関一政
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関 一政(せき かずまさ、永禄7年(1564年) - 寛永2年10月20日(1625年11月19日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。関盛信(万鉄)の二男、妻は蒲生賢秀の娘。官位は長門守。
幼名を四郎という。父と共に織田信長、豊臣秀吉に仕え、1584年の小牧・長久手の戦いに参加した。
その後、父盛信から家督を譲られ、秀吉の命で蒲生氏郷の与力大名となって九州征伐や小田原征伐に参加し、1591年の九戸政実討伐で功績を挙げたため、氏郷が会津に大領を得ると、白河城を与えられることとなった。
1593年、父盛信が死去。1598年、信濃国飯山3万石へ移封され、同時に豊臣氏直轄領であった川中島の代官にも任じられた。 1600年、美濃国多羅へ移封。
同年の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張国犬山城を守備したが、後に東軍に寝返り、本戦では井伊直政隊に属して功を挙げた。この戦功が認められて戦後、関氏発祥の地である伊勢亀山に復帰を許された。
1611年、伯耆国米子の中村一忠が嗣子無くして早世したため、中村氏が改易となった後を受けて伯耆黒坂5万石に移封されている。1614年、大坂冬の陣では京橋口攻めを担当し、翌年の大坂夏の陣でも京橋口を攻めて戦功を挙げた。しかし1618年、家中内紛のため改易された。
だが、養子(弟勝蔵の子)の関氏盛が近江国蒲生で5000石を与えられ、家名存続は許された。
[編集] 参考文献
- 三ツ村健吉 註訳『勢州軍記 上』三重県郷土資料刊行会、1984年
- 三ツ村健吉 註訳『勢州軍記 下』三重県郷土資料刊行会、1987年