安東政季
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安東 政季(あんどう まさすえ、生年不詳 - 1488年9月15日(長享2年8月10日))は、陸奥、蝦夷地、出羽の豪族、戦国大名。檜山系安東氏の第4代当主。初名を師季といった。安藤重季の子で安東忠季の父と伝えられるが異伝も多い。
安東氏は元々陸奥津軽十三湊付近を根拠とし、蝦夷地との交易を中心とした海上交通に従事する海の豪族であった。安藤盛季(檜山系初代)の代に至り、弟を分家させ、出羽秋田郡まで勢力を拡げ、檜山系第2代安藤康季の時代には後花園天皇からも奥州十三湊日之本将軍と認められるなど、勢威を振るったが、康季の子義季は、南部氏との抗争に敗れ戦死し、ここに安東氏の直系下国家は一旦絶えた。
詳細な経緯は不明であるが、盛季の弟潮潟四郎道貞の子重季の子であった政季は、義季の養子を名乗り直ちに下国家を再興。一説には、南部氏により下北半島に所領を与えられていたとも伝えられている。
1454年(享徳3年)、南部氏との戦いに破れると武田信広とともに下国家の勢力圏であった蝦夷地に渡り、被官であり娘婿であった上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。武田信広は後に蠣崎季繁の養女となった政季の娘(一説に政季弟家政女とも)と婚姻している。
1456年(康正2年)、政季は茂別館館主の安東家政(下国守護)、義季の弟とも伝えられる大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じ、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移り、間もなく秋田河北地方(後の檜山郡、現秋田県能代市)の葛西秀清を滅ぼし、檜山を本拠とした。
その後は南部氏から津軽の回復を図り、勢力拡大に努めるが、1488年9月15日(長享2年8月10日)河北糠野城で家臣の長木大和の謀反にあい自死したと伝えられている。
なお、政季の蝦夷地退転の翌年にコシャマインの戦いが発生している。 また、1482年(文明14年、成宗13年)の夷千島王遐叉の朝鮮遣使を政季によるものとする見解が一部にある。
カテゴリ: 人名関連のスタブ項目 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 安東氏 | 戦国大名 | 1488年没