雍正帝
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雍正帝(ようせいてい、康熙十七年(1678年) - 雍正十三年八月二十三日(1735年10月8日) 在位1722年 - 1735年)は清の第五代皇帝。諱は胤禛(いんしん)禛の字は示眞)、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。日本では在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。
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[編集] 即位
康熙帝の第四子として生まれ、45歳で即位する。この時の経緯には不明な点が多い。康熙帝には、寵愛する次男で皇后の子胤礽(いんじょう)がいて、2歳で皇太子となった。しかし、彼は遊び歩くだけではなく、賄賂を取って政治を歪め、さらには、康熙帝を亡きものにするクーデターにまで手を染めた。そこで、やむを得ず廃太子とした。皇太子のいないまま死の床についた康熙帝の遺詔を傍にいたロンコド(隆科多、康熙帝の皇后の弟)が聞いて、それを雍正帝に伝えたと言うことになっていたが、ロンコドと雍正帝が遺詔に十四子と書いていたのを十を取って捻じ曲げたと言う噂が絶えなかった(「伝位十四子(皇帝の位を十四皇子に伝えること)」の「十」の字に加筆して「伝位于四子(皇帝の位を四皇子に伝えること)」に書き換えたとも)。だが、そもそも詔書などと言った皇室の書類は満州文と漢文両方によって編纂することが多く、たとえ漢文版を変造できても、同じ手口で満州文版を変造することは不可能であり、よって、噂の信憑性は非常に低いといわれる。
この噂に対し雍正帝は恐怖政治で臨んだ。ロンコドを早々に誅殺し、相続を争いそうな皇弟廉親王允ソンを阿其那(あきな、犬)、允トウを塞思黒(さすへ、豚)と改名させて監禁し、至る所に密偵を潜り込ませた。更に独裁権確立を狙い、1732年に内閣を飛び越えて決裁を行う軍機処を創設し、閣臣達に口出しさせずに政治に当たった。
皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝はあらかじめ隠しておく勅書を死後に開いて、後継を決める方法を考案した。これを密勅立太子法(太子密建)と言う。それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、これを封じることができ、皇帝の専制君主の座が確立した。
[編集] 執務姿勢
[編集] 硃批奏摺
単なる恐怖政治家ではなく、雍正帝は史上まれに見る勤勉な皇帝だった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で朱砒(皇帝自身による朱い墨による諾否、その他の書き込み)を書き込み、一日の睡眠時間は四時間に満たなかったという。前記の密偵もただ監視をするだけではなく、地方官に業績の優れた者がいたらこれを褒賞した。
[編集] 質素・倹約
また、民衆の手本として自ら倹約に努め、書き物をする時に重要な物でなければ紙を裏返して使い、政治の最高機関である軍機処の建物もみすぼらしいバラックのような建物であった。さらに、地方官が手紙を皇帝に送るときに綾絹を用いると、なぜこんな無駄なことをするのかと言い、紙を使わせた。
[編集] 文字の獄
父康熙帝も行った文人弾圧を雍正帝も強く行い、何冊もの本が禁書となった。清王朝を批判する者には厳罰で臨んだ。1726年(雍正4年)、江西省で行われた科挙の初期段階の試験である郷試において、内閣学士で礼部侍郎(文部次官に相当)であった査嗣庭という試験官が、「詩経」の一節である「維民所止」という部分を出題した。これが、清王朝を批判するものだとして、査嗣庭は投獄され、病死した。死体は晒しものとされた。さらに、彼の息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けた。「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」になる。つまり、この一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いているという理由であった。
[編集] 奴隷解放
雍正帝は、山西の楽戸、浙江の九姓漁戸、安徽の世僕をそれまでの奴隷階級から開放した。この背景は、彼の仏教思想に由来するとする説がある。なぜなら、自ら円明居士と称し、『御選宝筏精華』という仏教関係の著作まであるからである。
[編集] 外征
十八世紀初頭以来のチベットの混乱に対し、康熙帝は危機に陥った朝貢国を救援するという立場から介入、ジュンガルの占領軍を撤退に追い込み、ダライラマ位をめぐる混乱を整理、グシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。しかし、グシ・ハン一族の内訌は深く、ハン位の継承候補者について合意に達することができず、康熙帝はラサン・ハンの死によって空位となったチベットのハン位を埋めることができぬまま没した。
雍正帝は、グシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性(グシ・ハン一族がジュンガルと組んで清朝と敵対した場合、アルタイ山脈から甘粛、四川、雲南にいたる長大なラインが前線と化す)などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転し、即位後ただちにグシ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、グシ・ハン一族を制圧した。雍正帝はグシ・ハン一族がカム地方の諸侯や七十九族と呼ばれたチベット系・モンゴル系の遊牧民たちに対して有していた支配権を接収、チベットをタンラ山脈からディチュ河の線で二分し、この線の北部は青海地方と甘粛、四川、雲南の諸省の間で分割、この線の南に位置する三十九族やカム地方西部は「ダライラマに賞給」し、その支配をガンデンポタンに委ねた。詳細は「雍正のチベット分割」を参照。
[編集] その死
1735年、働き続けた雍正帝は死去した。伝説によれば、かつて処罰した、呂留良の娘・呂四娘或いは、反乱を企てた罪で処刑された盧某の妻に殺害され、首を奪われた。故に、清西陵泰陵に埋葬された、雍正帝の首は黄金製の作り物であるとされているが、実際には先に挙げたワーカホリックとも言えるような働きぶりによる過労死であったようである。
尚、清皇室の離宮・円明園は、雍正帝が、親王時代に康熙帝から拝領した庭園をもとに造営されたものである。
[編集] 雍正帝の生涯の映像化
雍正帝の生涯を描いたものとして、44回連続テレビドラマ『雍正王朝』が知られる。出演:唐國強・焦晃・王絵春・王輝。
[編集] 参考図書
- 宮崎市定『雍正帝』(中公文庫、1996年)ISBN 4122026024
- 宮崎市定『中国文明の歴史9清帝国の繁栄』(中公文庫、2000年)ISBN 4122037379
- 増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 4061595261 - 『中国の歴史 第7巻 清帝国』(講談社、1974年)を改題、文庫化
- 陳舜臣『中国の歴史 六』(講談社文庫、1991年)ISBN 4061847872