松前慶広
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松前 慶広(まつまえ よしひろ、1548年10月4日(天文17年9月3日) - 1616年11月20日(元和2年10月12日)、正しくは「慶廣」)は蠣崎季広の三男で、蝦夷地(のちの北海道)の大名・松前藩の初代藩主。幼名は天才丸(てんさいまる)。
[編集] 経歴
1583年、父・季広から家督を譲られて当主となる。1590年12月に上洛して豊臣秀吉に謁見し、所領を安堵され、同時に民部大輔に叙任された。これにより名実共に安東氏からの独立を果たしたと見られている。1591年、南部氏の家臣・九戸政実が反乱を起こすと、その鎮圧で活躍している。1593年には、秀吉から全蝦夷地(樺太・北海道)の支配権を与えられた。朝鮮出兵にも、兵を率いて肥前国名護屋城に参陣した。
秀吉没後は徳川家康と通じ、1599年、姓を松前に改めた。さらに家康の臣従を示すものとして、「蝦夷地図」を献上している。1605年、それらの功績から家康よりアイヌ交易の独占権を公認され、さらに伊豆守に叙任された。大坂の陣にも、徳川方として参陣し、松前藩の基礎を築き上げた。
1616年、剃髪して海翁と号し、孫の松前公広に家督を譲ってまもなく没した。松前藩の基礎を築き上げた名君として、その政治力を高く評価されている人物である。