ジョン・レノン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・レノン MBE(本名:出生時ジョン・ウィンストン・レノン/John Winston Lennon MBE、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノン/John Winston Ono Lennon, 1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、ミュージシャン(歌手、作詞・作曲家、ギタリスト)。イギリス・リヴァプール生まれ。ロックバンド、ザ・ビートルズの中心メンバーであった。オノ・ヨーコとの結婚を機に、ミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記されている。
ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと作曲タッグを組み数多くの名曲を残した。ビートルズ解散後は「イマジン」などの名曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。
1980年12月8日、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害された。
目次 |
[編集] 生い立ち
ナチス・ドイツによる空襲下のリバプールで産声を上げる。生まれた時、商船隊員であった父親アルフレッドは航海中で不在、母親ジュリアもジョン・ダイキンズという男と暮らしていたため、ジョンはメンローブアベニュー251番に暮らすジュリアの姉ミミ夫婦のもとで育てられた。5歳の時に突然父が姿を現しジョンを引き取ろうとするが、「父さんと母さんとどちらを選ぶ?」という父親の問いかけに、ジョンは母親を選んだ。
クオリー・バンク中学に入学したジョンは、札付きの不良でケンカばかりしていたが、ある日エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家を行き来するようになる。ジュリアはジョンにバンジョーの演奏法を手ほどきし音楽への関心を向けさせることとなった。
しかし1958年7月15日、ジュリアは非番の警官が飲酒運転する車にはねられ死去。ジョンは母親を失ってしまう。ジュリアの死はジョンの後の歌に大きな影響を与え、また14歳の時に母親を乳癌で失っていたポール・マッカートニーとの友情を固める要因にもなった。ジョンは1968年の『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム)に、母親への敬意を表した「ジュリア」を収録しているほか、ソロでも母をテーマに「マザー」などの楽曲を発表している。ジョンの辛辣な性格は、このような孤独な幼年期、少年期を過ごしたからだといわれている。
クオリー・バンク高校時代、ジョンはビートルズの前身になるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成する。バンド名は校歌の歌詞にちなむ。1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会でのクオリーメンのコンサートで、アイバン・ボーンの紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。
伯母のミミはジョンをリヴァプール・アート・カレッジに入学させた。ジョンが最初の妻となるシンシア・パウエルと出会ったのは同校在学中のことであった。しかし同年の若者同様にエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、バディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になり、勉学はどんどんおろそかになっていく。通信簿に載せられた成績はのきなみ最低レベルという青年だった。
1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入。ジョン、ポール、ジョージ以外のバンドメンバーは流動的で3人だけの時もあった。その後リヴァプール・アート・カレッジの友人スチュアート・サトクリフ、カスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがメンバーに加わり、バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」などいくつかの名前を経て「ザ・シルバー・ビートルズ」と名乗るようになり、最終的に「ザ・ビートルズ」となる。
サトクリフは画家になるため脱退、ベストに変わってリンゴ・スターが加わり、1962年、「The Beatles」としてデビューを果たす。
[編集] ビートルズとして
1960年代、レノンはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルをそれまでの限界を越えて発展させた。ポール・マッカートニーと並び、20世紀において最も影響力のあったシンガー・ソングライターであり、ミュージシャンであると広く認知されている。
レノンが単独で、または中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。レノンのこうした作風とマッカートニーの全体として楽天的でポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしている。
レノンとマッカートニーは一緒に曲を作るようになった時「レノン&マッカートニー」のチームとして曲を発表することを約束。これにより、どちらかが一人で作ったとしても(Lennon / McCartney)として発表される事になった。
[編集] キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューで彼は次の様な発言を行った。
「キリスト教は消えて無くなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やキリストよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト。そのどちらが先に無くなるかは分からない。キリストは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ。」
その発言はイギリスにおいてはほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったものの、その年の7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはレノンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にレノンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。
「僕がもし、“テレビがキリストより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがキリストより良くて偉大だとは話してないし、キリストを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ。」
[編集] レノンとオノ・ヨーコ
ジョン・レノンは1962年に最初の妻シンシア・パウエルと結婚した。彼女がレノンの子供を妊娠したためである。結婚はシンシアが一方的にジョンを愛するものであったいわれ、二人は1968年に離婚している。
シンシアとの間の息子、ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。ジョンは息子ジュリアンに対して冷淡であり、ジュリアンはむしろポールと親しかった。彼は後にこう語っている。「父さんが僕についてどんなふうに思っていたか、本当のところを知りたいと思ったことは無い。非常に嫌なことを言われたんだ。土曜日の夜にウィスキーのボトルを開けたせいでお前が生まれてきたんだ、とかね。これのいったいどこに愛なんてあるんだ。ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ。父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、僕と父さんの写真よりもはるかに多い。」(ちなみに、ジョンとシンシアが離婚した際、ポールがジュリアンを励ますために作った曲こそ、「ヘイ・ジュード」である。)
1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止しその活動に一つの区切りをつけた後、レノンは映画『How I Won The War』(当時の日本では上映されず、1993年にビデオで初めて発表された。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。また、その年にロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。二人は同年の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の録音期間中より、ヨーコの個展にレノンが出資するなどして交際を始めた。レノンは1968年2~4月のインドでの修行中も、シンシアを同行させていながら、ヨーコと密に文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたレノンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはレノンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。レノンにとってヨーコの存在は公的にも私的にも不可分となり、ビートルズのセッションにも影響を与えた。二人の密接な関係はグループの他メンバーとの摩擦を生じることも多く、後にヨーコはビートルズ解散の原因として不当に責められることともなった。
ビートルズとしての最後の二年間に彼は、多くの時間をヨーコと共にベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に費やした。1969年3月に彼らはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられたもの、反戦活動での重要人物として見なされるようになった。結婚後間もなくレノンはミドルネームのウィンストンを、妻との「単一性」を示すためにオノと変更した。
[編集] ソロ・キャリア
ビートルズ時代、レノンとオノは実験的・前衛的な、『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』『ウェディング・アルバム』の三枚のアルバムを発表。ポピュラー音楽としての彼の最初の『ソロ』アルバムは、ビートルズ解散に先立つ1969年にトロントで行われたエリック・クラプトン、クラウス・フォアマン、後にイエスのメンバーとなるドラマーのアランホワイトを含むプラスティック・オノ・バンドとのステージを収録した『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~(米10位、ゴールドディスク)』であった。さらに彼は三つのシングル『ギヴ・ピース・ア・チャンス』(英2位、西ドイツ4位、米11位)』『コールド・ターキー』(英13位)『インスタント・カーマ』(英4位、米3位(ビルボード、他1位)、カナダ1位、ゴールドディスク獲得)を発表した。
ビートルズ解散後の1970年には『ジョンの魂』(米6位、英9位、ゴールドディスク)を発表する。同作は、彼が以前に受けたアーサー・ヤノフ博士のプライマル療法の影響を大きく受け、彼の心情をもっとも率直に表した作品となった。シングル『マザー』ではレノンはピアノ単音によるハーモニクスに注目しておりエコーを効かせた録音を心がけている。またビートルズのリンゴ・スターがドラマーとして参加しシンプルなドラミングと乾いた感じの優れた演奏が印象的である。ビートルズの『レット・イット・ビー』に参加したビリー・プレストンも参加している。シングルでは『パワートゥーザピープル』(米8位、英7位、西ドイツ7位)を発表した。
これに続いて発表された作品が『イマジン』(アルバム米・英1位、西ドイツ10位、ゴールドディスク、シングル『イマジン』(米3位、英1位、西ドイツ7位、カナダ3位、オーストラリア1位、ニュージーランド1位)で、同作は彼の最も成功したアルバムとなった。タイトル・トラックの『イマジン』は世界の平和への賛歌として、『ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)』(英2位)とともに愛聴されている。この時期ジャズの大御所マイルス・デイビスとも交流があった。レノンはアルバム『イマジン (アルバム)』を、『ジョンの魂』と同じメッセージをオブラートに包んで表現した作品だと形容している。イマジンではビートルズのジョージ・ハリスン、アラン・ホワイト、サックスにキング・カーチスを採用している。ジョージはレノンから連絡をうけ非常に喜んで参加したことが伝えられる。さらに『イマジン (アルバム)』内の『ジェラスガイ』は1981年にロキシーミュージックによるカバーで英1位のヒットを記録している。
『ジョンの魂』に比べ比較的ポップな曲が多かった『イマジン (アルバム)』を発表したその反動からか、1972年発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(英11位)(オノ・ヨーコとの共作)はより政治的な内容の作品となった。このアルバムの中では、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランドの宗派同士による内争におけるイギリスの役割、およびアメリカ合衆国のグリーンカードにまつわる彼自身の問題などについて歌われている。レノンは1960年代後半以来左翼政治に興味を持っており、トロツキストの社会主義労働者党に寄付を与えていた。おそらくはこのアルバムのレコーディング期間が彼とこのグループの関係が最も強かった時期であるといわれている。1972年8月30日、レノンはバックバンドのエレファント・メモリーとともに2回の慈善コンサートをニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで行う。それは彼にとって最後の大規模なコンサート出演となり、ビートルズ時代の『come together』、スティービー・ワンダーとは『ギヴ・ピース・ア・チャンス』を競演した。
オノ・ヨーコとの別居中の1973年には『マインド・ゲームス』(アルバム米9位、ゴールドディスク、シングル米10位(キャッシュボックス誌)、カナダ5位)を発表した。この作品は彼のキャリアで初めてのセルフ・プロデュースとなった。この中ではゴードン・エドワーズ、マイケル・ブレッカー、トム・スコットなど後年グラミー賞を受賞するジャズミュージシャンを多数採用した。ポップスでは最初期といえるレゲエのリズムをシングル『マインド・ゲームス』に導入し、ベースの下降進行・分散和音的なアプローチのアレンジ、またジョージ・ハリスン風のスライドギターを多用する多重録音を駆使した優れたオーケストレーションを造り出している。ここからもレノンの優れた先見性、音楽性、アレンジャーとしての卓抜した才能が伺われる。
1974年には『心の壁、愛の橋』(米1位、英6位、ゴールドディスク)を発表しシングルカットされた『真夜中を突っ走れ』(米1位、カナダ4位)、『#9Dream』(米9位)を発表した。『真夜中を突っ走れ』『予期せぬ驚き』でエルトン・ジョンと共演したほかハリー・ニルソンとも『枯れた道』を共作している。一曲目の『愛を生きぬこう』ではビートルズの『Hapiness is a warm gun』以来の通作形式による複雑な楽曲構成に挑む一方、アルバム全体ではストリングス、ホーンも多用した厚い編曲を行い、『ブレス・ユー』などブラックコンテンポラリーの曲調が多いことは、これもマインド・ゲームス同様、アダルトコンテンポラリーミュージックの先駆となった。ほか『愛の不毛』など名曲が多い。またビートルズ時代の『Lucy in the sky with the diamond』をエルトン・ジョンと共演し、これによりエルトンは2枚目の米1位を獲得、彼のキャリアの確立にレノンは大きな助けをした。エルトンはレノンに私淑していたことが伝えられている(「他の多数のミュージシャンとは全く格が違う」とエルトンは後に語っている)。この後二人の交際は晩年まで続き、エルトンはレノンの息子ショーンの名付け親になっている。この時期にはさらにミックジャガーとも共演したが、それは未発表に終わっている(Don't ever changeとされる)。
同年には『ロックンロール』(米6位、英6位、ゴールドディスク)も発表した。この中ではレオンラッセルらと共演、エルトンジョンも参加している可能性がある。ここからはカバーの『スタンド・バイ・ミー]]』(米20位)のヒットが生まれた。この時期、デビッド・ボウイとの親交も深まり、彼の『ヤング・アメリカン』でビートルズ時代の『アクロスザユニバース』を共演、さらにカルロス・アロマー、ボウイと『フェイム』を共作し、コーラスに参加、米1位、英7位を獲得し、ボウイのキャリアの確立にも大きな助けをした。(『フェイム』は後に宮沢りえのカバーで日本のオリコンチャートで1位を獲得している。)ボウイとの交際も続き、1980年にボウイの出演した『エレファントマン』を観劇したことも伝えられている。このように1973年から75年にかけてはレノンは様々なアーティストと交流し、大ヒットを連発し音楽性を発展させた。しかしながら1976年リンゴのソロアルバム『ロートグラビア』にクッキンを提供した後突然音楽活動を休止した。
1980年に再活動をした際はオノ・ヨーコと『ダブル・ファンタジー』(米1位、英1位、西ドイツ2位、日本オリコン総合チャート1位、ゴールドディスク)を発表した。この中では後に再結成されたキング・クリムゾン、ピンク・フロイドでベーシストとして活躍するトニー・レビンを採用した。トニーは『ウーマン』などではビートルズ(ポール・マッカートニー)風になるように意識したといわれる(トニー談)。このアルバムからは『スターティング・オーバー』(米1位、英1位、カナダ1位、オーストラリア1位、ニュージーランド1位、西ドイツ4位)、『ウーマン』(米2位、英1位、カナダ1位、西ドイツ4位)、『ウォッチング・ザ・ホイールズ』(米10位)などの大ヒット曲が生まれアルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。また同アルバムは1981年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を獲得し、オノ・ヨーコが授賞式に参加、謝辞を述べた。 1984年にはダブル・ファンタジー』の続編としてアルバム『ミルク・アンド・ハニー』(米11位、英3位、日本オリコン総合チャート1位(ちなみに2位は五輪まゆみの『恋人よ』)を発表、シングルは『ノーバディー・トールド・ミー』(英2位、米5位、カナダ5位)を発表した。またベストアルバム『ジョンレノン・コレクション』が1982年に発表され英国で1位を獲得した。以上のようにレノンのソロキャリアも数々の大ヒット曲、受賞歴に彩られているが、それ以上に彼の卓見した音楽性(レゲエ、ブラックコンテンポラリー、アダルトコンテンポラリーの導入)、共演したさまざまな分野のmusicianのキャリアアップが目を引く。しかし下記にあるようになによりもポール・マッカートニーの楽曲をよく研究しており解散後もやはり『レノン・マッカートニー』が健在していたといってもよいかもしれない。
[編集] ポール・マッカートニーとの関係
ビートルズ後期及び解散後におけるマッカートニーとの確執が、二人の関係を語る上で頻繁に取り沙汰されるが、これは当人たちよりむしろマスコミやファンがそれを面白がり、煽っていた節もある。確かにビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあうなど深い確執が存在したが、70年代中頃になると、互いを賞賛しあう発言やビートルズ再結成の可能性を肯定するような発言がみられるようになり、マッカートニーが自らのバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。1974年にはスティービー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。
レノンは常に「マッカートニーは『兄弟』であり、彼との確執は『兄弟ゲンカ』みたいなもので他人が干渉してくる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていた。マッカートニーを卑下する発言をするものに対しては「同じ悪口でも兄弟が言うのと赤の他人が言うのとは訳が違う。おまえたちにあいつの何が分かる?」と批判的な姿勢を見せ、レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書のメイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「俺が認めたパートナーはマッカートニーとヨーコだけだ」とも発言している。
ビートルズ解散後レノンとマッカートニーが揃って公の場に姿を見せることは一度もなかったが、息子ショーン誕生後5年間に渡って音楽活動を停止していた間も時折マッカートニーはレノンを訪ねたり、1980年のマッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」が、レノンに音楽活動を再開させるきっかけになるなど、常にいい意味で刺激しあう仲であったといえよう。
[編集] 殺害
1980年12月8日の午前中、自宅ダコタ・アパートでレノンはニューアルバム用のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、まるでビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のレノンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルグ時代のレノンを彷彿とさせるもので、レノンなりに初心に返って新たな人生を始めようとしているようでもあった。
フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、午後5時にはオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「The Hit Factory」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイ・ホノルル出身の精神疾患を患ったファン、マーク・チャップマンが待ち構えていた。彼は以前ボブ・ディランに対するストーキング行為に及んだこともあり、レノンにとって最後の生演奏となった1975年のスタジオ・ライヴでは観客席にその姿を見せている。
チャップマンはこの時、レノンのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出し、レノンにサインを貰った。この様子をカメラマンが撮影し、レノンの生前最後の写真は皮肉にも、数時間後に自らの生命を奪うことになる殺人犯とのツーショットになってしまった。
チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・アパートの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたショーンとも握手をしている。
一方、レノン夫妻は「The Hit Factory」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューの中で、レノンは新作や近況についてはおろか、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、懐かしそうに語っている。そして皮肉なことに、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。なお、このインタビューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。
その後、チャップマンはレノンの帰宅を待つためにその場にとどまった。そして午後九時頃、セントラル・パークで行われた花火大会でドアマンや通りにいた人々がいなくなったのを見計らい、アパートの前庭に忍び込んだ。午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、チャップマンは前庭に隠れ、レノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると、銃を手に取り前に進み、両手で構え5発を発射した。4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた、撃たれた」と叫びアパートの入り口に(チャップマンが撃った銃弾は、特殊な弾で、命中時に備え体内で弾が破裂する仕組みになっている。(それが破裂したかは分からないが)それでもジョンは)数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
レノンが狙撃された時間の、同現場の裏の通りに、偶然キース・リチャーズがいた。彼はリボルバーを握り締めて狙撃犯を成敗しようとしたが、周りの人間に止められたという。ただ、別のインタビューではその時5番街のダウンタウンに居たと語っており、狙撃犯を成敗しようとしたとは言っていない。前出のインタビューは、それだけ怒りを覚えたということをキースなりに表現したものとも思われる。
警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため、あなたは誰かと尋ねると彼は「僕はビートルズのジョン・レノンだ」と答えたという。病院到着後医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の八割の血液を失い、失血性ショックで午後11時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後チャップマンは現場から逃亡せずに、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。ニューヨークWABCのリポーターはチャップマンを取り調べた警官の談話を聞いた。警官は「すごくこともなげにしていた。」と語った。もう一人の警官はチャップマンを「田舎のイカれた奴」と語った。
病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは泣き叫んだという。後に病院で記者会見が行われ、ステファン・リン博士はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
ジョンの射殺に関しては、当初、ケネディ大統領の暗殺と同様のケースという主張や、「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、冒頭の記述のように、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノや息子ショーン、先妻との息子ジュリアンはそれを信用していないといわれている)。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道と共に様々な憶測も飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状もあり、「熱烈なファン」という説明自体も疑問視されている。
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。マッカートニーの第一声は「くだらない」~It's a drag であり、この発言に対しては批判もあった。後に彼は音楽誌のインタビューでこの発言の真意について、以下のように述べている。「うまい政治家ってたしかに頭の中に警報ボックスが埋め込んであって、何か言う前にそれを通してみて、発言が新聞の見出しになったさまが思い浮かべられるんだろうな。どうもパッとしないなと思えばうまく編集して喋れたりして。僕もたまにはそういうことができることもあるけどね、ああいう瞬間には僕の警報ボックスは窓の外に飛んでっちまうんだ。家にいてTVのニュースをただ見てるなんて、僕は厭だった。ジョージ・マーティンが電話してきてセッションをキャンセルしたいかって言うんで、僕は『まさか。今日は一日中、働いてなきゃ』って言った。僕らはとにかく仕事を続けたわけだけど、みんな全く悪意なく冗談言うんだよね。『来週はビデオだ、よーし一発いくぞ』とか。一発いく、なんて聞いた途端に『ああーっ』だよ。ロを開くごとに、『一発』だとか『やられた』だとか、そういったとんでもない言葉を言ってしまうみたいでさ。遂に『だめだ、家に帰ろう。今日はもう仕事はなしだ』って思った。で、スタジオを出た途端に誰かが車の窓からマイクを突っ込んできて、それを僕は不覚にもつかんで…だって僕はそんなに内気な人間でもないし、ファンにむかって『どうもありがとう、僕は大丈夫だよ』って言うつもりだったんだ。でもともあれ、口から出た言葉は『ああ、くだらない』だった」。
事件を境に、マッカートニーとジョージ・ハリスンはレコーディング作業を中断し、マッカートニーに至ってはこれをきっかけに自らのバンド「ウイングス」を解散してしまうことになる。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。その後、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲として発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。前述のように偶然現場近くに居合わせ、犯人を狙撃しようとしたローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズに至っては「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみがうすれる事は無く増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。
日本ではザ・ビートルズ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。
[編集] エピソード
- 1966年後半から着用し、その後のレノンのトレードマークとなった「丸眼鏡」は、実はレノンが購入したものではなくイギリスの国民健康保険制度により無料で支給されたものであった。1967年に入りレノンがこの丸眼鏡をかけて公の場に姿を現し出すと、イギリスの若者の間でこの眼鏡が爆発的に流行。視力に支障がない若者までがこの眼鏡をこぞって手に入れようとしたため在庫がなくなり、政府は眼鏡の形を変更した。
- レノンがヨーコと知り合ってから親密になるまでに数ヶ月、交際までには1年ほどの期間があったが、その親密になるまでの数ヶ月間にヨーコはポール・マッカートニーと何度か個人的に会っている(恋愛感情とは無関係。ポールの2001年のインタビューより)。
- 現在でも若者たちに人気の、車のウインドウに貼り付ける「スモークフィルム」は、レノンが移動中のプライバシーを守るために1965年に自ら考案・発注し、自身のロールスロイスに貼り付けたのが最初である。このアイディアはその後有名人や著名人に次々に取り入れられ、現在はプライバシー保護のみならず、アクセサリーの一部として一般にも広く普及するに至った。レノンはこのスモークフィルムを自身のMINIにも貼っており、その映像や写真も残されている。また、日本・イギリス双方の道路交通法において、このスモークフィルムをフロントガラスに貼り付けることは違法になる場合があるが、これを警察に指導されたのもレノンが世界で最初である。
- 死後数年経ってから明らかにされたことであるが、1981年初頭にはレノン初のソロ・ツアーとなる日本公演が内密に予定されていた。そのコンサートのオープニング曲には、ニューシングル「スターティング・オーヴァー」ではなく、ビートルズ時代の大ヒット曲「ヘルプ!」が予定されていた。
- レノンは息子のショーン誕生後の70年代中期から後期にかけて毎年のように一家で夏の軽井沢を訪れ、有名な「万平ホテル」や小野家が所有する別荘を常宿に数ヶ月も滞在していた。ボディーガードもつけず、短パンにトレーニングシャツといったラフな格好でサイクリングや散歩を楽しみ、気軽に地元のパン屋を訪れて買い物をするなど、世紀の大スターらしからぬ庶民的で質素な振る舞いは、地元住民に大変な好意をもって迎え入れられた。また、上野動物園や豊島園などへ子供連れで訪れたり、日本橋のデパートで買い物をする場面などを非常に多くの日本人に目撃されている。神楽坂にも訪れ、たつみやでうな重を食べた。なお、日本人はまずヨーコに気付き、よってその横にいる「外国人の男性」がレノンだと分かることが多く、レノン単独では殆ど分からなかったと言われている。そんなレノンを偲んで、さいたま市・さいたまスーパーアリーナにある「ジョン・レノン・ミュージアム」には、2006年3月末まで万平ホテルが喫茶店を出店していた。
- 生前、内田裕也・樹木希林夫妻や永六輔、映画監督の大島渚、写真家の篠山紀信とも親交があり、来日時にはよく一緒に食事をしていた(篠山紀信はレノンのラスト・アルバム「ダブル・ファンタジー」のジャケット写真を撮影。そして大島渚は、レノン主演による映画撮影の構想を持っていた)。
- 息子ショーンとレノンは、同じ誕生日(10月9日)である。
- 1971年の作品「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」をはじめ、辛辣にポール・マッカートニーを非難することもしばしばであったが、ビートルズのレコードや他のメンバーのソロ・アルバムはほとんど持っていなかったレノンが、ポールとウイングスのレコードだけはほとんどを揃え、よく聴いていたと言われている。
- 2002年にBBC が行った、「歴史上最も偉大な英国人100人」を選ぶ世論調査において、8位に選ばれた。
- ショーンとは対照的にシンシアとの子供ジュリアンには全然、愛情示さなかった。ジュリアンはポールとの思い出が多いと言っているそうだ。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] オリジナル・アルバム
- 未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ - Unfinished Music No. 1: Two Virgins (1968)
- 未完成作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ - Unfinished Music No. 2: Life With The Lions (1969)
- ウェディング・アルバム - Wedding Album (1969)
- ジョンの魂 - John Lennon/Plastic Ono Band (1970)
- イマジン - Imagine (1971)
- サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ - Sometime In New York City (with Yoko Ono) (1972)
- マインド・ゲームス - Mind Games (1973)
- 心の壁、愛の橋 - Walls And Bridges (1974)
- ロックン・ロール - Rock 'n' Roll (1975)
- ダブル・ファンタジー - Double Fantasy (with Yoko Ono) (1980)
- ミルク・アンド・ハニー - Milk And Honey (with Yoko Ono) (1984)
[編集] ベスト盤
- ジョン・レノンの軌跡 シェイヴド・フィッシュ - Shaved Fish (1975) 鰹節も参照。
- ジョン・レノン・コレクション - John Lennon Collection (1982)
- イマジン(オリジナル・サウンドトラック) - Imagine: John Lennon (1988)
- レノン・レジェンド~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン Lennon Legend (1997)
- 決定盤ジョン・レノン~ワーキング・クラス・ヒーロー - Working Class Hero (2005)
[編集] ライブ盤および未発表音源集
- 平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント - Live Peace In Toronto (1969)
- ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ - Live In New York City (1986)
- メンローヴ・アヴェニュー - Menlove Avenue (1986)
- ジョン・レノン・アンソロジー - Anthology (1998)
- ウォンサポナタイム - Wonsaponatime (1998)
[編集] 映像作品
- イマジン - 1988年 : VHS & LD
- ギミ・サム・トゥルース - 1998年 : VHS & DVD
- ライヴ・ピース・イン・トロント1969 -1999年 : DVD
- レノン・レジェンド - 2003年 : DVD
[編集] 主な使用楽器
[編集] アコースティック・ギター
- ギブソン・J-160E(Gibson J-160E)(1本目)
- 1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・アコースティック・ギター。ボディカラーはサンバースト。ボディシェイプはJ-45と同じだが、ボディ内部の構造からして異なる。ボディトップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが押さえられている。P-90ピックアップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。そのためアンプに繋いだ場合、エレクトリックギターの様なサウンドになり生音とはだいぶ異なる。1963年末に消失。盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと思っているが、後に語ったジョージの証言によると運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになったとのこと。ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアルナンバーから判明。まったく同じ仕様であるため、途中から互いのギターを取り違えて使っていたようである。
- ギブソン・J-160E(Gibson J-160E)(2本目)
- 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。生涯愛したギターで、ベッドインのときにはボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。ジョン・レノン・ミュージアムにそのときの状態のレプリカが展示されている。
- ギブソン・J-200
- フラマス・12弦ギター
- 映画『HELP! 四人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
- マーティン・D-28(Martin D-28)
[編集] エレクトリック・ギター
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
- ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ネックはショートタイプ。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・バイブローターが付けられていた(後にビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、エド・サリバン・ショーの収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。70年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。
現在は2本目とともにさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に展示されている。
- また、近年リッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギターショップ「with」でリペアを担当する大金氏に依頼し、ジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
- ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた2本目のリッケンバッカー。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。1本目の325よりもボディの厚みは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームが付いているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまいネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ~」レコーディングセッション中スタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
- 現在は1本目のリッケンバッカー・325とともにさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョンレノン・ミュージアム」に展示されている。裏から見るとネック裏のキズがはっきり見て取れる。またビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
- 1965年、ポール・マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じてプレゼントされたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
- リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
- ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。
- 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アーム付きであるが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームが付いていないにもかかわらず325-12となっているが、'64年半ば頃より末尾に5が付くモデルはアーム付きであることが徹底されたため320-12と改番された。
- 現在オノ・ヨーコが所有。
- ボディカラーはソニックブルー。主に「ラバー・ソウル」レコーディング・セッションで、ヴォックスAC-30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデルが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
- 1965年に、以前から同機を使用していたポール・マッカートニーの勧めでジョージ・ハリスンとともに購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の「ラバー・ソウル」セッションから使い始め、1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。ES-335と同じシェイプのためセミアコと思われがちだがセンターブロックの無いフルアコである。
- 元々のボディカラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ~」レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。ハレーションをおこし光の具合で白く見えている、という説を唱える者もいるが、ジョン自ら裏面を見せている写真をはじめ、当時の複数の写真で白くなっているのがはっきり確認できる。おそらくそれはサイケデリック・ペイントを施すための下塗りで、裏面の段階で思いとどまったものと思われる。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装を剥がして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする(この頃ビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している)。同時に、リアピックアップのトーンノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後1971年の「イマジン」レコーディング・セッションまで使用した。その後、コレクションとして大切に保管していた。
- 現在はさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に、ブラックノブと共に展示されている。
- ギブソン・レス・ポール・ジュニア
- 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンはボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同モデルを使用していたため、それに倣って入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける趣向が窺える。フロントにギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、何と言っても1972年8月30日にNYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたチャリティ・コンサート『ワン・トゥ・ワン』での使用が最も印象的。
- 現在はさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に展示されている。
[編集] アンプ
- ヴォックス・AC-30(VOX AC-30)
- ビートルズデビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。これこそ初期ビートルズサウンドの大きな要素である。ライブでも使用される事はあったが出力が低いため、ライブには向かなかった。
- ヴォックス・AC-50(VOX AC-50)
- ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC-100, VOX AC-200)
- ライブにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC-30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライブのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ボリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC-100を使用。現在は生産停止。
- フェンダー・ツイン・リバーヴ(Fender Twin Reverb)
- 主にビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライブや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。低域もでるのでベース用として代用できるほど性能が高い。パンクバンドもよく使っている。
[編集] その他
- ホーナー・ブルース・ハープ(Hohner Blues Harp)(10穴ハーモニカ)
- ホーナー・マリンバンドと言われる事があるがレノンが所有していたのはブルース・ハープ。
- (レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われた時、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている)
[編集] 関連項目
- ビートルズ
- オノ・ヨーコ
- ジュリアン・レノン
- ショーン・レノン
- ジョージ・マーティン
- フィル・スペクター
- プラスティック・オノ・バンド
- Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ
- en:John Lennon
[編集] 外部リンク
- Official John Lennon website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
- Official "Definitive Lennon" Website
- BBC Lennon Site
- ジョン・レノン・ミュージアム
- John Lennon fan site
- The Liverpool Lennons website
- Bruderhof Peacemakers Guide profile on John Lennon
- John Lennon Dreamsite Celebrates Lennon's ideals of peace, love and freedom. Offers pictures from the Imagine Your Are exhibit at Galleria Nazionale d’Arte Moderna in Rome by Fiorella Dorotea Gentile
- John Lennon lyrics
- Ref. to deed poll name change.
- "Man of the Decade" interview transcript
- "Power to the People: The Lost John Lennon Interview" by Tariq Ali and Robin Blackburn
- "Two of Us" The VH1 film about the Lennon-McCartney reunion
- Radio Dial Scan of the night Lennon died
ビートルズ | |
---|---|
メンバー: | ジョン・レノン - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン - リンゴ・スター |
前メンバー: | ピート・ベスト - スチュアート・サトクリフ |
プロデューサー: | ジョージ・マーティン - フィル・スペクター - ジェフ・リン |
関連人物: | ブライアン・エプスタイン - クラウス・フォアマン - ビリー・プレストン - オノ・ヨーコ - リンダ・マッカートニー |
スタジオ & レーベル: | アビー・ロード・スタジオ - EMI - キャピトル・レコード - アップル・レコード |
カテゴリ: ジョン・レノン | イギリスのミュージシャン | イギリスのギタリスト | ロックの殿堂 | 1940年生 | 1980年没