チベット自治区
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チベット自治区(―じちく、西蔵自治区(せいぞう-じちく)、チベット語:བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས་ (プー・ランキョン・ジョン)、ワイリー拡張方式: bod rang skyong ljongs)は、中華人民共和国がチベットの西南半分程度の面積をしめる「西蔵」地方に設けたチベット民族のための省級の民族区域自治単位。「プー」はチベットを意味するもっとも一般的なことば、「ランキョン」は「自治」、「ジョン」は「省級の区」に相当する行政単位。現在、五つある自治区の一つ。中国語の正式呼称は、西藏自治区。略称は蔵。区都はラサ市。
略称: 藏 (zàng) | |
首都 | ラサ |
面積 - 総計 - 水域(%) |
第2位 1,200,000km² xx% |
人口 - 計 - 人口密度 |
第32位 2,630,000人 2.2/km²人 |
行政種別 | 自治区 |
中国人民政府は、歴史的・文化的・経済的に一体性を保ってきたチベット人の居住地域をいくつかに分割、西藏、青海のほか、四川省の2州1県、甘粛省の1州1県、雲南省の1州などに州級、県級、郷級の民族区域自治単位を設けている。かつては西蔵の東方に、西康省の全域を領域とする西康省蔵族自治区が別に存在していたが、1955年にこの省が廃止され、自治州に格下げされて四川省に併合、現在のところ西蔵自治区がチベット民族のための唯一の省級の民族区域自治単位である。
西藏は、チベットの西南部2分の1程度の面積を占め、この民族の伝統的な政治的、経済的、文化的な中枢地帯であったヤルンツァンポ河流域をかかえ、最大のチベット人人口を擁し、チベット人の人口比率もきわめて高い地域である。
チベットの伝統的な地域区分では、ンガリ・ウー・ツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン・カム地方の西部などに相当し、中国政府はこれを拉薩市、山南地区、日喀則地区、那曲地区、阿里地区、林芝地区、昌都地区に区画している。
目次 |
[編集] チベットの枠組みをめぐる議論と「チベット自治区」という用語
「中国主権下での自治」に関する中国政府とチベット亡命政府の交渉においては、チベット全体の一体性の回復を要求する亡命政府側の要求を中国政府は拒否、チベットの範囲を西藏の部分のみに限定しようとする立場を取り、海外に対してもこのような観点に基づいた「チベット(Tibet)」の呼称の使用を行っている。 例えば、中国政府が日本語で出版する文献中の、西蔵部分のみを指す「チベット地方」という用語や、西蔵部分のみを領域とする自治区に対する「チベット自治区」などの用語は、中国政府の上記立場を忠実に反映した呼称である。
[編集] 中国による地方行政単位「西藏地方」の成立
中国に成立した政権、中国を征服し中国に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、クビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくは「チベット」の項を参照)。
雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海(アムド)地方において30の「旗」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省・四川省・雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。
グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。
[編集] 「西康地方」の成立から廃止まで
雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズパンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「省」の設置に取り組もうとした。
しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。
チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。 南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。
中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。 そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。
中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。
[編集] 西藏自治区の成立
チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「十七ヶ条協定」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治に当たり、「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では中国本土で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから、チベット社会の独自性を無視して一挙に強要されることとなった。
「改革」が、諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、むしろ歓迎されていたが、「改革」による攻撃の矛先が寺院・僧侶に向かった段階で、チベット人の反発は一挙に民衆レベルにまで拡大、1956年よりアムド・カムの全域で中国支配に反発する一斉蜂起が始まった。 1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、ただちに中国軍の強力な反撃が組織され、各地の蜂起軍は大量の難民とともに、西藏地方に逃れた。蜂起軍は西藏において統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。
争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ脱出。 中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、西藏地方を「西藏自治区籌備委員会」の管轄下に置く。
1966年、西藏自治区が発足。
[編集] 地理
自治区は北東部で新疆ウイグル自治区、北西部で青海省、東は四川省、東南部で雲南省と接し、南はミャンマー、インドアッサム州、ブータン、ネパール、カシミール地区と国境を接する。
青藏高原の中心をなすチベット高原は海抜 4,000メートル以上の大高原であり、「世界の屋根」と称される。高原南部のヒマラヤ山脈は急峻な山々が峰を連ね、ネパール国境にあるチョモランマ峰は海抜8848メートルに達する世界最高峰である。またチベット高原北部は中国で最も湖が多い地方である。
チベットの気候は冬が長く、夏がないが、日照は十分にある。空気が希薄なため、外来者は高山病にかかりやすい。高山病の対策は身体を徐々に慣らして行くことである(高度馴化)。
[編集] 略年表
チベット史全般についてはチベット参照。
- 1911年 辛亥革命、チベットにおける満州人の支配崩壊
- 1913年 ダライラマ13世、チベット独立宣言。モンゴルとチベット・モンゴル相互承認条約を締結
- 1933年 ダライラマ13世死去
- 1940年 ダライラマ14世即位
- 1949年 人民解放軍、チベット東部のチャムド占領
- 1951年 人民解放軍、ラサ進駐
- 1956年 アムド、カム地方で抗中蜂起が全面的に勃発。チベット動乱の始まり。
- 1957年 アムド、カムの抵抗勢力、抗中ゲリラの統一組織を結成、米国CIAの支援もうけ中央チベット(西蔵)でゲリラ活動。
- 1959年 動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及。3月17日ダライラマ14世亡命。中国国務院、「西蔵地方政府(ガンデンポタンのこと)」を「廃止」、西蔵の統治を「西蔵自治区籌備委員会」に委ねる
- 1965年 チベット自治区(西蔵自治区)人民政府成立
- 1965年 チベット自治区人民政府成立
- 1966年 紅衛兵ラサ進駐開始、文化大革命波及
- 1975年 ムスタンのチベット・ゲリラ基地閉鎖
- 1977年 中国、ダライラマの帰国呼びかけ
- 1983年 和平会談最終決裂
- 1986年 ラサなど対外開放、外国人の訪問可能となる
- 1988年 胡錦濤、自治区党委書記就任(~1992年)
- 1989年 亡命中のダライラマ14世、ノーベル平和賞受賞。「独立」にかわり「真の自治」を求めることで妥協をはかる ストラスブール提案を提示。
- 1998年 国連人権問題高等弁務官メアリー・ロビンソン、チベット訪問
[編集] 民族
2002年の人口267万人のうち、チベット族が93%を占め、漢族が6%でこれに次ぐ。残りは回族0.3%、モンパ族0.3%などわずかに過ぎない。
[編集] 経済
2002年の全区生産総額は161億人民元で、全国32省区市のうち32番目であった。ただ。一人当たり生産額は6,046元で、全国22番目である。チベット族の80%は農牧に従事しており、貧困地域が多いが、開放政策によりラサやシガツェ、ギャンツェなどに観光客が入るようになり、観光業の伸びが著しい。また2000年からチベット自治区でも国務院の西部大開発政策が実施され、青蔵鉄道や道路の建設などが加速している。2004年の全区輸出額は対前年比6.9%の13,008万米ドル、輸入は対前年比136%増の9,345万米ドルであった。また個人が辺境で行う零細な貿易も対前年比31%増の2億人民元に達したと報告されている。
ただ、中国全省の政府工作報告は2005年1月に行われた「2005年政府工作報告」までネットで閲覧できるのに、チベット自治区の政府工作報告は2003年までしか公表されておらず、極めて異例な事態となっている。今後の展開に注目したい。 大量の石油、天然ガスや鉱物資源の存在も確認されている。
[編集] 観光
首府ラサとシガツェ地区のシガツェ、ギャンツェは国務院により国家歴史文化名城に指定されている。ラサ市内のダライラマの冬宮であったポタラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に登録され、チベットで最も神聖な寺院であるジョカン(大昭寺)も2000年には拡大登録、さらに にはダライラマの夏宮であったノルブリンガも2001年拡大登録された。
[編集] 軍事
西部のガリ地区を除く自治区全域は成都軍区(王建民司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団 、第53山地旅団の存在が確認されている。新疆との関係が強いガリ地区は蘭州軍区が管轄する。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。
[編集] 教育
[編集] 交通
[編集] 行政区画
チベット自治区は1地級市及び6地区からなる。()内は首邑。
- ラサ市
- 市区:城関区
- 県:林周県(甘曲鎮)、達孜県(徳慶鎮)、尼木県(塔鎮)、当雄県(公塘郷)、曲水県(曲水鎮)、墨竹工卡県(工卡鎮)、堆竜徳慶県(東嘎鎮)
- 那曲地区
- 県:那曲県(那曲鎮)、嘉黎県(阿扎)、申扎県(申扎郷)、巴青県(拉西郷)、聶栄県(達宗郷聂栄村) ニマ県(文布郷)、比如県(比如郷)、索 県(亜拉鎮)、班戈県(普保郷)、安多県(宗恰郷扎那村)
- 昌都地区
- 県:昌都県(城関鎮)、芒康県(嘎托鎮)、貢覚県(莫洛鎮)、八宿県(白瑪鎮)、左貢県(旺達鎮)、辺壩県(草卡鎮)、洛隆県(孜托鎮)、江達県(江達鎮)、類鳥斉県(桑多鎮)、丁青県(丁青鎮)、察雅県(煙多鎮)
- 山南地区
- 乃東県(沢当鎮)、瓊結県(瓊結鎮)、措美県(措美鎮)、加査県(安饒鎮)、貢嘎県(吉雄鎮)、洛扎県(洛扎鎮)、曲松県(曲松鎮)、桑日県(桑日鎮)、扎囊県(扎塘鎮)、錯那県(錯那鎮)、隆子県(隆子鎮)、浪卡子県(浪卡子鎮)
- シガズェ地区
- 県級市:日喀則市
- 県:定結県(江嘎鎮)、薩迦県(薩迦鎮)、江孜県(江孜鎮)、拉孜県(曲下鎮)、定日県(協格尓鎮)、康馬県(康馬鎮)、聶拉木県(聶拉木鎮)、吉隆県(宗嘎鎮)、亜東県(下司馬鎮)、謝通門県(卡嘎鎮)、昂仁県(卡嘎郷)、岡巴県(岡巴鎮)、仲巴県(扎東郷)、薩嘎県(加加鎮)、仁布県(徳吉林鎮)、白朗県(洛江鎮)、南木林県(南木林鎮)
- 阿里地区
- 県:噶爾県(獅泉河鎮)、措勤県(措勤鎮)、普蘭県(普蘭鎮)、革吉県(革吉鎮)、日土県(日土鎮)、札達県(托林鎮)、改則県(改則鎮)
- 林芝地区
- 県:林芝県(林芝鎮)、墨脱県(墨脱鎮)、朗 県(朗鎮)、米林県(米林鎮)、察隅県(竹瓦根鎮)、波密県(扎木鎮)、工布江達県(工布江達鎮)
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
- チベット情報センター(中国語、英語)
- チベット亡命政府公式サイト(英語、チベット語、中国語)