Mr.マリック
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Mr.マリック(ミスター・マリック、1949年1月1日(これは戸籍上の誕生日で、実際には1948年12月29日) - )はプロマジシャン。「超魔術師」と名乗る。本名は松尾昭(まつお あきら)、岐阜県生まれ、岐阜県立岐阜工業高等学校卒業。マリックプロモーション所属。
松尾幻燈斎(まつおげんとうさい)、栗間太澄(くりまたすみ)という別名を持つ。「くりまたすみ」は、「みすたまりく」を逆さにしたもの。「マリック」という名前は「マジック」と「トリック」を合わせた造語である。
登場時やマジック披露後には専用BGMが流れる。流す曲はアート・オブ・ノイズ (The Art of Noise) の「レッグズ (Legs)」である。
クロースアップ・マジックで人気のあるふじいあきらはマリックの弟子であり、師匠と共にアシスタントとして出演している番組映像も残っている。2001年までアシスタントとして雇われていたが、周囲に漏らしていた愚痴が師匠に伝わる事を恐れ、逃げ出してしまった。その後、テレビ番組で師匠との競演を果たし、和解した。
愛娘はクラブシンガーのLUNA(1980年生まれ?)。インディーズではシングル・アルバムを発売し、2007年年初にメジャーデビューの予定。
[編集] 経歴
高校卒業後はガス器具メーカーに就職するが、マジックへの夢を達成するために数多くのコンテスト番組で優勝し、ようやく親の理解を得て転職、名古屋のデパートのおもちゃ売り場でマジック用品の店頭販売を始める。
20歳のとき東京に上京し、マジック用品メーカーに勤務する。この年ハワイで初めて開催されたPCAM(環太平洋のマジックアソシエーション)の「クロースアップ部門」コンテストで日本人で初めて優勝。
デパートでのマジック用品店頭販売の後、マジックショップ経営や新人指導、全国でマリックマジック教室を開設。
名門ホテルでのラウンジでクロースアップ・マジックのテーブルホッピングショーを確立しラウンジライブを全国展開する。そのさなかに日本テレビのディレクターと出会いメジャーデビュー。
1988年に『11PM』でテレビにデビュー。クロースアップマジックに超能力的な演出を付け加えた「超魔術」は、マリックが番組制作スタッフらと考え出した造語。ユリ・ゲラーの"超能力"番組を見たのが超魔術を編み出すきっかけになった。
1989年、日本テレビ『木曜スペシャル』でマリック単独の特別番組の放送が始まり、28%を超える視聴率を獲得。「超魔術」「ハンドパワーです」「きてます!!」で一大超魔術ブームを巻き起こした。その後木曜スペシャルは1992年第8弾まで放送された。この年韓国SBSでもマリックのスペシャル番組が組まれ視聴率50.1%を記録する。
1990年にはTM NETWORKの小室哲哉と組んでインストゥルメンタルアルバム『Psychic ntertainment Sound』を出している。その関係で、小室哲哉のソロツアー『Digitalian is eating breakfast』ファイナルに登場し、スプーン曲げやお札を浮かせるなどのパフォーマンスを行ったこともあった。楽屋での打ち上げでもお札を浮かせるパフォーマンスを行い、特に外国人サポートメンバーに好評だったらしい。
しかし、超魔術の演出があまりに「超能力」的過ぎたために、世間では本物の超能力と信じ込む人も多く、ある時期からいっせいに「インチキ」「全て奇術」との批判が始まった。また本人も心霊現象を取り扱う番組にゲスト出演したことがあり、それもバッシングの火に油を注いだ。
ただし、本人はあくまでも「超魔術」だとしており超能力だとは決して言っていない。演技中にしきりに繰り返した「ハンドパワー」の語も、考えてみれば「手の力」という意味であり、手品であることのほのめかしであった。「超魔術」という言葉を使ったのは、「『手品』や『マジック』では大勢の人の関心を惹くことができないから」という理由からであったという。
実際、木曜スペシャルでの特別番組が始まる直前に『巨泉のこんなモノいらない!?』の「超能力」の回で、こんなものは超能力ではないという趣旨で超魔術を披露している。しかしブームの頂点の時代にはNHKでさえ、マリックの超魔術の実演と、アナウンサーが超能力について解説する部分が交互に放送される番組を制作したことがある。
とはいえ、当時、本人はマジックであるとも言わず、「テレパシー」「予知」「透視」「念力・念動力」などであるという趣旨の発言も多く、視聴者の誤解を故意に「誘発」(これも本人の用語)したため、批判されたものと思われる。
この時期、マリックは顔面麻痺を発症し、しばらくテレビ界から遠ざかることとなる。
1993年、『浅草橋ヤング洋品店』『元気が出るテレビ』などのバラエティ番組に進出。
1994年、『なるほど!ザ・ワールドスペシャル番組』Mr.マリックVSトランプマン
1995年、『笑っていいとも!』レギュラー出演、日本古来の奇術や和妻、技の世界を披露した。
1996年、『裸の大将~清の手品はめぐり合い』で役者初挑戦。
1997年、『投稿!特ホウ王国』にて、新しくファニーなキャラクター「栗間太澄」に変身して登場。翌年よりレギュラーで登場した。マリックとは無関係な郵便局員という触れ込みだったが、「みすたまりく」を逆から読んだ芸名と、ハンドパワーを逆直訳した「手力です」のフレーズで正体が分かる仕組みだった。なお、手力は伝統的には手綱(たづな)と同様に「たぢから」と読むが、栗間太澄のキーフレーズとしては「てぢから」である。このころ自ら「マジシャン宣言」をする。以後、再び超魔術師として活動の場を広げる。
1998年、『M-1グランプリ 最強のマジシャン対決』、Mr.マリックが主宰し日本国内の若手マジシャンを集めて、トーナメント方式制限時間3分、不思議な方が勝ちという番組を行った。M-1使用はこちらが早かった。
2000年、『オフレコ』という番組で、マジシャンとしては禁断とされたネタの裏側を見せ視聴者の興味を引き、マリック主役のスペシャル番組『超オフレコ』でマジックのファン層は拡大する。
2001年、『たけしの誰でもピカソ Mr.マリックスペシャル』が放送され、テレビ東京はドーハの悲劇以来の19%を超える視聴率を獲得する。 TBS 『超オフレコ2時間スペシャル①、②』 テレビ東京 『Mr.マリック☆魔法の時間』初の冠レギュラー番組スタート、1年続く
2002年、『Mr.マリック 世界・魔術大博覧会』BS-iで3夜連続6時間に渡り世界の魔術の歴史、その時代ごとのマジシャンたちの英知を詳細に解き明かした番組を放送する。
2003年、1月TBS 『Mr.マリックvs全米No,1氷男デビット・ブレイン!』、2月テレビ東京『たけしの誰でもピカソ、Mr.マリック超魔術スペシャル第4弾』、4月NTV エンタの神様(レギュラー出演 '03.4 ~ '03.12)で松尾幻燈斎というまたも違うキャラクターに変身しレギュラー出演。仙人のキャラクターで自然を相手に超魔術を見せる。この際は「超魔術」ではなく、「気の極み」と松尾幻燈斎は語っていた。8月テレビ東京 『たけしの誰でもピカソ Mr.マリック超魔術スペシャル第5弾』、フジテレビ『Mr.マリックの大冒険南極大陸!果てしなき超魔術の旅』南極大陸でペンギンを消す超魔術を見せた。10月TBS『Mr.マリックVS“全米最強"クリス・エンジェル超魔術頂上決戦!』海外のマジシャンとの初対決
2004年、1月TBS『Mr.マリックVS新庄&芸能能人大スター軍団対決新春スペシャル』新庄を初の総合司会者として起用! 2005年、4月NHK 『お昼ですよ!』]]レギュラー生出演 『今日の現象!』コーナー、4月、10月、12月TBS 『Mr.マリック対芸能能人大スター軍団』 2006年、8月29日フジテレビ放送の『Mr.マリック VS 世界の超人 異種格闘技戦』。ほか他局でも志向の違ったスペシャル番組4本を精力的に制作
古典奇術を現代的手法・演出で蘇らせる能力が高く、毎年公演されるマリックのライブツアーは高い完成度と不思議さ、楽しさが融合している。また、銀座博品館劇場ではMr.マリック超魔術団公演を旗揚げさせ、内外有力な若手マジシャンとともに、ストーリー仕立てのマジックエンターテイメントに挑戦、ステージでも精力的に活動をしている。
奇術愛好家を増やすための活動や、海外そして国内若手マジシャンとのコラボレーションなども行う。また、歌舞伎、芝居、ユーミンなどのアーティストコンサートの演出も監修する。
CMには、2002年の富士通、2005年のウィークリーマンション東京、2006年のダイハツ工業にそれぞれ出演している。