魏勃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、秦末から前漢初期にかけての武将。
目次 |
[編集] 略歴・人物
[編集] 若き魏勃
『史記』・「斉悼恵王世家」によると、彼の出身地は不詳だが亡父が演奏家で琴の名手だったという。始皇帝は魏勃の父の噂を聞いて、直ちに召し出したという。魏勃の父は咸陽に赴いて、始皇帝に謁見し琴を披露したという。
やがて、父が亡くなった。まだ、若かった魏勃は斉に赴き、斉の丞相だった曹参に面会を求めたが、彼の生家は寒門(貧家)のために、縁故の繋がりがなかった。そこで魏勃は一案を浮かび、早朝と深夜に毎日、曹参の館の門前に清掃した。これを見た曹参の家臣である舎人(属官)は事態が呑み込めず、そこにいた魏勃に問い質した。魏勃はこの時ばかりに「貧乏であるわたしは丞相さまにお目通り願いたく、せめて早朝と深夜に清掃したのです」と答えた。これを聞いた曹参の舎人は「よし、君の心意気が気に入った。丞相さまに会わせよう」と述べて、曹参との面会を叶わせた。
曹参は若き魏勃を見て、共に語り合った結果、これは聡明な人物と判断し、舎人として召し抱えた。数年の歳月が流れ、魏勃は御者として、曹参に従った時にある事項を進言した。魏勃の献策を聴いた曹参は「素晴らしい若者だ」と評価し、彼を斉王・劉肥(悼恵王)に謁見すべく、取り計らったという。斉王も彼を有能な人材と判断して、直ちに内史(検察官)に昇進させたという。こうして魏勃は二千石の禄高を貰い、念願の官僚となった。
[編集] 斉の実力者
やがて、紀元前189年に悼恵王が崩じて、太子の劉襄(哀王)が亡父の後を継いだ。その時には曹参(紀元前190年没)も既に亡くなっていたので、魏勃が斉の実力者となったという。
やがて、哀王は魏勃を中尉に昇進させ、王の母方の叔父である駟釣(後の清郭侯)、郎中令の祝午と共に斉の政権を把握した。
紀元前180年に呂后が死去すると、魏勃は哀王に「わが君、今こそ呂氏一門を誅滅すべきですぞ!」と奮起を促した。同時に駟釣と祝午も賛同し、それで王は同意した。そ時に呂后が監察官として派遣された丞相の召平は只事ならぬと見て、呂産・呂禄(共に呂后の甥)に報告すべく動いた。しかし、魏勃は召平を警戒し、親衛隊を率いて召平の邸宅に押し寄せた。召平は背筋が凍り魏勃に対して「中尉どの、これは何事ですか?」と叫んだ。そこで魏勃は「王の印綬をいただきたい。さらにあなたには今から自決をしていただく」と容赦なく述べた。召平は観念し「ああ…道家の言葉のように決断を早めないと己の身の破滅を迎えるというが、まことにその通りだった」と叫んで、自決した。
間もなく、魏勃は大将軍に昇進し、新しく斉の丞相となった駟釣と内史・中尉となった祝午と共に軍勢を動かした。哀王直々が総大将として長安に向けて呂氏討伐に動いた。
[編集] 魏勃の没落
やがて、漢の丞相の陳平・太尉の周勃・上将軍の灌嬰ら劉邦以来の元勲によって呂氏が滅ぼされると、突如灌嬰は急遽に榮陽で魏勃を召喚した。これは、魏勃が中心となり斉王を煽動したとの報告を聞いたからである。そこで灌嬰は「そちは陛下のお許しもなく、王を煽って動いたと聞くが、これはどういうことか?」と尋問した。魏勃は歴戦の猛者である灌嬰の前で口を痙攣しつつ、震え出してしまい「家が放火した火を消すには、とても報告する猶予はございません」と答えるのが精一杯であった。これを見た灌嬰は笑い出して、魏勃に対して憐れみを感じ「人々は魏勃を賢者と申すが、これは只の凡愚に過ぎん」と述べて、そこで魏勃を懲戒免職にし、庶民に落とした。その後の魏勃の行方は定かではない。
[編集] 魏勃の子孫
以降の魏勃の消息は不詳だが、『三国志集解』と『華陽国志』によると、魏勃の子か孫が華中にある義陽郡に移住したともいわれる。後漢末に庶民出身で、若い頃から大志を持った魏延は魏勃の末裔とされる。