PYG
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PYG(ピッグ)は、1971年に結成された日本のロックバンド。
「ザ・スパイダース」の井上堯之、大野克夫、「ザ・テンプターズ」の萩原健一、大口広司、「ザ・タイガース」岸部一徳、沢田研二で結成される。
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[編集] メンバー
- 沢田研二(さわだ けんじ、1948年6月25日-):ボーカル
- 萩原健一(はぎわら けんいち、1950年7月26日-):ボーカル
- 井上堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月5日-):ギター
- 大野克夫(おおの かつお、1939年9月12日-):オルガン
- 岸部一徳(きしべ いっとく、当時の芸名は「岸部修三 きしべ おさみ」1947年1月9日-):ベース
- 大口広司(おおぐち ひろし、1950年11月28日 - ):ドラムス(~1971年9月)
- 原田裕臣(はらだ ゆうじん、1944年2月14日 - ):ドラムス(1971年9月~)
[編集] 概要
「ジュリーとショーケン2大アイドルスターによるツインボーカル」というコンセプトは大きく話題となり、それなりにコンサートも盛り上がったものの、実際の客席においては、ジュリーファンとショーケンファンの熾烈な戦いが頻繁に勃発していた。また、日比谷野音をはじめ各種ロックフェスティバルにも出演したが、硬派なロックファンたちからは「GSの残党」「商業主義」と徹底的に嫌われ、空き缶やトマトが投げつけられる事も一度や二度ではなかった。
ベースの岸部一徳が作詞をしたデビュー曲「花・太陽・雨」は、商業的なヒットこそしなかったものの、哲学的な詞や印象的なサウンドで今でも名曲として名高く、「帰ってきたウルトラマン」の劇中歌にも採用されるなど、楽曲面でもとても影響力が高かった(シングルバージョンとアルバムバージョンの2種類が存在)。ヒット曲「自由に歩いて愛して」は、数々のアーティスト等がカバーしている。またライブでは「ブラック・ナイト」「アイ・ゴナ・リーヴ・ユー」「ギミー・シェルター」など、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、フリー、ローリング・ストーンズなどのハードロック志向の選曲を好んで演奏していた(2枚組ライブアルバム「FREE WITH PYG」で聴くことができる)。また、キング・クリムゾンの「エピタフ」など、プログレのレパートリーも演奏していた。
[編集] 来歴
ザ・タイガース解散後はソロシンガーとしての活動を目論む所属事務所の意に反し、沢田はバンドでの活動に固執する(※この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく)。このため、欧米で流行っていたスーパーバンドを模した形で、1971年1月11日、ザ・テンプターズのショーケンこと萩原健一(ヴォーカル)と大口広司(ドラム)、ザ・スパイダースの井上堯之(ギター)と大野克夫(キーボード)、それにザ・タイガースの岸部おさみ(ベース)と沢田(ヴォーカル)が参加してPYGを結成。井上堯之をリーダーとして、本格的ロック・バンドを目指すが、当時のロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、猛烈なバッシングを受ける。1971年3月に京都大学西部講堂で行われたロック・イベント 第1回 MOJO WEST でのデビュー・アクトでは、聴衆から猛烈なブーイングが起こり会場は混乱(※内田裕也が聴衆を説得し、収拾した)。4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバル でも、「帰れ」コールを浴びせられ、ステージに物が投げられるなどの騒ぎとなった。また、従来のGSファンからも、本格的ロックを志向するスーパーバンド PYG の存在は違和感をもたれ、会場でメンバーそれぞれのファンが反目することも珍しくなかった。こうして順風満帆とはいえない船出の中、4月10日にファースト・シングル「花・太陽・雨」(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、8月10日にファースト・アルバム「PYG!」を発売する。これらの作品も当時は正当な評価を受けられなかったが、後年、その音楽的価値を認められ再評価を得ることになる。
1971年11月1日、萩原健一+PYGのクレジットでサード・シングル「戻らない日々」(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之※ファースト・アルバムからのシングルカット)が発売された同日、沢田は初のソロ・シングル「君をのせて~ MY BOAT FOR YOU」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰※演奏はケニー・ウッドオーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム「JULIE II IN LONDON」発売。
1972年萩原健一主演のテレビドラマ「太陽にほえろ!」がヒットし萩原の俳優としての評価が高まると、萩原の音楽活動への参加が難しくなっていったため、バンドは徐々に、1969年にソロアルバム「ジュリー」を、1971年にはソロシングル「君をのせて」をすでに発売していた沢田研二をメインボーカルとし残りのメンバーを沢田のバックバンドと割り切った形態での活動が多くなる(「沢田研二と井上堯之グループ」名義等)。
またこの頃、ドラムが大口広司から「ミッキーカーチス&サムライ」原田祐臣に交替。萩原が参加できるときはPYGとして、萩原が参加できないときには沢田研二と井上堯之バンド(またはグループ)として活動するようになり、その名義でのシングルも並行して発売され、「許されない愛」「あなただけでいい」など現在も「沢田研二のヒット曲」として広く認知されているヒットシングルを輩出した。1972年3月11日発売のセカンド・シングル「許されない愛」(作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)がヒットして、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGとしての活動は形骸化していく。結局、1972年11月21日発売のラストシングル「初めての涙」(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を最後にPYGは自然消滅の形で終焉。沢田研二は本格的にソロ歌手へ、萩原健一は俳優へ、そして残りのメンバーはそのまま井上堯之バンドに移行する。
しかしながら、これはこのシングル「初めての涙」以降、一度も「PYG」名義でのレコード発売がなされていないのと、1972年夏の「日劇ウエスタン・カーニバル」を最後に「PYG」としてのステージ・テレビ出演が一度もない(1972年12月の「日劇ウエスタン・カーニバル」には「沢田研二と井上堯之グループ」として出演)ことを根拠に、結果論的に「消滅」あるいは「解散」となったものであり、それ以降の1973年から1975年頃までにおいても、PYGのオリジナル曲やレパートリーを積極的にコンサートに取り上げていたり、沢田が雑誌インタビュー記事などで時折、井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」などと表現していたり、「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見される。このことから、仲間内での意識は1973年以降もしばらく「PYG」のままであり、萩原が一緒に参加できれば「PYG」としての活動もしていく意向はあったよう、1975年に岸部一徳が井上堯之バンドを脱退し俳優に転向するまで、仲間内での意識はPYGのままであったようである。また、1973年1月7日放送のNHKステージ101では、「沢田研二」と「井上尭之バンド」として出演している。(この日は「あなたへの愛」も演奏した)
解散後、PYGとしての再結成は行われていないが、萩原健一、沢田研二共にソロになってからのコンサートで度々PYGの楽曲を取り上げている。1978年には、名古屋で行われていた萩原健一のコンサートに沢田研二が、また翌日、同じく名古屋で行われていた沢田研二のコンサートに萩原健一が飛び入り参加し、共に「自由に歩いて愛して」を歌い、大口、岸部、原田を除くPYGのメンバー4人揃っての共演が実現している。また沢田研二がヒットシングル「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞した際の授賞式には、萩原健一と岸部一徳がザ・タイガースの元メンバーらとともにステージに上がり沢田研二を胴上げ。バックを担当した井上堯之バンドの井上堯之、大野克夫とともにPYGのメンバー中5人が揃ってステージに上がった。
GS関連では唯一、全メンバーが今現在も音楽界・芸能界の第一線で活躍しているグループであり、再結成を求める声が高い。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] シングル
- 花・太陽・雨/やすらぎを求めて 1971/4/10
- 自由に歩いて愛して/淋しさをわかりかけた時 1971/7/21
- 何もない部屋/もどらない日々(「萩原健一+PYG」名義) 1971/11/1
- 遠いふるさとへ/想いでの恋 1972/8/21
- 初めての涙/お前と俺 1972/11/21
[編集] アルバム
- PYG! オリジナル・ファースト・アルバム 1971/8/10
- FREE WITH PYG(田園コロシアムライヴ盤、2枚組) 1971/11/10
[編集] 関連項目
- 帰ってきたウルトラマン - 第34話「許されざるいのち」にて「花・太陽・雨」が使われた。