り倒し、25万ドル相当の金貨数枚も紛失されてしまったが、この件に関しては不問とされ起訴もされなかった。マイケルは、偏頭痛から鎮痛剤中毒になり、ワールドツアーを途中で断念した。

疑惑の発生後、マイケル側の弁護士団内では内部分裂による意見の相違が本格化。米国では、民事では裁判に持ち込む前に示談とすることが一般的なことと、マイケルが鎮痛剤中毒の治療に専念しなければならないことを考慮し、1994年1月25日に少年に対し以後40年間にわたり計1530万ドル[11]を支払うことにより和解。「僕は不適切な事は何もしていない。名前と名誉を守る事だけにこのお金を支払う」と書かれた示談書を提出した。マイケルは「馬鹿みたいな裁判をテレビでやりたくない。どうやっても疑われたままになってしまう。もうこれは終わりにしようと言ったんだ。」と語っている。

しかし結局、大金を手に入れた家族は家庭崩壊してしまい、母親と少年は縁が切れてしまった。後に少年は嘘の証言をしたことを告白し、父親によってマイケルに不利な証言を言わされたと述べた。父親が弁護士と画策して「卑劣な手を使ってマイケルを陥れ大金を手に入れる」と証言している電話記録も正式に残っている。

アミタール塩の瓶
拡大
アミタール塩の瓶

また、この事件ではマイケルが目の前でマスターベーションを行ったり、マイケルがオーラルセックスを行ったとかいう話や陰茎を愛撫されたという証言があった[12]。だが、この証言は通常は歯の治療に用いる麻酔を用いて無理に思い出させた記憶であった。そのため、一部ではこれは虚偽記憶を植えつけられたのではないかという批判がある。

この事件で用いられた薬物はアミタール塩(Sodium Amytal)という薬物である[13]。このアミタールという薬物は催眠性がありかつては一部の治療者が用いていた[14]。だが、訴訟が多くなるにつれこれは虚偽記憶を植えつけている可能性が高いのではという批判が一部で起こった[15]。そのため、アメリカでは2000年ごろまでにこの方法は禁止となり、多くの州でこのような訴訟は受け付けない事になった。

また、訴えた少年側の(父親が雇った)弁護士の秘書ジェラルディン・ヒューズが、あの訴訟が少年の親によってしくまれた「ゆすり」の類であり、職場で不正としか思われない手紙をタイプさせられた体験など、ゆすり行為に加担した自分を詫びる内容の告白本を出版している[16]。また、少年の父親が自らの制作映画への資金をマイケルに出させようとしたという話まである。

だが、真実がどうであれ結果的に示談によって金銭的決着を付けたことが、世間に「金で無罪を買った」という印象を与え真相が結局明らかにならず、後も疑惑の目が消えなかった。当時薬物依存と戦うマイケルを援助したエルトン・ジョンは、これに対しマイケルは最後まで戦うべきだったと言っている。後の裁判では、マイケルの家の警備員ラルフ・チャコン(Ralph Chacon)が裸のマイケルが11歳のジョーディーの身体の至る所にキスし、そして少年の陰茎を口に入れオーラルセックスを行ったと主張していた[17][18]

なお、この訴訟で無理矢理証言させられたジョーディ・チャンドラー(Jordy Chandler,1980年1月11日 - )は、2005年8月5日に虐待されたとして父親を訴えた[19]ニュージャージー州の法廷で「彼は頭を後ろから殴られていた・・・バンベルの重りで・・・そして、催涙、もしくは刺激性のスプレーを目に吹きかけられ、そして窒息させられそうになっていた(struck him on the head from behind with ... (dumbbell) weight ... sprayed his eyes with Mace or pepper spray, and tried to choke him)」と述べられた[20][21]。さらにそれでもまとまらず2006年9月5日に控訴した[22]。そのためこの訴訟は家庭裁判所から一般法廷に移ることになった。

[編集] ソニーウォーズ

1990年代後半頃からマイケルとレコード会社側の仲は非常に険悪なものとなっていった。レコード会社側は圧力をかけ、マイケルはそれに反抗するというような状態が続き、2001年の「Invincible」の発売直前にこれが最後のアルバムとモトーラに通知した。

実はこのアルバムでは当初、1997年5月に射殺されてもはやこの世にいないビギー・スモールズことザ・ノトーリアスB.I.Gの声を収録した「Unbreakable」に20分のショートフィルムを付けて先行シングルとして発売したいというのがマイケルの意向であった。ところが、レコード会社は時間をかけたくないという理由を挙げて、「Unbreakable」を「You Rock My World」に差し替えてしまった。そのため、このアルバムではマイケルが自らの意向通りにリカットシングルを発表する事ができなかったのである。

その「Invincible」がUSで200万枚の売上しかでなかったとソニーが報告した事に関し「曲が売れなかったのはソニーの宣伝が足りなかったからだ」「会長は人種差別の塊だ」としソニーを提訴。これに関し会社側はプロモーションビデオや宣伝に以前と同等の予算を使ったと反論。だが、2003年1月10日、トミー・モットーラは会長を退き、様々な批判があったがマイケルは勝利し、最終的に5月にはマイケル側の意向をほぼ全面的に呑むことで合意した。

2003年11月ソニーから発売したベスト盤には新曲「One More Chance」が収録された。ただし、この楽曲の広告にはソニーはほとんど関与しなかった。

この問題はマイケルの勝利が決定した時点で幕を下ろすかと思われたが、この問題はさらに尾を引く。マイケルとソニーによる合弁会社、ソニーATV音楽出版は30万曲以上の著作権を管理・運用しており、これによる年間収益はおよそ8千万ドル(ビートルズの楽曲だけでも3千万から4千5百万ドル)に上り、これらのカタログの価値は6億から10億ドルとも言われていた。ソニー・ミュージック幹部からの情報によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、その版権カタログの権利に関して激しい損失が起こるため、版権カタログを奪うべく、シャフェル、コニッツァー、財政相談役のアル・マルニックらがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。

このことは裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルの事を「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。結果的にマイケルは無罪になったが、カタログはその価値のために様々な事件を今まで巻き起こしてきたものであることは否めない。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測も2006年4月に出たが、すぐにマイケル側はそれは「新たな融資が組みあがった事」であると言いカタログは売っていないと語っている。

結果的に、2006年6月には資産・経営管理を担っていた人物達との関係を解消し、広報担当のレイモン・K.ベインをゼネラル・マネージャーに指名した。8月にはレイモン・ベインが前民事弁護士やアドバイザーなどによるマイケルの破産を狙ったとされる文章が存在する事を公表した。

ソニーの不正改正も認定され、2006年11月にはスリラーの真の売り上げ枚数1億400万枚がギネスに認定された。

[編集] 乳児吊下げ事件

2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。だが、マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「はしゃぎすぎてしまったのではないだろうか」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していた事も一部で話題となったが、これはパパラッチから子供達を守るために顔を隠していると言われている。

[編集] 2005年の裁判

[編集] 裁判までの経過

世界を大混乱に陥れたこの事件は2003年2月の英国人記者のマーティン・バシールによる8ヵ月密着取材「マイケル・ジャクソンの真実」でマイケルに寄り添うヒスパニック系の少年ギャヴィン・ヴェンチュラ=アルヴィーゾウ(Gavin Ventura-Arvizo, 1989 - )が映っていたことに端を発した。この少年はもともとは癌であって腫瘍を除去する手術で腎臓と脾臓、副腎を失ったが、結果的に完治した少年であった。

これを見た学校関係者を名乗った精神科医が通報をした。通報した理由は「いい大人が子供と一緒に遊んでいるのはおかしいのでは」というものであった。LA福祉局員はその意見を基に2月14日から27日まで少年と家族を聴取したが、彼らは当初はマイケルは犯罪を犯していないと認めており、むしろマイケルに対して好意的な証言が多かった。母親は、「息子はマイケルと同じ部屋で寝たがベッドを共にはせず、マイケルは床で寝ていた」と証言していた[23]。これらの証言の記録ビデオは後にテープ818と言われた。この証言があったため、3月にはSB郡保安官らは「犯罪性なし」として捜査を打ち切っていた。ところが、その後少年と家族が証言を変え始め、結局11月18日にSBシェリフは証拠不十分のまま、その少年に対する性的虐待等の容疑でマイケルを逮捕した。しかし、起訴するための証言を集めるのに検察側は時間をかけ、同容疑で起訴したのは翌年4月であった。

なお、逮捕される前日の11月17日にカリフォルニア州知事が共和党アーノルド・シュワルツェネッガーに変わったばかりであったため、一部ではジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領がイラク戦争に対する批判を逸らすため工作を行ったのではないかという説もある。

マイケルは12月25日、子供を傷つけるくらいならリストカットをするとまで述べた[24]。また、2003年12月28日にCBSで放送されたインタビューの中で「警察から手荒な扱いを受けた」と公表したが、SB郡保安官事務所は「そのような事実はない。ジャクソン氏は自らの信用を著しく傷つけている」として、ビデオや録音テープを使って反論。しかしマイケルの弁護人マーク・ゲラゴスや家族は映像がカットされすぎているとしてさらにこれに反論した。

弁護団のメンバーは当初何度か変わったが、トーマス・メゼロウが2004年4月に引き受ける事が決まった後は彼が中心となり最後まで裁判を引っ張っていく事になる。

一方、日本ではまるでマイケルがもはや有罪ではないかという風潮が広がっていた。アメリカでは少年の実名報道が当初から許されていたが、日本ではマイケルに性犯罪者の疑いがあったため、許されていなかった。また、読売新聞は裁判中は「USの性犯罪情報公開の記事」と題しマイケルの写真を載せたこともあった。また、日本の公共放送であるNHKでは視聴者参加型2時間洋楽専門番組では、マイケルのNo.1ヒットには投票できないようにされていた。検察側は捜査令状を発行し続け、令状の数は120を突破していた。

[編集] 検察側の主張

そうして裁判は開始された。カリフォルニア州は懲役を単純に足していく「併科主義」のため、マイケルが有罪になった場合、最大で懲役80年以上の判決が出る可能性もあった。現地時間2005年1月31日初公判は行われた。

検察側の主張では、「マイケルジャクソンの真実」が放映された後に、マイケルがパニックを起こして少年達を誘拐したとされた。また、自家用ジェット機で誘拐されたとも主張したが、弁護側は有名人の知人達と会うため等に買ったものと述べた。70人を動員して行った家宅捜索では地下から大量のポルノ雑誌等が発見されたが、違法なものは出てこなかった。

また検察側は、その行為の具体的な様子や、少年ポルノ雑誌やウェブサイトを見せ、少年にアルコールを与え、自分のことを「ダディ」と呼ばせていたといった主張をしたが、その証拠の多くは不明確な物であった。証拠の一つとして、「異性愛の」ポルノ雑誌に指紋がついているというものがあったが、マイケルの指紋がついているのが100の雑誌中12であったのに対し、少年の指紋がついているのはそのうち1つの雑誌であり、また、同一のページではなかった(54ページと93ページ)。そして、その証拠は家宅捜索から1年以上経って提出されたものであった。後に指紋を取り違えていたことも明らかとなり、証拠としての信用性は低いものとなった。

1993年・2003年の性的虐待の裁判を担当したトム・スネドン検事について、マイケルは1995年発表の「HIStory」の「D.S.」でスネドン検事の事を批判している。スネドン検事は「絶対の自信」を持っていると主張していた。探偵事務所への不法な家宅捜査を行ったとして弁護側に質問された時には「イエスともノーとも答えられない」と発言した。裁判中にはオーストラリアに行っていた。本人は調査のためと語った。日本のマスメディアには、マイケルに続きスネドン検事も批判された。

[編集] 少年の母親の主張

裁判ではマイケル側の主張が証明される証拠が多く挙げられた。検察側の証拠は状況証拠だけであり、信憑性が薄かった。

法廷において母親には感情的な行動が多く見られ、その反抗的な態度も問題となった。例えばマイケルとその部下に誘拐された事を問われた時「無理矢理閉じ込められたと感じたか」と言われたとき母親は「そうは思わなかった。けど、後で思った」と証言した。また、「強要されたと感じたか」と2回追求された際には、「どういうことですか?」としか言わない母親に対し弁護団は「強要がどういう意味だか分かりますか?」と言ったところ「分かりません!」と言うこともあった。

2005年3月2日、トーマス・メゼローは開廷弁論にて「容疑事実の間、被告がネバーランドに在宅していない」と述べ、これによりマイケル・ジャクソンの児童誘拐・監禁・恐喝を犯すための陰謀罪容疑がほぼ消滅し、後は性的行為があったかどうかを確かめるのみとなった。番組により世間の注目度が高まり、少年が児童福祉団体から調査を受けていた時期ではそのような行動は不可能であった。

また、マイク・ラダコビッチの証言により母親はマイケルの監禁下にあったと主張している間に、マイケルの会計で7000ドルを浪費していた事実が明るみとなり、さらにJCPennyの示談金32308ドルが母親の口座に、25000ドルが少年、5000ドルが弟に振り込まれていたことが明らかとなる[25]。オーストラリア大手のUndercoverによると母親は年間8万ドルの福祉金詐取を行っていたとも報じられていた。

また、2005年4月15日には、誘拐され監禁されていたと証言していたネバーランド脱出日である2003年2月11日に、140$(レシートが存在していた)で全身のワックスを塗っていた事が議論となる[26]。これに対し母親は「全身のワックスを塗ったのではなく足のワックスを塗った」と反論した[27][28]。だが、5月16日にキャロル・マッコイの目撃証言によりそれが全身のワックスであった事が確認された[29][30]

少年の母親は過去にも別の人間に対しても同じような訴えを起こしており、その犯行パターンがプロファイルされていた。訴えた少年の母親は、子供の癌を理由にテレビ司会者のジェイ・レノやコメディアンのジョージ・ロペスなどといった有名人に近づき、治療費にもらったお金で高級車を買い、全身エステに通っていた。

ジェイ・レノはマイケルの揶揄で有名で、普段はマイケルの事を笑いものにしている。3月7日月曜日放送の番組では、「マイケル・ジャクソンとマーサ・スチュアートの電話での会話『マイケルは白人の女性が牢獄ではどんな風に生活しているのか知りたがっていた』」[31]というギャグを述べていた。だがたかられたのは事実なので母親にたかられたという証言は行った[32]。この5月24日に行われた証言は「爆弾(Bombs)」と言われた。

また、家族はクリス・タッカーにたかり彼は1万4千ドルのトラックを買い与えていた。その経験のあるクリスは『あの家族はヤバいから気をつけろ』と忠告をしていた[33]。だが、マイケルは彼らを見捨てることができず物心両面でサポートし続けていた。このクリス・タッカーの5月25日の証言をメディアは「非常に強力な証言(very strong testimony)」と報道した。

[編集] 少年らの証言

少年は初め虐待を受けたのは番組前と言った。しかし、その時マイケルは何もしていないと警察に証言していたので、番組後と証言を変えた。だが、その後も教師に何もされていないと答えた事が発覚。ギャヴィンはこれに対し嘲られると思ったためと回答した[34]

また、話が「少量のアルコールを飲まされた事がある」から「毎日飲みつぶれるまでアルコールを飲まされた」に飛躍したため、マイケルの弁護人メゼロウは激しく非難。また、ネバーランドに長期滞在させて、癌の治療にも協力したのにもかかわらず「マイケルは私を助けなかった」という証言もした。少年の証言は変わり続けその回数は裁判後でも10度以上に上った。少年は検事スネドンの質問にさえまともに答えようとしない事もあった。

また、マイケルの身体的特徴の証言が1993年と同じであった。なお、マイケルは十年も経っているため身体的特徴は同じではない。

少年の弟も自らの証言の偽証を認めざるを得なかった。弟は兄がマイケルに性的行為をされたところを見たと述べたが、当然鳴るはずの警報装置は鳴らなかったのかと言われ、弟は鳴ったと言った。このとき弟は「ではなぜマイケルは気づかなかったのか」と問われ答えに窮した。

兄弟は非行での退学歴を有しており、少年はヤフーのポルノサイトにも出入りしていた。マイケルの甥や姪が証言した事には、彼らはワインを盗み、マイケルの不在時にポルノムービーを見て、自慰をしていたという。

ギャヴィンはトーマス・メゼロウが「マイケル・ジャクソンの裸を見ましたか?」と聞いた際には「思い出せません」と答えた。彼は両親に虐待されたという訴えもしていた。

[編集] 関係者らの証言

過去の事件(1993年)に関し次々と証人は呼ばれたが信憑性が疑われた。その大前提は、それならばなぜ検察は当時何もしなかったのかということである。ウェイド・ロブソン、ブレッド・バーンズなどマイケルと仲の良かった元少年達はマイケルの無実を訴えた[35]。ジョーディ・チャンドラー(1993年の原告少年)など、いくらかの少年は国を離れ証言を拒んだ[36]

マイケルの二番目の妻、デビー・ロウも証人に呼ばれた。検察は彼女に「裏切られたマイケル・ジャクソン」がシナリオによるものであり信憑性がないという証言を期待した。ロウははっきりとシナリオはないと証言した。

ホーム・アローン」(1990年)の主演で知られるマイケルの親友マコーレー・カルキンが、ジャクソン被告にズボンに手を入れられいたずらをされるのを見たという元調理師がいた。2005年5月にマコーレーが呼ばれ否定した[37]。彼は検察を「完全に馬鹿げている(abslutely ridiculous)」と述べた。

なお、カルキン一家はマコーレーがあまりに売れすぎたため家庭崩壊してしまっており、その精神的苦痛からマコーレーは現在は薬物の話もある状態になっている。当時、マイケルは「ネバーランドに住まないか」とも提案したが、家族が「何を言うの!」と拒んでいた。彼は弁護側に協力し弁護側証人として出廷し、検察側反対尋問への受け応えは完璧と言われた。

検察側はこの後、整形しているかとかウィッグを付けてるかとかいうことを質問した。マイケルの証言能力についてというのが一応の前提であるが、全く関係ない事を聞いていた。さらに「マイケルジャクソンの真実」の未放映部分Take2も弁護側によって公開された。ここでは問題のインタビュアー、バシールまでもがマイケルの事を褒め称えていた。

このようなことが明らかになるにつれ米メディアは5月に一斉に「マイケル無罪の公算が高い」と報道しだした。最終的に少年達に酒を飲ませたという罪に問えるかが争われた。

[編集] 無罪判決が下る

人種差別の問題などと関連し過熱を極め、アメリカも裁判の様子を連日放送し、人々の間では「マイケルは無実だ。幼児性愛者でもなんでもない」「ある程度はそうかも知れないが有罪にするほどのことはやっていない」「マイケルは検察側の言うとおり変態だ。支持する奴も変人だ」など自己主張を含めた様々な意見が出され、さらには派生して同性愛者や少年愛者の問題が取りざたされる事になる始末になり、世界中の人たちを大混乱に陥れる大騒動となったこの裁判は、現地時間2005年6月13日午後2時15分、児童誘拐・監禁・恐喝を犯すための陰謀容疑1件、児童に対する猥褻行為容疑4件、児童に対する猥褻行為を試みようとした容疑1件、重罪を犯すことを援助するために酒を飲ませた容疑4件に関し、検察側は証拠を何一つとして挙げられず、全ての容疑に対して無罪が言い渡されるという形で幕を下ろした[38][39]トーマス・メゼロウは「真実は正された。マイケルは無罪だった。初めからそうだった。(Justice was served. Michael Jackson is innocent.)」[40][41]と勝利宣言を出した。

陪審員12人の人種構成は白人が7人、ヒスパニック系4人、アジア系1人と、マイケルが黒人である事と、訴えた一家がヒスパニック系であることを考えても、圧倒的にマイケルは不利な状態であった。陪審員の中でも、12名のうち2名ほどが、何があっても有罪に投票するための「ステルス陪審員」だという観測が多くあった。実際、性的虐待をしてもおかしくないかとも思ったと言う人もいたが、結局は圧倒的なマイケル側の証拠の前に公式には全員結局はやはり無罪であると言わざるを得ないという意見になった。投票は一度での無記名投票で行われ、全員一致で無罪の評決を下した。

判決直前には連日、早朝から約2000人の取材陣と約100人のファンが地裁前に集まり「イノセント(無罪)!」の大コールが飛び交っていた。マイケルに有罪評決が下った場合、ファンが暴徒化する可能性もあったため、警察官約700人をすぐに展開できるように準備もしていたが、結局無罪の評決が下ったので警察の杞憂に終わった。

だが、マイケルは精神的ショックと脱水症状から体調を崩してしまい、裁判終盤には病院通いが続いた。裁判に遅刻し、2004年1月の罪状認否の際に1度目の遅刻。2005年2月15日には郡地裁で、陪審員を選任する手続きが行われようとしていたがマイケルが入院し延期。2005年3月10日には、背中の痛みで病院で手当て中で裁判に出廷しなかった際、裁判長は逮捕状を用意し、1時間以内に出廷しなければ逮捕状を執行し、300万ドルの保釈金も没収すると宣言するという事もあった。そのためマイケルは背中の痛みをおしてパジャマ姿で出廷した。

体重がもともとは54キロであったものが40キロまで落ちたという話もあり、父ジョーの支えがなければ歩けない様子も報道された。映像では髪はぼさぼさで足取りもふらふらとしていた。判決直前は背中の痛みを訴え病院に通い、6月7日には集中治療室に入った。無罪判決を受けた時も周囲に対し手を振ったりはしたものの、顔はひどくやつれていた。

[編集] 裁判のその後

無罪判決後はマイケルと母親の立場は完全に逆転する。8月23日当局は母親を福祉詐欺で起訴、経済状態を偽って1万9000ドルの生活保護手当をだまし取ったとして、詐欺罪に問う[42]。マイケルの裁判ではマイケルの弁護士により母親は無一文と主張している間、15万ドルを受け取っていた証拠が出てきていた[43]

彼女は自らにかけられたこの疑惑に対し無罪を主張した。この裁判は2005年10月28日に公開ヒアリングが行われる。そして、2006年11月13日に福祉詐欺で有罪判決が下った[44]。判決により、8600ドル(約100万円)以上の支払い及び150時間の地域奉仕活動が母親に命じられた。

[編集] 誤解をうけた背景

マイケルは子供好きで有名であるが、それが誤解を呼んでしまった。マイケルは10代の頃夜中にテレビで口に蝿がたかっている子供など、世界各地の恵まれない子供たちの映像を見た際、目に涙を浮かべ「いつか僕はこの問題に立ち向かう」と話したという母親の話からも分かるように、子供達に対する感情は決して性的なものではない。

これについて、検察側から医者や専門家も呼ばれたが、スタン・カッツ医師(1993年と2003年の嫌疑を担当)は「ジャクソン氏は幼児性愛者でも何でもない」と言った。また、専門家も基本的には、マイケルに否定的な意見はさほど言えなかった。大くのアメリカ人の一部にはマイケルの行動が小児性愛者に近いという指摘もあったが、もしこの指摘が正しいとしても小児に幻想を持つペドフィリアの概念と子供に性犯罪を犯すチャイルド・マレスターの概念は同一のものではないため、だから性的虐待を行っていると言うのは不可能である[45]

また、エホバの証人が性的虐待を行っているというスキャンダルもあったが、それはマイケルが行っている可能性を高めない。エホバの証人のスキャンダルはローマ・カトリック教会の聖職者らによる性的虐待事件の被害者が少年が多かったのと異なりその被害者として名乗り出た者は大部分が少女か若い女性であり、そしてその告発の多くに近親相姦が関係していたのである[46]

結果的に2度の性的虐待疑惑はいずれも原告の家族による金銭的な狙いであることが一般に明らかとなったが、ネバーランドに招待した子供と寝起きを共にすることで世間に対してあらぬ誤解を生んでしまった。このことに関してマイケルは「子供たちが一緒に寝たがる。僕が部屋に招きいれたわけではなく、子供たちが今夜ここで寝てもいい?って聞いてくるんだ。僕は親の承諾があるならいいよって」「たくさんの子供たちとは寝たことはあるけど、一人の子供と同じベッドに寝たことはないよ。皆さんは“ベッド”って言うときすぐに性的なことを考えるけど、そうじゃない。子供たちをやさしくつつんであげて、音楽をかけて、お話を読んであげたりする。暖炉に火をつけて、温かいミルクをあげたり、クッキーをあげたり、子供にはとても楽しいことなんだ。」

2005年に無罪評決を受けた後、担当弁護士トーマス・メゼロウは「彼は今後一切児童とベッドを共にしない」と宣言している。

[編集] メディア報道等に対する批判

メディア等には「マイケル・ジャクソンは有罪であろう」という意見が多かったが、これに対する疑問も多かった。

裁判前~裁判中のものとしては、以下のようなものがある。

メディアの報道は扇情的で裁判の実態を報道していない。
これに関しては当初から言われた。2005年度の英語スピーチ・コンテスト全国大会の優秀賞にはマイケルへの報道姿勢を批判したものが入賞している。
「アメリカでは子供を同じベッドに入れただけで性的虐待になるからマイケルのしたことも性的虐待じゃないか?」
アメリカでもそのくらいで刑法で罰する事はない。マコーレー・カルキンも「同じベッドに寝て、それだけさ。それがどうだって言うんだい?」と証言している。
マイケルのやっていることは単なるスキンシップの範囲である。
欧米の家族は幼稚園に入る頃には親と一緒の部屋に寝る事もなくなることも多いため、マイケルがちょっと変わっていると思われた可能性は否定できないが、アメリカでは多くの大人が子供に普通にキスしているという事実もある。

判決後のものとしては、以下のようなものがある。

陪審制では一人でも無罪がいれば無罪であるというが、実際にはそんな事は少ない。
陪審制に関してはヘンリー・フォンダ主演の米国映画『12人の怒れる男』(1957年)の影響が日本では強く、無罪が一人でもいれば無罪になるというイメージが強いが現実にはそのような事実は一般に認められない。シカゴ陪審制研究プロジェクトの調査結果によると、255の陪審裁判のうち、最初の無記名投票で陪審が全員一致で有罪としたのが約2割、無罪は約1割である。この1割に当たるのがマイケルの裁判である。また、同調査では最初の投票における多数意見が最終評決の95%である事も判明しており、判決は全員一致が原則とはいえ多数決の原理をほぼ満たしているのである。
疑わしきは罰せずという話が飛び交ったが、これはアメリカでも日本でも本来同じである。
日本ではさほど強調されないが、アメリカでは「有罪」か「有罪でない」を選ぶことを強調している。なぜなら、日本では「有罪にするための合理的な疑いを超える証拠がないと逮捕しない」ため有罪率は9割超に達しているが、アメリカでは「証拠不十分でもとりあえず逮捕し、後は司法」という感じであるため冤罪も多く有罪率は6割程度に留まっている。
CNNの「ラリー・キング・ライブ」に出演した2人の陪審員は有罪派と言われていた人物である。
この番組では「多分(性的虐待を)している」、「何もなかったとは思えない」という陪審員の話もあったが、これらは有罪派であったと言われる人たちの話である。このうちの一人、陪審団長ポール・ロドリゲスは一時は検察側が仕込んだのではないのかと噂された人物であり、もう一人のレイ・ハルトマンは無罪に同意して無罪判決を出したのにもかかわらず、裁判後あれは脅されて同意したのだと主張した人物である。しかし他の陪審員はこのことを否定している。さらに彼は、暴露本を出すと言い出したが、本の内容がヴァニィティフェア誌に掲載されると、利用された精神的苦痛を理由に2005年9月に会社を訴えている。

日本では無罪速報で「公判の過程で、過去の少年虐待疑惑が詳細に描写された」とされたが、これは裁判で否定された事である。

[編集] ファミリー

両親

マイケルは裁判の時もキャサリンの落ちてきている上着をかけ直して上げたりしている。

兄弟

  1. Rebbie(Maureen Reilette) Jackson (1950 - )
  2. Jackie(Sigmund Esco) Jackson (1951 - )
  3. Tito(Toriano Adaryll) Jackson (1953 - )
  4. Jermaine Lajaun Jackson (1954 - )
  5. LaToya Yvonne Jackson (1956 - )
  6. Marlon David Jackson (1957 - )
  7. Brandon Jackson (1957 - 1957)(マーロンと双子、生後数時間で逝去)
  8. Michael Joseph Jackson(1958 - ) - 本人
  9. Randy(Steven Randall) Jackson (1961 - )
  10. Janet Damita Jo Jackson (1966 - )
  • Joh'Vonnie Jackson (1974 - )(異母兄弟)

子供

  • Prince Michael Jackson (1997)
  • Paris Michael Katherine Jackson (1998)
  • Prince Michael II (2002)

[編集] 著書

  • MOONWALK (1988)
  • Dancing the Dream (1992)

[編集] 映画

  • ウィズ (1978年)
  • Captain EO (1986年) - ディズニーランドのアトラクション
  • ムーン・ウォーカー (1988年)
  • メン・イン・ブラック2 (2002年)
  • マイケル・ジャクソン IN ネバー・ランディング・ストーリー(原題:Miss Cast Away) (2005年)

[編集] ドキュメンタリー番組

2003年に、アメリカの大手テレビネットワークのABCテレビなどがドキュメンタリー番組「Living with Michael Jackson」を放送した。マイケルへのインタビューや私生活の密着などを含み、赤裸々な内容が大きな話題となった。英国(2月3日)では53.9%という超高視聴率を記録し、1400万世帯が視聴した。オーストラリア(2月4日)では200万世帯以上が視聴、同国のテレビ史上最も多くの視聴者を獲得した番組となった。オランダ(2月4日)でも140万世帯が視聴し、20.4%という高視聴率を記録。アメリカABC(2月6日)でも、およそ2710万世帯が視聴し、18.7%という高視聴率を記録。番組終了後に放送されたマイケルに関する内容を盛り込んだ「Primetime Live」の特番も、およそ2350万世帯が視聴した。2月13日にはイスラエルでもKeshet TVで放送され63万世帯に視聴され、28.4%の視聴率を記録。2月24日には日本でも「スーパーテレビ情報最前線」(日本テレビ系)の特別版「マイケルジャクソンの真実」として放送され、関東地区で22.6%、関西地区で25.9%、瞬間最高視聴率27.8%という高視聴率を記録し、関心の高さを証明した。この番組の放映後、各国でマイケルのアルバムが売れ、イギリスでは5-10倍の売り上げの伸び率を記録した。反響は大きく、2月には放映されなかったポーランドであっても「Invincible」が2月の月間最多売り上げアルバムになった。

しかし取材に協力したマイケル自身の意図とは全く異なり、マイケルが子供を傷つける親として失格な人間であるかのような不正確な描き方をした、悪質かつ誹謗中傷を目的とした内容に編集されていたため、名誉を傷つけられたと強く抗議。リサ・マリー・プレスリーや多くの著名人が「あの番組はおかしい」と非難。ロドニー・ジャーキンスも「個人的な話」と前置きした上で、「私の家に遊びに来た時もマイケルは父親としてきちんと振舞っていました。プリンスは仮面など着けていません。身なりをきちんと整えた、行儀のいい良い子です」と述べた。OASISのノエル・ギャラガーには「典型的なイギリス流ジャーナリズムのやり口だよな」とまで言われた。

この番組のインタビュアー、マーティン・バシーアーは巧みな話術で知られ、3つの報道で訴えられイギリスから国外追放処分となった。ちなみにバシーアは故元ダイアナ妃から色々な証言を引き出させた事でも有名。バシーアーはマイケルに対して240日間もの間「整形の回数」「肌の色」「1993年の疑惑」「少年、子供と一緒に寝ること」についての証言を聞こうと、執拗に繰り返し聞いていた。ところが、実際にはバシーアー自身は一度もそのような現場を見たことがないとも証言している。

この報道に対してFOXが反論番組「The Michael Jackson Interview: The Footage You Were Never Meant To See」(2月20日)を作り、こちらもアメリカだけで1410万世帯が視聴した。日本ではフジテレビが「裏切られたマイケル・ジャクソン」(3月8日)として放送した。関東地区で15.9%の高視聴率を記録した。

[編集] ゲーム

発売はいずれもセガ。「ムーンウォーカー」は本人がゲームセンターでセガのゲームを遊び、気に入ったことから自らセガに制作を提案した。スペースチャンネル5は試作版をプレイしたマイケル自ら出演を切り出し、急遽ゲストとして登場する事となった。1では飛び入りだったためにごく一部分のみの出演だったが、その後製作されたpart2では主人公であるリポーター・うららの所属する放送局「チャンネル5」の局長として重要な役を演じている。作中では「スリラー」などの振付も登場し、主人公とともに踊っている。

[編集] 関連項目

[編集] 出典

  1. "1984: Michael Jackson burned in Pepsi ad" .
  2. "The Rights Stuff" .
  3. "Michael Jackson's Biography" .
  4. Michael Jackson、12月に来日!
  5. 「マイケル・ジャクソン自殺未遂」メールでトロイの木馬に誘導
  6. 今度は「M・ジャクソン死亡」? 偽ニュースで拡散の新ワームKedebe-F
  7. ウイルスに人気のセレブはブリトニー
  8. 紫外線トラブル・茶色ホクロ専用美容液「ホワイトアウト」
  9. New Molestation Suit
  10. Michael Jackson Talks To Oprah
  11. Jordy Chandler
  12. King of Pop News:Michael Jackson
  13. 1993 boy Jordy Chandler accuses his father
  14. 記憶の中の悪魔──「悪魔教恐怖」論 吉永進一(58)参照
  15. (無題)「過誤記憶症候群」の項目参照
  16. Branch & Vine Publishers, LLC
  17. Jackson weeps as boy banned from his bed
  18. America faces the unthinkable as tide turns against Jackson
  19. Ex-Jacko Accuser in Court Against Dad
  20. Jordy Chandler terug in de rechtzaal
  21. Jacko accuser back in court
  22. Jacksons boy accuses dad
  23. The Smoking Gun
  24. King Of Pop
  25. Michael Dialy
  26. Mother of Michael Jackson's accuser admits lying under oath in other civil suit
  27. Michael Jackson Trial: "I'm telling you there was only a leg wax"
  28. Micael Jackson News
  29. Defense witness: I saw Michael Jackson's accuser in his wine cellar
  30. Jackson Witnesses Say Family Wasn’t Held
  31. メールマガジン ハッタリEnglish バックナンバー
  32. Jay Leno Bombs On Stage
  33. Michael Jackson Found Not Guilty Of All Ten Counts
  34. Jackson boy defends abuse denial
  35. Michael Jackson never molested us, young men say
  36. Tapes reveal virgin star's 'lust'
  37. Culkin Denies Abuse
  38. Jackson found not guilty on all counts
  39. Michael Jackson Cleared of All Charges
  40. Showbiz Tonight for August 23, 2005, CNNHN
  41. Michael Jackson cleared of abuse
  42. "Jackson Accuser's Mom Hit With Fraud Rap" .
  43. "Showbiz Tonight for August 23, 2005, CNNHN" .
  44. 性的虐待でマイケル・ジャクソンを告訴した少年母に有罪判決
  45. Pedophilia vs Molestation
  46. エホバの証人の性的虐待に関するニューヨークタイムズの記事

[編集] 外部リンク

マイケル・ジャクソン有罪派に対する批判サイト。
マイケル・ジャクソン裁判の記事。2005年5月の初めあたりから急激にマイケル支持の証言が増加しているのが分かる。
ジャクソン・ファミリー
両親
ジョセフ・ジャクソン-キャサリン・ジャクソン
子供
リビー・ジャクソン - ジャッキー・ジャクソン - ティト・ジャクソン - ジャーメイン・ジャクソン - ラトーヤ・ジャクソン - マーロン・ジャクソン - マイケル・ジャクソン - ランディ・ジャクソン - ジャネット・ジャクソン
THIS WEB:

aa - ab - af - ak - als - am - an - ang - ar - arc - as - ast - av - ay - az - ba - bar - bat_smg - be - bg - bh - bi - bm - bn - bo - bpy - br - bs - bug - bxr - ca - cbk_zam - cdo - ce - ceb - ch - cho - chr - chy - closed_zh_tw - co - cr - cs - csb - cu - cv - cy - da - de - diq - dv - dz - ee - el - eml - en - eo - es - et - eu - fa - ff - fi - fiu_vro - fj - fo - fr - frp - fur - fy - ga - gd - gl - glk - gn - got - gu - gv - ha - haw - he - hi - ho - hr - hsb - ht - hu - hy - hz - ia - id - ie - ig - ii - ik - ilo - io - is - it - iu - ja - jbo - jv - ka - kg - ki - kj - kk - kl - km - kn - ko - kr - ks - ksh - ku - kv - kw - ky - la - lad - lb - lbe - lg - li - lij - lmo - ln - lo - lt - lv - map_bms - mg - mh - mi - mk - ml - mn - mo - mr - ms - mt - mus - my - mzn - na - nah - nap - nds - nds_nl - ne - new - ng - nl - nn - no - nov - nrm - nv - ny - oc - om - or - os - pa - pag - pam - pap - pdc - pi - pih - pl - pms - ps - pt - qu - rm - rmy - rn - ro - roa_rup - roa_tara - ru - ru_sib - rw - sa - sc - scn - sco - sd - se - searchcom - sg - sh - si - simple - sk - sl - sm - sn - so - sq - sr - ss - st - su - sv - sw - ta - te - test - tet - tg - th - ti - tk - tl - tlh - tn - to - tokipona - tpi - tr - ts - tt - tum - tw - ty - udm - ug - uk - ur - uz - ve - vec - vi - vls - vo - wa - war - wo - wuu - xal - xh - yi - yo - za - zea - zh - zh_classical - zh_min_nan - zh_yue - zu

Static Wikipedia 2008 (no images)

aa - ab - af - ak - als - am - an - ang - ar - arc - as - ast - av - ay - az - ba - bar - bat_smg - bcl - be - be_x_old - bg - bh - bi - bm - bn - bo - bpy - br - bs - bug - bxr - ca - cbk_zam - cdo - ce - ceb - ch - cho - chr - chy - co - cr - crh - cs - csb - cu - cv - cy - da - de - diq - dsb - dv - dz - ee - el - eml - en - eo - es - et - eu - ext - fa - ff - fi - fiu_vro - fj - fo - fr - frp - fur - fy - ga - gan - gd - gl - glk - gn - got - gu - gv - ha - hak - haw - he - hi - hif - ho - hr - hsb - ht - hu - hy - hz - ia - id - ie - ig - ii - ik - ilo - io - is - it - iu - ja - jbo - jv - ka - kaa - kab - kg - ki - kj - kk - kl - km - kn - ko - kr - ks - ksh - ku - kv - kw - ky - la - lad - lb - lbe - lg - li - lij - lmo - ln - lo - lt - lv - map_bms - mdf - mg - mh - mi - mk - ml - mn - mo - mr - mt - mus - my - myv - mzn - na - nah - nap - nds - nds_nl - ne - new - ng - nl - nn - no - nov - nrm - nv - ny - oc - om - or - os - pa - pag - pam - pap - pdc - pi - pih - pl - pms - ps - pt - qu - quality - rm - rmy - rn - ro - roa_rup - roa_tara - ru - rw - sa - sah - sc - scn - sco - sd - se - sg - sh - si - simple - sk - sl - sm - sn - so - sr - srn - ss - st - stq - su - sv - sw - szl - ta - te - tet - tg - th - ti - tk - tl - tlh - tn - to - tpi - tr - ts - tt - tum - tw - ty - udm - ug - uk - ur - uz - ve - vec - vi - vls - vo - wa - war - wo - wuu - xal - xh - yi - yo - za - zea - zh - zh_classical - zh_min_nan - zh_yue - zu -

Static Wikipedia 2007:

aa - ab - af - ak - als - am - an - ang - ar - arc - as - ast - av - ay - az - ba - bar - bat_smg - be - bg - bh - bi - bm - bn - bo - bpy - br - bs - bug - bxr - ca - cbk_zam - cdo - ce - ceb - ch - cho - chr - chy - closed_zh_tw - co - cr - cs - csb - cu - cv - cy - da - de - diq - dv - dz - ee - el - eml - en - eo - es - et - eu - fa - ff - fi - fiu_vro - fj - fo - fr - frp - fur - fy - ga - gd - gl - glk - gn - got - gu - gv - ha - haw - he - hi - ho - hr - hsb - ht - hu - hy - hz - ia - id - ie - ig - ii - ik - ilo - io - is - it - iu - ja - jbo - jv - ka - kg - ki - kj - kk - kl - km - kn - ko - kr - ks - ksh - ku - kv - kw - ky - la - lad - lb - lbe - lg - li - lij - lmo - ln - lo - lt - lv - map_bms - mg - mh - mi - mk - ml - mn - mo - mr - ms - mt - mus - my - mzn - na - nah - nap - nds - nds_nl - ne - new - ng - nl - nn - no - nov - nrm - nv - ny - oc - om - or - os - pa - pag - pam - pap - pdc - pi - pih - pl - pms - ps - pt - qu - rm - rmy - rn - ro - roa_rup - roa_tara - ru - ru_sib - rw - sa - sc - scn - sco - sd - se - searchcom - sg - sh - si - simple - sk - sl - sm - sn - so - sq - sr - ss - st - su - sv - sw - ta - te - test - tet - tg - th - ti - tk - tl - tlh - tn - to - tokipona - tpi - tr - ts - tt - tum - tw - ty - udm - ug - uk - ur - uz - ve - vec - vi - vls - vo - wa - war - wo - wuu - xal - xh - yi - yo - za - zea - zh - zh_classical - zh_min_nan - zh_yue - zu

Static Wikipedia 2006:

aa - ab - af - ak - als - am - an - ang - ar - arc - as - ast - av - ay - az - ba - bar - bat_smg - be - bg - bh - bi - bm - bn - bo - bpy - br - bs - bug - bxr - ca - cbk_zam - cdo - ce - ceb - ch - cho - chr - chy - closed_zh_tw - co - cr - cs - csb - cu - cv - cy - da - de - diq - dv - dz - ee - el - eml - en - eo - es - et - eu - fa - ff - fi - fiu_vro - fj - fo - fr - frp - fur - fy - ga - gd - gl - glk - gn - got - gu - gv - ha - haw - he - hi - ho - hr - hsb - ht - hu - hy - hz - ia - id - ie - ig - ii - ik - ilo - io - is - it - iu - ja - jbo - jv - ka - kg - ki - kj - kk - kl - km - kn - ko - kr - ks - ksh - ku - kv - kw - ky - la - lad - lb - lbe - lg - li - lij - lmo - ln - lo - lt - lv - map_bms - mg - mh - mi - mk - ml - mn - mo - mr - ms - mt - mus - my - mzn - na - nah - nap - nds - nds_nl - ne - new - ng - nl - nn - no - nov - nrm - nv - ny - oc - om - or - os - pa - pag - pam - pap - pdc - pi - pih - pl - pms - ps - pt - qu - rm - rmy - rn - ro - roa_rup - roa_tara - ru - ru_sib - rw - sa - sc - scn - sco - sd - se - searchcom - sg - sh - si - simple - sk - sl - sm - sn - so - sq - sr - ss - st - su - sv - sw - ta - te - test - tet - tg - th - ti - tk - tl - tlh - tn - to - tokipona - tpi - tr - ts - tt - tum - tw - ty - udm - ug - uk - ur - uz - ve - vec - vi - vls - vo - wa - war - wo - wuu - xal - xh - yi - yo - za - zea - zh - zh_classical - zh_min_nan - zh_yue - zu