ピアノ協奏曲第3番 (バルトーク)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
バルトーク・ベーラのピアノ協奏曲第3番(Sz. 119)は、1945年に、作曲者の亡命先であるアメリカ合衆国で作曲された。
目次 |
[編集] 特徴
全体的に安定した調性感が特徴的で、無調性や複調性はめったに現われない。渡米後のバルトーク作品の中で伝統回帰の性格がもっとも顕著であるために、かつてのブーレーズなどは「退嬰的である」として、録音・演奏しようとしなかった。しかしながら、亡命前のピアノ協奏曲と違って、本作は自分が弾くことを前提としていなかったこと、作曲にあたって、ロマン派音楽を好んだ当時の米国楽壇の趣味を計算していたこと、職人的な作曲技法に衰えが見られないことなどから、現在では本作品への評価が好転している。
[編集] 作曲
バルトークは1940年8月に、彼の楽譜を出版していたブージー&ホークス社のラルフ・ホークスに「あなたのアドバイスに従って、1941年の夏にはピアノ協奏曲第3番を書いてみようかと思う」との手紙を送っているが、亡命先のアメリカに馴染めなかったバルトークはその案をしばらく棚上げにしていた。
1945年の2月になって、彼はアメリカに来ていた次男ぺーテルへの手紙の中で、「母さんのために、計画が宙に浮いていたピアノ協奏曲を書こうと考えている」と着手する意志を表明しており、このころから作曲を始めたものと考えられている。作曲当時のバルトークは白血病の末期段階を迎えていたが、本人が自分の健康状態をどこまで自覚していたかどうかは判っていない。いずれにしても、この作品はすぐれたピアニストであるディッタ夫人(ディッタ・パーストリ=バルトーク)の誕生日に合わせた彼女へのプレゼント、そして先の息子への手紙にも明記されているように彼女のレパートリーとするために着手されたものと考えられている。
スケッチを完成させた夏頃から急速に健康の悪化したバルトークは、家族や知人のハンガリー人作曲家ティボール・シェルイらに手伝ってもらい必死にオーケストレーション作業を続けたが、完成まであとわずかというところに来て、同年9月26日に世を去った。このため、シェルイが終楽章の未完成部分(17小節相当)を補筆した。シェルイによれば、バルトークはスケッチや総譜にオーケストレーションの略記号指示を残しており、後に彼が補作することになったヴィオラ協奏曲に比べればはるかに容易な作業だったと言うことである(なお、現在の出版譜はぺーテルやゲオルグ・ショルティらがバルトークのスケッチを再検証し、エンディング部分を更に一部補筆している)。
初演は1946年2月8日に、バルトークのピアノの弟子で、彼がその腕前を高く評価していたジェルジ・シャーンドルの独奏と、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の共演によって行われた。なおバルトークがこの曲を送るつもりであったであろうディッタ夫人は、この曲を1960年代になるまで弾いていないが、それ以降は自身でも何度か録音も残している。ただし、1982年に亡くなるまで、コンサートでは弾かなかったと伝えられる。
[編集] 編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、打楽器類、弦楽5部。
[編集] 楽章構成
以下の3楽章からなる。
- Allegretto
- Adagio religioso
- Allegro vivace
第1楽章は伝統的なソナタ形式による。ホ長調。開始でピアノが、両手のユニゾンによって旋律を弾き始める。この手法はラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第3番》に似ている。
第2楽章はハ調、ただし教会旋法による。ベートーヴェンの《弦楽四重奏曲 第15番》の緩徐楽章に性格的に似ている。
フィナーレは伝統的なロンド形式で、《管弦楽のための協奏曲》のフィナーレと同じく、民族舞曲調である。