天津条約
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天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。
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[編集] 1858年の条約
1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。
- 軍事費の賠償
- 外交官の北京駐在
- 外国人の中国での旅行と貿易の自由
- キリスト教布教の自由と宣教師の保護
- 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、ロシアの仲介で1860年の北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島の英国への割譲が追加された。したがって1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。
[編集] 1885年、清国とフランスが結んだ条約
清仏戦争の講和条約。清はベトナムに対する宗主権を放棄、フランスの保護権・中国南部における通商、鉄道建設をみとめた。
[編集] 1885年、清国と日本が結んだ条約
甲申事変後の1885年4月に清と日本の間に結ばれた条約。この条約によって、日清両国の漢城(ソウル)からの即時撤退、将来朝鮮に出兵する場合の相互通知等が約された。
[編集] 関連項目
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