道南十二館
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道南十二館(どうなん じゅうにたて)は、蝦夷地(現北海道)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。15世紀中ごろまでには築かれていたと推定されている。近世の和人地の前身となった。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に記されている。
[編集] 概要
渡島半島の南端にはアイヌ文化成立の前段階である擦文時代には擦文文化と本州土師器文化の間に生じたクレオール的文化である青苗文化が成立していた。鎌倉時代から室町時代中期にかけて、この文化を足がかりにここに和人の移住が起こった。これらの和人は渡党と呼ばれ、津軽安藤氏(安東氏)の支配下に置かれたが、本土の和人からは蝦夷の一部と見なされていた。
1454年(享徳3年)、安東政季は南部氏に追われ武田信広らとともに勢力圏であった蝦夷地に渡り、配下の武将を12の館に配置、1456年(康正2年)に秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)を経て秋田河北地方(後の檜山郡、現秋田県能代市)に南遷する際には、茂別館館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じ、他の館主を統率させたと伝えられている。
翌1457年(長禄元年)蝦夷東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、和人に向け戦端を開いたコシャマインの戦いが発生すると、十二館のうち10までが落城した。翌1458年(長禄2年)に武田信広によってコシャマイン父子が殺されて以降も戦いは散発し、十二館は交戦時の拠点となった。
1496年(明応5年)には、粗暴等行状の悪さを理由に松前守護職であった一族の下国恒季が、蠣崎光広ら配下の蝦夷島館主らにより安東氏に訴えられ、恒季は同年11月、安東氏の手勢により攻められ自害した。
1512年(永正9年)蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(匐時)兄弟率いるアイヌが蜂起し、数カ所の館を襲撃するという事件が起きる。上国守護職であった蠣崎光広、義広親子が撃退し、一時小康状態となるものの、翌1513年(永正10年)には再度攻撃を始め、松前大館が陥落し、松前守護職の相原季胤らが討ち取られた。空き城となった大館には、翌1514年(永正11年)光広が入城した。安東氏は当初これを認めなかったが、再三に及ぶ要請を受け、上国に加え松前守護職への就任を追認、蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認め、その過半は檜山に送られることとした。なお、このアイヌ蜂起を光広による謀略とする説がある。この時点で、十二館のうち松前大館が他の館に優越する体制が固まり、1593年(文禄元年)、松前慶広が秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から名実ともに独立し、続く江戸時代に幕藩体制のもと松前藩として確立すると、十二館はその使命を負えた。
函館市にある志苔館からは、15世紀前半ごろ埋蔵と推定されている越前焼、珠洲焼の大甕3個の中から計40万枚にのぼる主に中国の古銭が発掘されている。これは日本国内で1カ所から発掘された古銭としては最大級の量である。
[編集] 館一覧
館名称 | コシャマインの 戦い当時の館主 |
現在地 | 築造 | 史跡指定 |
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志苔館 | 小林太郎左衛門良景 | 函館市志海苔町・赤坂町 | 14世紀後半から末頃 | 1934年8月9日 国指定史跡 |
宇須岸館(箱館) | 河野加賀右衛門尉政通(下国守護補佐) | 函館市元町 | 1445年(文安2年)? | |
茂別館 | 下国安東八郎式部大輔家政(下国守護) | 北斗市矢不来 | 1443年(嘉吉3年)? | 1982年7月3日 国指定史跡 |
中野館 | 佐藤三郎左衛門尉季則 | 木古内町中野 | ||
脇本館 | 南條治郎少輔季継 | 知内町湧元 | ||
穏内館 | 甲斐守季直 | 福島町吉岡 | ||
覃部館 | 今井刑部少輔季友 | 松前町東山 | ||
大館 | 下国山城守定季(松前守護) 相原周防政胤 |
松前町字神明、字福山 | 1400年(応永7年)? | 1977年4月5日 国指定史跡 |
禰保田館 | 近藤四郎右衛門尉季常 | 松前町館浜 | ||
原口館 | 岡辺六郎左衛門尉季澄 | 松前町原口 | ||
比石館 | 厚谷右近将監重政 | 上ノ国町石崎 | ||
花沢館 | 蠣崎修理大夫季繁(上国守護) | 上ノ国町上ノ国 | 15世紀頃(1443年(嘉吉3年)?) | 2006年3月31日 国指定史跡 |