雄山神社
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雄山神社 | |
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所在地 | 富山県立山町岩峅寺 |
位置 | -- |
主祭神 | 天手力雄神 伊邪那岐神 |
社格等 | 式内社・越中国一宮・国幣小社・別表神社 |
創建 | -- |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 4月8日・7月25日 |
主な神事 | -- |
雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県立山町の霊峰立山を神体とした神社である。元明天皇や後醍醐天皇の勅願所であった。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。旧称立山権現・雄山権現。
伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祭神とし、雄山山頂の峰本社、山麓の中宮祈願殿、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県立山町芦峅寺から岩峅寺にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
目次 |
[編集] 中宮祈願殿
かつて仲宮寺と呼ばれた神仏習合の施設。芦峅寺における立山信仰の拠点である。
芦峅寺の信徒は、「一山会」と呼ばれる独自の組織をなしていた。彼らは16世紀以降、諸国配札檀那廻りを行い、立山の縁起図や立山牛王紙、そして薬草や薬紛などを配置し、翌年に代金を受け取っていた。越中売薬の起源とも呼ばれる組織である。
- 所在地 : 立山町芦峅寺
- 本殿の建築様式
- 西本殿(立山大宮・伊弉那岐命):
- 東本殿(立山若宮・天手力雄命):
- 別宮(立山開山堂・佐伯有頼公):
- 摂末社:宝童社、神明社、水神社、閼伽池社、稲荷社、神秘社(山神社)
- その他施設:立山開山御廟、石舞台、斎戒橋
[編集] 峰本社
- 所在地:立山町立山峰1番地(雄山頂上)
- 本殿の建築様式:
- 摂末社:
- その他施設:授与所
[編集] 前立社壇
平安初期に建てられた立山寺を前身とする神仏習合の施設。岩峅寺における立山信仰の拠点であった。
- 所在地 : 立山町岩峅寺1番地
- 本殿の建築様式:檜皮葺き五間社一間向拝付き流れ造り(本殿としては北陸最大の規模)
- かつて存在した摂末社:大講堂、護摩堂、拝殿、法輪堂、水神社、稲荷堂、愛染社、観音堂、地蔵堂、若宮社礼堂など
- その他施設:
[編集] 由緒
創建の年代は不詳であるが、『万葉集』にこの神社についての記載がある。社伝では、701年(大宝元年)、景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、『我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。』という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、703年(大宝3年)に釈教興が勧請したとも伝える。
『延喜式』では小社に列する。越中国一宮とされることがある。1940年(昭和15年)に国幣小社に列格し、戦後は別表神社となった。
立山は古来より、富士山、白山と並ぶ三霊山として全国各地から信仰されて来た。
峰本社は雄山(3003m)山頂にあり冬期の参拝は不可能なため、山麓の岩峅寺に前立社壇を建てて年中の諸祭礼を行なうようにしている。
- 863年(貞観五年):清和天皇により正五位上に昇叙
- 889年(寛平元年):宇多天皇により従四位下に昇叙
- 1190年~1199年(建久年間):源頼朝が前立社壇本殿を再建。
- 1492年(明応元年):足利義稙が前立社壇本殿改修を行なう。
- 1583年(天正11年):佐々成政が再び前立社壇本殿改修を行なう。
[編集] 祭事
- 一月一日歳旦祭
- 一月二日日供始祭
- 一月三日 元始祭
- 四月八日 春季例大祭、神輿渡御
- 四月二十九日 昭和天皇祭
- 六月吉日 五穀豊穣祈願祭
- 六月三十日 夏越大祓式
- 七月七日 産業交通安全祈願祭
- 七月二十五日 峰本社例祭
- 八月二十一日末社 稲荷社例祭
- 八月二十五日末社 八幡社例祭
- 九月十五日摂社 刀尾社例祭
- 十一月三日 秋季大祭
- 十一月吉日 新穀感謝祭
- 十二月二十三日 天長祭
- 十二月三十一日 年越大祓式
- 十二月三十一日 除夜祭
- 毎月一日 月次祭並交通安全祈願祭
[編集] 文化財
[編集] 建造物
- 重要文化財「雄山神社 前立社壇本殿」
[編集] その他
- 重要文化財「木造慈興上人座像」
- 「後光明天皇 御宸筆」
- 「中御門天皇 御末広」
- 「桜町天皇 御冠」
- 「石の狛犬」
- 「探湯の釜」
- 「立山曼荼羅図」
他多数